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ジョングルール ~ハーメルンの笛吹き男~  作者: 凪茶房
第一章 靴屋のネオは放浪楽師の少女のために靴を作る
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聖ボニファティウス律院

神父さま(ファータ・エーリッヒ)、すみません。もっと早く返しにきたかったんですが」

「かまわんよ。そもそもこれはネオ君の持ちものだ。……ただ、街では良い顔をされないだろうから、気をつけるんだよ」

「すみません」

 重ねた謝罪に、穏やかに微笑んで聖書を受け取る初老の男は、(サンクト)ボニファティウス律院の司祭、エーリッヒ神父である。すらりとした長身に白髪と白髭、それらをきっちりと刈り込んだ面長な風貌は、神聖ローマ帝国の出張所でもある律院の神父に相応しい。

 とはいえ、その律院も、ミサをはじめとする主だった仕事が街の中心のニコライ教会に移った今では、すっかり地味なものとなっていた。石造りの建物が醸しだす荘厳さとは裏腹、院長ヴェデキントをはじめ、エーリッヒほか十人程度の神父によってひっそりと運営されているのみ。揉めごとが起きたときに開かれる裁判や、一日に八回の鐘を鳴らす以外には、ニコライ教会の神父のように市井の生活に口を挟んだり、威張り散らしたりもしない、静かな存在だった。

 そんな聖ボニファティウス律院のエーリッヒ神父は、ネオの両親が死んだときから細やかに気を配ってくれる、数少ない相談役である。というのも、ネオの父親は靴職人の親方であるにも関わらず、新しいものや変わったものを好む男だったために、他界したあとは苦労が耐えなかったのだ。形見としてネオに残したこの聖書は、その代表ともいえる。

 ネオは子供の頃から、父親からはザクセン語の読み書きを、母親からはラテン語を教わっていた。ザクセン語のほうは、識字率こそ低いもののザクセン地方における話し言葉だから、それほどの苦労はしなかった。が、しかし、ラテン語のほうはそうはいかなかった。

 まず、ラテン語など覚えても聖書を読む以外に使い道がない。知識だけあってもなんの役にも立たない外国語である。両親共にこの世を去ったあとは、まともに教えてくれる教師もおらず、中途半端な知識でたどたどしく聖書を読み返すのが関の山だった。

 もっとも、当のネオにとっては、聖書はおろか文字を読み書きできることなど厄介事の種でしかなかった。というのも、ザクセン語もラテン語も、実際のところ、ただの職人に必要なものではないからだ。事実、父親が死んだあと、この読み書きのせいでずっと酷い目にあっていた。

 ニコライ教会にとって、聖書やそれを読むためのラテン語は、言わば商売道具で、専売特許だ。当然、一介の靴職人の徒弟がそれを読み上げることができる状況を好ましく思うはずがない。その理由も、ネオはなんとはなしに理解していた。

 ひとつには、ネオの持つ聖書が立派すぎるからだ。ネオの聖書は、ニコライ教会に通う学生たちが写本するのに使うような羊皮紙ではなく、紙で作られている。だけでなく、薄く削られた木板の表紙に獅子の紋章まで焼き入れてある。ひと目でわかるほどの、とんでもなく高級なものだ。教会にとっては権威の象徴、ステータスシンボルともいえる聖書である。どこぞの徒弟が、より立派なものを持っているなど、苦々しいことこの上ないに違いない。

 それだけではない。もっと大きな理由がある。実のところ、聖書に書かれている内容と、教会の神父が唱える説教とでは、微妙に趣旨が異なるのだ。聖書は確かに清貧をもって善しと説いてはいるが、だからと言って「教会に財産を喜捨しなさい」などとは一言も書いていない。聖書を厳密に解釈すると、喜捨を募り、富を蓄える教会こそが、最も天国から遠い存在となってしまうではないか。ニコライ教会の立場からすれば、できる限り一般市民からは聖書を遠ざけて、手の届かないものにしておきたいのだろう。

 それが当たっているかどうかはともかくとして、事実、ニコライ教会の神父はミサの席でネオの顔を見る度に露骨に苦い顔をした。ネオの視線があると、喜捨の勧めもやりにくくて仕方がないと言わんばかりだった。

 教会だけではない。数年前に結成された靴職人の組合(ツンフト)においては、ネオはそれ以上の厄介者となっていた。ツンフトにはラテン語どころか、ザクセン語を読み書きできるものさえほとんどいないのだ。ごく一部、市参事会と直接交渉するような幹部が覚えているのみである。大半の親方も、ひと通りお金の勘定ができるという程度だ。そんな中、一介の徒弟がたどたどしいながらも複数の言語を読み書きできるとなると、なにが起きるだろうか。

