靴屋の選択
「ティルさん……本当に、一緒には行かないんですか?」
「ええ。あっしはこれから、ちょいと忙しくなりそうなんでね。それに、あっしと一緒だと、いいことばかりじゃねっすから。……ここらでスパッと別れときましょうや」
かつてネオがイルゼをともないバグパイプや剣の特訓をしていた丘の近く。短い間とはいえ師匠だった遍歴職人の青年は、馬上のまま別れを告げていた。なんでも、これからはるか東のマクデブルクに戻らなければならないとか。
「気になってたんですけど……ティルさん、あの話は、どこまでが本当なんですか?」
「あの話って、どの話でさ」
「ええっと……ティルさんがマクデブルクの司教さまの代理人だとか、今回の事件をマクデブルクに告発するとか」
ティルの顔が皮肉っぽく、にやりとした。
「ネオさん、アンタもなかなか分かってきたようですなあ。……その通り、多少盛ってたのは事実でさぁ。でもまあ、この話をブルヒャルトの旦那が気に入ってくれれば、あっしが代理人『だったことになる』って程度には、本当も混じってやすがね」
「……?」
なんだか、ますますわからなくなってくる。つまり、あれは本当だったということなのか?
「うーん。なんつーかね……。そこいらで美味い話を見つけたら、ブルヒャルトの旦那のお手柄ってことにして片付けてるんでさ。今回の件も、二十四年前の件も、ブラウンシュヴァイク公国では『マクデブルク司教ブルヒャルト三世の功績』ってことになるわけだ。旦那は指一本動かさないどころか、本人も知らないうちにお手柄だけをせしめてるってな寸法で。その見返りに、あっしは勝手気ままに遊ばせてもらう……。とまあ、だいたいこんな感じっすかねえ」
「…………」
さすがに、呆れるほかない。まったく、世の中には奇妙な人間がいたものである。それで好き勝手に悪戯をして回るティルもティルなら、それを許すどころか利用している司教も司教だ。しかし、そのティルと背後にいるマクデブルクの司教によって――おそらく当人はまだ想像すらしていないのだろうが――大きく助けられたことは間違いなかった。呆れはしても、感謝以外の感情が生まれようはずもない。
「まあ、色々な意味でシャレのわかる御仁なもんでね。もしも、東に向かう途中でマクデブルクに寄ることがあったら、一度会ってみるのもいいですぜ? ブルヒャルトの旦那は、放浪楽師だの奇術師だのが大好物だ。歓迎されること請け合いでさ。……そいじゃ、あっしはそろそろ行くとしまさぁ」
言って、手綱を引いた。馬がブルルと鼻を鳴らし、それが別れの合図となった。去っていくティルの背中に向かって、叫んだ。
「ティルさん! ありがとうございました! この御礼は、いつか必ず!」
「あっしは、確かにそこにいたんで! そのことを忘れないでくれれば、それで充分でさぁ!」
言い捨てて、そのまま馬を駆っていった。確かにそこにいた? いったいどういう意味だろう? 最後の最後まで謎の多い青年だった。でも、それがあの青年の願いだというのなら、
「忘れません。……ずっと」
つぶやいたが、背後のシュタイナウの声がそれを意外な形で肯定した。
「まったく不思議な奴だよな……。もっとも、こんなことされちゃあ、忘れようもねえよなあ」
放り投げてきたのは、すでにネオの手にも馴染んだバグパイプである。見れば、その革袋に、大きくなにかの紋章が焼き入れられていた。丸いなにかに止まった、丸っこい鳥。
「これは……? フクロウと……窓?」
「フクロウと鏡、だとよ。あいつは去って行くときに、必ずそうやって自分のいた証を残していきやがるそうだ。俺も見るのははじめてだけどな。まあ、バグパイプの飾りとしちゃ、なかなか洒落てんじゃねえのか?」
ティルの乗った馬が小さくなっていく。こうなると、小麦畑の景色も少し寂しく見える。それで、ふと思い出した。
