真実
二頭の馬がハーメルン市の門に到着したのは、九時課の鐘が鳴るころだった。本当に一日で着いた。明け方、一時課の鐘の前にホルティスミンネを発ったが、本当に日が暮れる前にハーメルンに付くとは。ネオとイルゼが三日間かけて歩き渡ったいくつもの街や集落。それらが風のごとく過ぎ去っていった。それこそ魔法のようだった。
しかし、橋の上で馬を降り、ハーメルン市に入ろうとしたとき、最後の足止めがあった。ネオとイルゼはともかくとして、ティルの姿が咎められたのだ。当然である。なにしろハーメルンではシュタイナウと共謀して子供たちを襲ったエーフェルシュタインの悪魔、その片割れという扱いになっている危険人物だ。
「ネオさん。あっしはどうにでもなるんで、先に行っててくだせえ」
「でも……っ!」
「噂くらいは聞いたことがあるでやしょ? あっしにとっては、いつものことでさぁ」
こともなげにカラカラと笑うティルだが、しかしネオに余裕がないのも事実だ。なによりも、四つの街で死刑宣告を受けつつも生き延びたティルである。今更ここで捕まったからといって、どうこうなるたまではあるまい。門番に槍を突きつけられながらもヘラヘラと笑っているティルを尻目に、ネオは街の中に駆け込んだ。
門をくぐってすぐの場所に聖ボニファティウス律院がある。裁判はそこで行われるはずだが、見物人の姿はない。嫌な予感がして、そのままベッカー通りを走り、オスカー通りとの交差点、ニコライ教会前の広場に向かった。いつかの見世物のように、人だかりが見えた。
「すいません。通して! 通してください!」
ひしめく見物人をかき分けて、イルゼとともに人だかりの中心に抜ける。夏至の火もかくやというほどの巨大な焚き木が組み上げられていた。しかし、まだ咎人を火にくべる火刑台は地面に横たわっている。
ようやく、ほおっと大きな息をついた。間に合ったのだ。
「いよう」
横柄に投げかけてくる声は、もちろんシュタイナウのものだ。これから火刑台に括りつけられるのか、その横に縄を打たれたまま座り込んでいた。近くにいたアマラがネオに気づき、大きく息をついた。気持ちはネオと同じなのだろう。火刑がはじまる合図となる晩課の鐘までは、まだ時間がある。その間、ニコライ教会の神父が祈りの言葉を読み上げているのだった。
火刑とは、キリスト教において、考えられる限り最も重い刑罰だ。なにしろ、肉体を完全に滅ぼされてしまうのだ。それはつまり、もうじき訪れるらしい最後の審判ののち、復活するべき器を破壊されるということにほかならない。悪魔だの魔女だのといった容疑をかけられたものに対し、肉体だけでなく魂までも永遠に罰する。現世のみならず来世まで奪うのが、火刑という刑罰なのだ。
しかし、そんな運命を前にしても、シュタイナウは一歩も引く様子を見せなかった。
「おう、坊さんよ! そんなしみったれたお祈りじゃ、悪魔の呪いは祓えっこないぜ。なにしろ、この街は裏切り者の街だからなあ?」
そんな悪態に、取り巻く見物人に怖れの入り混じったどよめきが走る。その恐怖をさらに引き立てんとばかりに、シュタイナウは更に声を張り上げた。
「いいか! 忘れるな! 俺を殺したところで、悪魔は何度でもガキどもを狙うぞ! ガキどもの命が惜しけりゃ、金輪際、東に向かおうなんて考えは起こさないこったな!」
「シュタイナウさん」
呪いの言葉を遮って、進み出た。衆目が、一瞬にしてネオのほうへと集まる。焚き木を組み上げる指示をしていたエーリッヒが、ネオに気づいて目を剥いた。まさか、生きて帰ってくるとは。そんな目つきだった。もはやそんな俗物には構わずに、シュタイナウの前に歩み出る。
「シュタイナウさん。……もう、いいんです」
「ネオ……てめえ……アェルツェンまで遠回りさせたのに、間に合いやがったのか……。そのままホルティスミンネに居座ってりゃ良かったものをよ」
「そうしないって、わかっていたでしょう? シュタイナウさん。貴方は、そうやって……すべてひとりで抱え込んで、死ぬつもりだったんですね。……エーフェルシュタインの呪いを終わらせるために。……ハーメルンの子供たちを、守るために」
「…………っ」
シュタイナウがぐっと奥歯を噛むのが見えた。すでに、ネオはすべての真実を手に入れている。そのことを知り、観念したようにうなだれた。
一方、ネオの意外な言葉に、見物人の間で戸惑いが走っていた。どういうことだ? 呪いを終わらせる? 子供たちを守るために? いったいネオはなにを言い出したんだ?