 なんのことはない、ニコライ教会と同じである。正確に文字を読み書きできるものがいると、親方が職人に支払う賃金を誤魔化しにくくなる。ツンフト規約にしても、親方が読めないのに徒弟が読めるというのは、いかにも都合が悪かろう。ネオがなにをするまでもなく、叔父をはじめすべての親方にとって、ネオの持つ言葉の知識そのものが、ある種の脅威だった。結果、ネオの存在は不要な緊張を呼び、ツンフト内におけるネオの立ち位置は最悪なものとなってしまった。

 つまるところ、聖書もラテン語もザクセン語も、ネオにとってなんの役にも立たないどころか、ネオの穏やかな生活を阻害する、とてつもなく邪魔な重荷でしかないのだ。それでもこの重荷を売りもせず、喜捨もせず、巻き革を仕入れた帰り道に水車小屋の横で開くのは、父親のみならず母親までもが最後までネオに願い続けた遺志だからだ。

 難解なラテン語は、とても独力で学べるものではなく、母親はネオと過ごす時間の多くをラテン語の教師として使っていた。つまり、ラテン語の知識は母親の記憶そのものでもある。簡単に放り出せるものではなかった。両親はつましい靴職人としての生活から抜け出すことでも夢見ていたのだろうか。しかし、遂にその夢は果たされることなく、最も厄介な重荷だけがネオに託されてしまったのだ。


 厄介ではあるが大切な形見の聖書を、無理やり売り払おうとする叔父から取り戻してくれたのは、目の前にいるエーリッヒ神父だった。そして、普段は律院に預け、人目の少ないところでひっそりと読むことを薦めてくれたのもこの神父だ。紙の聖書など、貴族や教会のステータスシンボルといっても良いほどの貴重品だ。そこいらの工房に置いてあったら、いつ泥棒に入られるか知れたものではない。聖書の内容についてみだりに喋らないことや、ラテン語やザクセン語を読み書きできることをひけらかさないよう助言してくれたのも、やはりこの神父である。

 なによりも、ハーメルン市で最も権威を持つ律院に懇意の神父がいるという事実は、ネオの立場がある程度以上悪くなることに歯止めをかけていた。ネオがハーメルン市でどうにか教会やツンフトと揉めることなく過ごしていられるのは、すべてこの神父のおかげと言っても過言ではない。

「ところで、」

 その神父が不意に切り出した。

「街の外は、どうかね?」

「どう、とは?」

「う、む。たとえば……そうだな、水車小屋を怖いとは、思わないかね?」

 ネオには質問の意味が今ひとつ分からない。あるいは、頻繁に水車小屋を眺めていることについて咎められているのかも知れない。やはり、律院としては望ましくないのだろうか? しかし、それがまずいのであれば、親切なエーリッヒ神父はきちんと教えてくれるだろう。そう思い、素直に答えた。

「街から離れなければ、それほど。水車小屋も、その……別に、嫌いじゃないです」

「そうか。やはり、大した肝だな」

 嘘ではない。水車小屋のことはさておき、街の外に関しては、おそらく大半の人間が同じように考え、同じように答えることだろう。そもそも市民にとって、街から出ること自体はそれほど恐ろしいことではない。でなくては、森に焚き木を拾いにいくことも、三叉路で行商人の売り物を見ることもできない。少なくとも、晩課(終業)の鐘〔午後六時ごろ〕が鳴るまでの間は、街から多少離れたところで、ことさらに危険を感じるものはいないだろう。

 だが、問題は鐘のあとだ。夕暮れの鐘が鳴ってからは話が別である。この鐘の後に街の外に出ることなど、絶対にあり得なかった。エーリッヒの言う「街の外の恐怖」とは、「晩課の鐘が鳴るまでに街に戻れない恐怖」と言い換えることができる。言わば、晩課の鐘とは人の営みがもうすぐ終わりを告げるぞという予兆である。晩課に続く終課(就寝)の鐘〔午後九時〕が鳴り終わった瞬間に、人間の時刻は消滅する。街の外は人ならざるもの(トイフェル)の世界となるのだ。