「そういえば……。飢饉はどうなるんでしょう」
「ああん?」
それは、東方植民が失敗したときからネオの心に引っかかっていたことだった。
確かに東方植民はエーリッヒの作り話だった。しかし、流れ者の中に見られるユダヤ教徒の数が増えていることは、疑いようのない事実なのだ。それは確かに、静かに飢饉の到来を告げていた。
目の前の小麦畑も、別離のために寂しく見えるのではなく、もしかしたら本当に小麦の育成が悪いのかも知れない。
「ネオ、お前なあ……。俺にはなんだ、一三〇人ばっかしを『一人で背負いきれるもんじゃないんですー』なんて言っといてよ、テメエはいったい何万人を背負い込むつもりなんだよ」
「う……」
「それこそ、一人や二人がジタバタしてどうにかなるもんじゃねえんだ。どうやったって、なるようにしかならねえよ。むしろ、テメエが干上がらねえ算段でもしとくんだな」
乱暴な言い草ではあるが、確かにその通りだ。事実、ネオは一〇〇人の子供たちでさえも背負いきれたとは言いがたい。そんな体たらくで、何万人もの心配をするなんて、いったい自分は何様のつもりなのか。神さまでもない限り、こんな心配をしたところで仕方がないのだ。
元より、ひとりの人間が背負いきれるものなど、たった一人分でしかないのだ。それを大切な人を支えるために使えるのなら、上等と言うものだ。そして、その相手も自分を支えてくれるとあれば、もはやこれ以上の幸せなど、なにひとつ望めまい。
見知らぬ人の心配をする前に、まずは自分と、自分の大切な人を守っていこう。とにもかくにも、それができなくては話にならないのだから。まずは、愛するイルゼとともに、一歩ずつ、確実に歩いていこう。
小麦畑の果てに小さくなる影を見つめながら、そんなことを思った。
「さーて、あたしたちも、そろそろ行くとしましょうか。もう急ぐこともないし、あちこちの街や村で稼ぎながら、ね」
「そうだな……。例の頼まれごとも無事に終わったことだ。もっとも……次の約束が待ってるがな。だが、こっちは腰を据えていかにゃならん。とりあえずは、ホルティスミンネか」
頼まれごと。その言葉にネオは思い当たるものがあった。確か、牢獄でアマラがそんな言葉を口に出していたはずだ。
もしも、シュタイナウが誰かに頼まれて、ネオを守るためにハーメルンの街にやってきたのだとしたら、それを頼んだのは、いったい誰だろう? ……とはいえ、ネオに思いつくのはひとりくらいしかいない。
「例の頼まれごとって……ホーエンおじさんですか?」
「いんや、ジジイじゃねえよ。……頼んだのは、お前の親父とお袋さ」
「父さんと、母さんが?」
「そうだ。お前が生まれたばかりのとき、アェルツェンのお屋敷でな。イルゼに会うよりも、ずっと前さ。……この子を、エーフェルシュタインの宿業から守ってやって欲しい、そんなことを頼まれたよ。……今思えば、ガキどもを探してうろついてる俺を見かねて、別の生き方を選ばせたいと思ってたのかも知れねえなあ」
なんだか、ひとつ大きな謎が解けた気がした。あちらこちらへと傾く不安定な天秤のような、不思議な巡りあわせ。それは、本当に巨大ななにものかによって導かれていたのだ。
父親や母親は、今年起きる事件のことを予想していたのだろうか。……いや、おそらくそうではないだろう。政略結婚を迫るヴェルフェンの手から逃れ、靴屋と恋に落ちた貴族の娘。それが、ネオの母親だったのだ。エーフェルシュタインの血を継いだ幼いネオが、ヴェルフェン家との折衝の道具として扱われることを案じていた、というのが実情だったのだろう。