もしも、ネオがこれまで通りのただの靴屋の徒弟だったのなら、こんな言葉は一笑に付されたことだろう。しかし、今のネオはエーフェルシュタインの悪魔から一〇〇人の子供たちを守り通した、特に街の富裕層にとっては恩人なのだ。その恩人の口から放たれるものだからこそ、ネオの言葉は重く響いているのだ。
だが、そこに怒り狂いながら割って入るものがいた。
「この靴屋の徒弟ふぜいが! のこのこと戻ってきたかと思えば、世迷い事をまき散らすか! なんなら、貴様もこの悪魔の手先とみなして……」
「エーリッヒ神父。貴方に聞きたいことがあります」
顔を真っ赤にして怒り狂う神父に対して、冷たく、しかし毅然と言い返した。憎悪の眼差しを真正面から受け止め、弾き返さんとばかりに堂々と向き直った。
「ハノファーレ市で合流するというブラウンシュヴァイク公国の兵隊。その代表者の名前を教えて下さい」
「……っ! き、貴様がそんなことを知る必要は、」
「もちろん、あります。エーリッヒ神父。貴方はまだ東方植民を諦めていないといいました。これだけの事件があったにも関わらず、もう一度子供たちを連れて東に向かうようにと、僕に命じました。それならば、僕が合流するべき相手の名前は知っておかねばなりません」
今になって思えば、そんなことすらも聞かずにネオは東方植民に出発していたのだ。ハノファーレ市までたどり着けば、あとはすべて大人たちが取り計らってくれると思っていた。自分でなにをするでもなく、勝手に万事うまく進むものだと考えていた。一〇〇人の子供たちを率いるものとして、あまりにも軽率だった。
「黙れっ! 貴様の言葉など……」
「それだけじゃありません。僕と子供たちがたどり着いた先では、森を切り拓いて家を建てなければならないんです。……大工さんはいったいどこにいるんですか? 指物師さんはいないんですか? ハノファーレで合流するのなら、そのこともきちんと伝えてもらわないと困ります。ハノファーレ市のどこで、誰と会えばいいんですか?」
「だ、だまれっ! だまれっ」
誰が聞いてもごく当然のことを、落ち着いて淡々と問いただすネオに対し、明らかに狼狽しているエーリッヒ。その様子に街の住民も異様な成り行きを察したらしく、やにわにざわつきはじめた。そこへ、横合いから口を挟むものがあった。
「ネオさん、そこまで聞くのは酷ってもんでしょうよ。まさか、そんなことを聞かれるとは思ってなかったでしょうからねえ。答えられるわきゃありませんやね」
見物人をかき分けてのこのことあらわれたのは、お尋ねものの青年だった。あまりにも意外な人物の登場に、どよめきは更に大きくなった。なにしろ、シュタイナウとつるんで子供たちをさらった容疑者そのものなのだ。どうやって門の番兵をやり過ごしたのか、ネオにすら見当もつかない。しかし、どんな魔法を使ったのか、ティルはへらへらと笑いながら、平然とここまで歩いてきたのだ。
「いや、実はですね。あの日、ネオさんと子供たちにハーメルンまで引き返していただいたあとにですね、そのままハノファーレまでひとっ走りしたんでさ。なんでって、ネオさんたちを待っているはずの兵隊さんを探しにね。なにしろ、子供たちは引き返しちまったんだ。待ちぼうけさせちゃあ申し訳ねえでしょうが」
みるみるうちに、エーリッヒの顔色が変わっていった。ただでさえ激昂していたのが、まるで息でも詰まったようにますます真っ赤に染まったのだ。そんなエーリッヒには構わず、ティルはへらへらと世間話でもしている調子で続けた。
「……しかし、兵隊さんの誰ひとりとしてそんな話は知りやしねえ。ヴェルフェン家の中でもそれなりの御仁に聞いたんですけどね。確かにハーメルン市には毎年のように東方植民を打診しているそうで……でも、今年も例年通り断られたって話ですぜ? ……いやはや、まったく、不思議なこともあるもんだ。ねえ、エーリッヒの旦那?」