 森は木々がのたうつ狩魔王の狩猟場となり、人狼は獣の姿へと戻り徘徊し、水車小屋の周囲では水妖(ニクセ)が踊り狂う。だけでなく、その気配は分厚い壁を通り抜けて、街の中にまでしんしんと及んでくる。ゆえに終課の鐘のあとは、街の中ですらもひっそりと静まり返る。あらゆる店や工房は鎧戸をかたく閉じ、家々も夜の気配が家の中に入ってこないよう、窓を羊皮紙でぴっちりと塞ぐ。

 いくら水車小屋に物怖じしないネオでも、夜に街の外を歩くような度胸は持ち合わせていない。いや、それは度胸でもなんでもない、ただの自殺行為だ。

 だが、それ以上の追求があるわけでもなく、ネオは挨拶をして律院を出た。出る際に、背後から声をかけられた。

「今年はユダヤ教徒が多いようだ。どうも、いつもと様子が違う。……あるいは、ネオ君の肝を借りることになるかも知れんな」

 いつもと違う? なにが? 肝を借りる? どういう意味だろう? こんな言い方をエーリッヒ神父がするのは珍しい。怪訝な顔で振り返るが、エーリッヒ神父はそれ以上のことは言わず、穏やかに微笑みながら見送っていた。


 確かに。いつもと違うといえば、違う。

 放浪楽師たちが来訪するこの時期は、街への人の出入りも増え、物乞いを含めて見慣れない顔が多く見られるものだ。しかし、今年はその中に、顎髭をぼうぼうに伸ばし、とんがり帽子にだぶだぶのローブと言ったいでたちが目立つ。その風貌も独特で、ハーメルンの住民に比べて、大きな目玉がギョロリと張り出し、総じて寡黙である。

 彼らはユダヤ教徒だと、かつて父に教わった。彼らは互いに「ゲットー」と呼ばれる独特の連帯意識を持っており、ゲットーの外の人間に対しては頑なに心を閉ざすのだという。彼らの姿が目立つのは世の中が乱れる凶兆であると、そんな占いじみた話も囁かれている。それが嘘か真かネオには知る由もない。しかし、祭りの多いこの時期特有の高揚感の中、明らかな「余所者」が増え、なんとも言えない不穏な空気が漂っているのは、まぎれもない事実だった。


 律院に聖書を返し、ベッカー通りを工房へと戻る途中。カキンカキンと甲高く響くのは、水車小屋で回す巨大な石臼を削る石工職人の槌の音だ。その向こうでは、やはり専門の職人が数人がかりで水車を組み上げている。いつもの風景を横目に歩いていると、

「あ! こびとさんだ! くつやのこびとさんだ!」

 二、三人の子供たちがからかうように呼んで、ネオを追い抜いていった。これもまた、いつもの風景だ。手を振ろうかと思っている間に走り去り、見えなくなってしまった。

 こびとさんとは、近隣のおじさんやおばさんによって、いつの間にか付けられていたネオのあだ名である。物心ついた頃には、すでにこう呼ばれていた。

 子供たちも、その奇妙な呼び方を面白がって真似ているのだろう。まがりなりにもキリスト教の街においてこびと(ツヴェルク)など、まるで化け物(トイフェル)のような響きではあるが、しかしその呼び名に悪意は感じなかった。他ならぬネオも、子供の頃から耳慣れたこの呼び名を憎からず思っている。そこには、ネオがかつて父親の隣で一緒に靴を縫っていた「小さな靴屋さん」だったと言う以上の、深い意味が込められていることを知っているからだ。

 突然、

「こびとさん、ねえ。これまた、ずいぶんと見込まれてるようですなあ」

 いつの間に並んでいたのか、どこかで見た青年が人なつこい笑みを浮かべて一緒に歩いていた。驚いて距離を取ろうとするネオだが、それよりも先に青年が大仰な挨拶をした。

「改めまして、ごきげんよう。あっしは、レ・ジョングルールの笛吹き、ティルと申しやさぁ」

 それで思い出した。朝に橋の上で会った一座の一人だ。埃まみれのマントを脱いでいたので、印象が変わっていたのだ。

 見たところ、やはりネオよりも四つ五つ歳上といった風貌だが、からからとした喋り方はいかにも世の中を渡り慣れて、性格もすっかりこなれている様子である。しかし、そのティルが、どうして突然ネオに話しかけてきたのか? しかも、いつの間にか背後に近づいてくるなんて、悪趣味なことこの上ない。ネオの怪訝な表情に、さすがに自分の不審さに気がついたのか、ティルは慌てて弁解をはじめた。