しかし、その真意はどうあれ、レ・ジョングルールは、確かに巨大ななにものかの使者として、ネオのもとにあらわれていた。両親がネオに遺してくれたのは、聖書や言葉の知識だけではなかった。もっと、もっと、ずっと大切で温かいものを、ネオのもとへと導き、引きあわせていた。その巨大な、しかし目には見えないものに、ネオはずっと見守られていたのだ。
そんな想いが、じんわりと胸を満たしていた。
ころん、と心地良い音が響く。ヴェーゼル川を渡る橋に差しかかり、イルゼの木靴が音を立てたのだ。
ころん、ころん、と慈しむように、心に刻みこむように、ゆっくりとイルゼは木靴を鳴らして歩く。少し寂しそうにつぶやいた。
「この音も……しばらくは、聞けないんですね」
これから、かつてイルゼと二人で歩いた道をなぞり、ホルティスミンネに向かうことになる。ホーエンの屋敷に二頭のロバを預けたままというのもあるし、二十四年前の生き残りが作ったというハーメレ村の話も詳しく聞かねばならない。
そして、それからが本番だ。ずっと東の、ずっと北の、海の近く。そこを目指して、長い長い旅がはじまるのだ。おそらく、一ヶ月や二ヶ月ではない、何年もかかる旅になるのだろう。ハーメルンに帰って来るのは、いつの日になるだろうか。
シュタイナウは、その村への手紙を託されていた。老人たちの言葉をネオが羊皮紙に書き留めたものだ。それは、返事を受け取ってここに帰ってくるという、新しい約束でもあった。それが果たされるまでの間、水車小屋の見えるこの景色とはお別れになるのだ。
木靴と木の橋が奏でる、心地良い音ともお別れになるのだ。
「なんでぇ。橋なんざ、どこにだってあるだろうがよ」
「シュタイナウ……。あんた、ホントに馬鹿なんだねー」
「んだとぅ?」
呆れ返ったアマラと悪態をつくシュタイナウの様子に、ネオとイルゼはくすりと笑った。
そう。この橋は、ネオとイルゼが出会った特別な橋だ。きっと、いつかこの水車小屋の見える風景に帰ってこよう。エーフェルシュタインの呪いを本当の意味で終わらせて、もう一度、この水車の見える橋に帰ってこよう。
イルゼと並んで、聖書を広げよう。……水車小屋の音を聞きながら。
「そんでよう……ネオ、おめえ、本気で付いてくる気かよ」
「今更、なに言ってるんですか。さんざん人のことを旅人に向いてるだの、放浪者の素質があるだの持ち上げたのは、シュタイナウさんじゃないですか」
「う……む、まあ、そうだがよ……。その、なんだ、せっかくホルティスミンネに帰れる家ができたってのによう……。なんつっても、ホーエンのジジイがうるさそうだ。どうせ俺が悪者にされるんだぜ? 『お前がネオ坊やをそそのかしたんじゃー』とか言ってよ。あながち間違いじゃねえから、なおさらたちがわりぃ。まったく、今から頭がいてえや」
確かに、ホーエン老人はネオが旅に出ることを喜びはしないだろう。イルゼとともにホルティスミンネで暖かく健やかに暮らすことを薦めてくるだろう。それでも、きっと自分は止まらない。この胸に宿ったどきどきがある限り、歩き続けたいと思う。
それが、ネオの選択だった。晴れ晴れとした気分で、シュタイナウの顔を見上げた。
「……行きますよ。どこにでも」
「行って、どうするってんだよ。靴屋で貴族のお坊ちゃんが、ジョングルールでなにができるってんだよ」
意地悪に突き放すシュタイナウだが、もはやネオにはそんな言葉は通用しない。
「うーん……。バグパイプも、もう少し練習したいところですけど……。でも、そうですね。とりあえず、みんなの靴でも作りましょうか」
「ふふ、それは魅力的な提案ね」
アマラが説得は諦めなさいとばかりに、シュタイナウの腕を引いた。引っ張られながらも、まだぶつぶつ文句を言っている。
倣うように、ネオもイルゼの手を取った。はにかみながら握り返してくるイルゼとともに、橋の向こうへと歩き出した。
今、ネオの旅がはじまった。