ティルの言葉に、まるで煙にでも包まれたといったふうに見物人の中で疑問符が飛び交った。どういうことだ? ハノファーレではブラウンシュヴァイクの兵隊が待っていたんじゃないのか? そのまま目的地まで護衛してもらえるんじゃないのか? だからこそ安心して子供たちを送り出せたのに。……そんな疑惑の視線が、エーリッヒのほうへと集まりつつある。エーリッヒはそれを弾き返さんとばかりに猛り狂った。
「と、と、当然だろうが! そもそも東方植民の話は極秘裏に進めておったのだからな! ヴェルフェン家の中でも出し抜こうとする輩が多いのは、誰もが知っていることだ! ……だ、だいたい、貴様はなんだ! 貴様ごとき遍歴職人ふぜいを、ヴェルフェン家が相手にするとでも思うか!」
「そりゃあまあ、ただの遍歴職人ふぜいでは相手にしてもらえんでしょうなあ。……だが、ブラウンシュヴァイク公国マクデブルク司教、ブルヒャルト三世猊下の代理人公許状を持っているとなれば、話は別ですぜぃ?」
言って、一枚の羊皮紙をぺらりと広げて見せた。そこに押してある紋章――城門と楽師をあしらったものだ――は、マクデブルクのものなのだろうか? ネオには知る由もないが、しかし、エーリッヒには効果はてきめんだったらしい。真っ赤だった顔が、一瞬にして真っ青に変わっていった。
「そうそう、いい忘れてた。ハノファーレまでの道中、シュプリンゲ村に一〇人ばかしの盗賊が居座ってたんで、ついでに通報しておきましたぜい? 連中があそこで誰を狙ってたのかは、あっしには皆目さっぱり見当すら付きやせんが……そろそろ、首謀者の名前でも吐いてる頃合いじゃないでしょうかねえ」
これこそが、ホルティスミンネ市のホーエン老人の館で、ティルが語った真実だった。エーフェルシュタインの呪いを終わらせることを望んでいるシュタイナウが、なぜネオたちの東方植民を妨害したか。その答えが、これだった。
そもそも――東方植民の話そのものが、最初から嘘だったのだ。ブラウンシュヴァイクの兵隊はおろか、ハノファーレ市の誰ひとりとして「ハーメルンの子供たちがやってくる」なんて話は知らなかった。ヴェルフェン家からの打診は確かにあったものの、今年の植民の話は、とっくに断られていたのだ。
もしも、あのままネオと子供たちがハノファーレ市に向かっていたら……。まちがいなく、シュプリンゲ村で待ち構えていた盗賊たちに身ぐるみ剥がされ、二十四年前と同じように奴隷として売り飛ばされていただろう。
となれば、シュタイナウとアマラ、そしてティルのやったことは。
――シュプリンゲ村のほうから、誰か来るかも知れないから――
――あたしたちは子供たちを狙う悪魔を出し抜くために、ずっと機会を狙ってきたの――
すなわち、ネオと子供たちを本当の悪魔の手から守り、ハーメルンにまで無事に送り届けたということに、ほかならない。そして、捕らえられたシュタイナウは、二度と同じような事件が起きないように、ハーメルン市民が二度と東方植民などに子供を送り出そうと考えないように、わざと悪魔を装って呪いの言葉を振りまいたのだ。その上で、イルゼに断罪されて死を迎えようとしていたのだ。そうすることで、エーフェルシュタインの呪いを永遠に終わらせようとしていたのだ。
いったいなにが起きていたのか、見物人の中でも勘の鋭いものは察しはじめたらしい。今回の事件の背後で、誰がなにを画策していたのか。自然、ひとりの神父に疑惑の眼差しがじりじりと迫っていた。
「ともあれ、これで、東方植民のときにエーリッヒの旦那に頼まれた護衛の仕事は完了しやしたぜ? ええっと確か、『良からぬ連中から、ネオさんと子供たちを守るように』でしたよね? うん、我ながらいい仕事っぷりだ」
きっと、護衛についた遍歴職人など、ネオともども盗賊たちに襲われて死んでしまうはずだったのだろう。しかし、その遍歴職人が、まさか他の街では知らぬもののいない生粋の悪戯者だったとは、エーリッヒは予想だにしなかったのだ。