「ああ、いや、なに。シュタイナウの旦那が靴を調達しとけってがなりやがるもんでね。使い走りって奴でさ。んーで、えーと……そのー、こびとさん(ヘル・ツヴェルク)?」

 もちろん、それが本名のわけがない。わかった上で聞いているのだろう。

「……ネオです」

「うひひ、そりゃそうだわな。んーなわけでね、腕のいい靴屋を探してたんでさ。そんなところに見たことのある顔が律院から出てきて、おまけに靴屋のこびとさん、ときたもんだ」

「ええと、こびとさんっていうのは、」

「あ、いやいや、わかってやすって。ネオさん(ヘル・ネオ)、あっしも長いこと旅の身でさぁ、あっちこっちの街で、そりゃーもー色んな『こびと(ツヴェルク)さん』を見てきたもんでね。大概のところはわかりやすって」

 一方的な物言いだが、ティルはネオの言わんとしていることも、そしてその意味もわかっている様子だ。からりとした率直な態度に、ティルに対する好感がほのかに湧くのを感じた。

 街のおばさんによる「こびとさん」と言うあだ名は、ネオに対する親近感のあらわれなのは間違いない。しかしその裏には、ネオを徒弟としてただ働きさせる叔父に対する皮肉が混じっているのだ。

 一応秘密ということになってはいるのだが、実のところ、叔父もその息子――つまりネオの従兄――も、革の靴を作ることができないのだ。ネオの父親から親方株を相続しただけの叔父は、ろくな修行も積まぬままに親方となっていた。よって、革の扱いはすべてネオに任されており、叔父と従兄は布の靴ばかりを作っている。もちろんそれは、靴屋としてはあり得ない体たらくである。そればかりか、叔父はネオの作った革靴のできばえを褒められた際に、「すべて徒弟に作らせて、自分は革を扱えない」と正直に白状するわけにも行かず、「ひとえに神のご加護の賜物でして……」などと言って誤魔化しているそうだ。なれば、神の加護を実現しているネオは、まさしく「靴屋のこびと」と言えよう。

 当たり前だが、大声で言える話ではない。ネオ自身も、一度たりとも吹聴したことなどない。しかし、店を兼ねた工房は例外なく表から丸見えなのだ。叔父や従兄が革を扱っている姿がまったく見られないとなれば、この靴屋に革靴を作ってくれる「こびとさん」がいると言うことは、毎日見ている住民であれば誰だって気づくことである。

 このあだ名は、「こびとさん」の手伝いがなければ靴屋としての体裁を保つこともできぬ情けない親方に対する皮肉であると同時に、ネオの靴職人としての腕前に対する惜しみない賞賛の言葉でもあったのだ。

 ティルの言葉から察するに、こんな光景はあちこちの街で見られるものらしい。どこの街でも、威張り腐るものほど能を持たず、一生懸命に働くものが不遇な扱いを受けるというのは変わらない真理らしい。そしてティルもまた、ネオが「こびとさん」と呼ばれる様子から、靴屋としての腕前を敏感に嗅ぎとり、これ幸いとばかりに声をかけてきたのだろう。

 となれば、

「店は、あそこです」

 今いるベッカー通りを少し北に行った角に、やたらに派手な屋根が見える。色とりどりの布で飾った鎧戸を跳ね上げて屋根にした、爪先の尖ったクチバシ靴を意匠した看板をぶらぶらと下げている店が、ネオの指差す先にあった。

「あそこで代金を払って……ええと、革の靴ですよね?」

「もちろんでさ」

「だったら、店の角を裏通りに曲がった先に僕の工房があるので、そこで渡せます」

「なぁるほどねぇ。こりゃ確かにこびとさんだわ」

 革の匂いを嫌い、表通りの華やかな店からネオの工房を遠ざけていると言う事情も、一瞥しただけで看破している様子である。

 ネオもまた、ティルの鋭い観察眼と洞察力に舌を巻く思いだった。この青年は、見せかけや態度だけでなく、本当にあちこちの街を流れ歩いているのだ。

「それにしても、なんですな。まだら男(ブンディング)の話だけでも充分に物騒だってぇのに。それに加えて靴屋のこびと(ツヴェルク)さんとは、ハーメルンの街もつくづく話の種に事欠かないですなぁ」

「……」

 軽い調子のティルの言葉だが、ネオは敏感に反応した。放っておくべきか、それを言うべきか、少しだけ迷ったが、わずかな情報だけで自分を評価してくれたティルに対する好感の方がまさった。

「ティルさん。それ、あまり大声で言わないほうがいいですよ」

「おおっと、こりゃ失礼。ネオさんも気にするたちで?」

「僕は、別に……。ただ、お年寄りは耳にするのも嫌がりますから。放浪楽師の口からそんな言葉を聞いたとあったら、問答無用で追い出されかねませんよ? ……特に、今年は気をつけたほうがいいです」

「おんや。噂には聞いてやしたが、今年が例の二十四年目だってのは、本当なんですかい」

 ネオの言うことは、誇張でも脅しでもなく、真実だった。そうでなくとも、放浪者の立場など、風に吹かれる木の葉のように脆いものなのだ。しかし、いかに年寄りがこの話を嫌うとはいえ、人の口に戸は建てられない。どこからともなく、誰ともなく、ネオもこの街で起きた事件のことを聞いていた。

 他でもない、まだら男(ブンディング)――あるいは笛吹き男と呼ばれる人物が起こした誘拐事件の話だった。

 今から二十四年前と言えば、ネオが生まれるよりも十年前になる。

 そもそものきっかけは、ハーメルン市の住民がまだら色の服を着た笛吹き男に対して、酷い不誠実を働いたことだと言う。

 怒った笛吹き男は、街で行われた結婚式の日にあらわれて、魔法の笛を吹き鳴らした。すると、街中の子供たちが集まり、まるで催眠術にかかったように男の後に付いて行った。そして、街の東門から出ていった子供たちの行列は、コッペンブリュッゲと呼ばれる丘の付近で、忽然と姿を消した。

 目の見えない子供と、口の利けない子供が一人ずつ帰ってきたのみで、それ以外の全員は、二度と帰って来なかった。文字通りの神隠しとなってしまったのだ。

 大人たちの必死の捜索もむなしく、子供たちの行方は杳として知れなかった。

 その数、百と三十名。今では生きているかも定かではないが、すでに天に召されたものとして、全員の名前がニコライ教会の石碑に刻まれている。

 それが、二十四年前にこの街を襲った事件である。

 果たして、笛吹き男とは何者だったのか。ハーメルン市の住民の不誠実とはなんだったのか。子供たちはどこへ消えたのか。生きているのか、死んでいるのか。そもそも、子供たちが笛吹き男について行くのを、親たちは黙って見ていたのか。コッペンブリュッゲの丘で忽然と消えたとは、実際にはどんな光景だったのか。今では噂が噂を呼び、憶測ばかりが飛び交っている。

 子供を怖がらせるための、あるいは不誠実を戒めるための、まったくの作り話だという人もいる。しかし、街の年寄りがこの話を蛇蝎の如く嫌っているのもまた、事実である。子供を失った当時の親たち――すなわち今の年寄りたち――。彼らは、なにかを知っているのだ。

 若者が詰め寄って、真実を聞き出そうとしたこともあったそうだ。それでも、重い口から漏れだした言葉はわずかだった。

「わしらが裏切ったから、恩を仇で返してしまったから、悪魔になって子供たちをさらって行ったんじゃ」

 どうやら、ここにはよほど後ろめたい秘密があるらしい。その年寄りの様子も、まるで見えない悪魔を恐れるようだったと言う。

 いったい、誰が悪魔になったというのか。いったい、住民たちの裏切りとはなんだったのか。老人のいう「恩」とは、なんだったのか。謎は増えるばかりだったが、しかし、それ以上のことを聞き出せたものはいなかった。

 しかし、この事件がこれほど忌避される背景には、更に大きくおぞましい暗闇があるのだ。

 二十四年前の事件の、更にその二十四年前。つまり、今から四十八年前ということになるが、その年にもなにか事件があって、笛吹き男に率いられた大勢の子供がいなくなったと言う。もはや、当時のことを語るものはほとんどおらず、一部の年寄りだけが断片的に伝えるのみだった。

 この街では、二十四年に一度、子供たちがいなくなる。

 いつともなく、こんな迷信じみた噂が囁かれるようになったのは、むしろ自然なことなのかも知れない。ニコライ教会の説法によれば、この話をすると悪魔が喜んで集まってくるそうだ。そんな風聞も手伝い、今ではこの話は影でひっそりと囁かれるのみだった。街の年寄りだけでなく、教会までもが悪魔の呪いを恐れて口に出すことを憚っている。

 こんなピリピリした状況で、街に来たばかりの放浪楽師がそんな剣呑な話を大声で吹聴していたとなると、街に来たばかりなのにいきなり追い出されかねない。ネオが注意したのは、僅かの時間でネオの靴屋としての腕前を見抜き、この先、お客さんになってくれそうなティルに対する好意でもあった。


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