「き、き、貴様っ! 誰が、誰がこんなことをしろと……っ」
「まーた、これだよ」
ティルがさも不満だとでも言わんばかりに、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「……はあ、やれやれ。あっしはいつだって言われた通りにしてるのに、どうして感謝されないんでしょうかねぇ」
ティルは相変わらずの調子で、明らかにエーリッヒをおちょくりにかかっている。
そんな中、ネオは見物人の最前列に陣取っていた市参事会の重役を前に、はっきりと告げた。
「市参事会の皆さん、突然で申し訳ありません。……今回の事件の首謀者、エーフェルシュタインの悪魔を名乗る男、シュタイナウことゲルハルト・フォン・エーフェルシュタイン・トラバントには、エーフェルシュタイン家よりいくつかの嫌疑をかけられています。よって、この裁判は中断し、この男の身柄をエーフェルシュタイン家に引き渡すことを要求いたします」
その言葉に反応したのは、市参事会ではなくエーリッヒ神父だった。今も疑惑の視線が集まりつつある中で、なおもおちょくるティルを放って、とにかくこの場を収めようと声を張り上げていた。
「ふざけるな! ただの徒弟ふぜいが、なにがエーフェルシュタイン家だ! 靴屋の言葉など、貴様の言葉など、ハーメルン市の法の前には、なんの役にも立たぬわっ!」
あくまでもネオをただの靴屋の徒弟とみなし、取るに足らない相手として押し潰そうという剣幕である。しかし、ネオはそんな圧力には微動だにしなかった。冷たい目を投げかけたまま、言い返した。
「僕がただの靴屋なのかどうか……貴方が一番良く知っているはずです。エーリッヒ神父。でなければ、ホルティスミンネに向かう僕に、追手を差し向ける理由がないですから」
ぐっ、と神父の喉が詰まった。すでに、ネオが真相にたどり着いていることを理解したのだ。どうして、エーリッヒがわざわざネオを植民請負人に仕立てあげたのか。その答えをネオが握っている。そのことを、悟ったのだ。
「貴方は、ただ子供たちを狙っただけじゃありません。それでは、東方植民を推し進めた貴方も責任を問われてしまうから。……だから貴方は、その罪をなすりつける相手も用意していたんです。すべてが終わってから、『実は、あの男こそがエーフェルシュタインの手先だった』と、さも騙されたふうを装うために」
いつか抱いた疑問の答えも、ここにあった。
――神父さまは、どうして僕の東方植民への参加を渋ったんだろう――
神父が頼み込んでネオが植民請負人になるのでは、まずいのだ。あくまでもネオのほうから「是非とも自分が植民を請け負いたい」と言い出さなければ、まずかったのだ。「エーリッヒ神父がエーフェルシュタインの悪魔に依頼した」のではなく、「エーフェルシュタインの悪魔がエーリッヒ神父を騙した」という形に持ち込まなければ、責任をなすりつけるのが難しかったのだ。
きっと、あのときイルゼが工房に転がり込んで来なかったとしても、ネオは植民請負人になることを名乗り出るよう仕向けられていたのだろう。直接頼み込んでくることはなくとも、遠回しに「植民請負人がいない。ああ、困った困った」などとチラチラとネオの顔色をうかがいながら、誘いをかけるつもりだったのだろう。
「エーリッヒ神父。貴方は知っていたはずです。……たぶん、両親が死んだとき、叔父が売ろうとしたこの聖書を見て気づいたんだと思います」
なにに? もちろん、ネオの素性についてだ。正確には、ネオの聖書が物語っている真実について。それは、文字通り、一介の靴職人が手に入れられるようなものではなかったのだ。
「……僕の母の本当の名前は、エマ・エーフェルシュタイン。かつてのエーフェルシュタイン伯、コンラート四世の血を引くものです。ホルティスミンネの貴族、ホーエンリッヒ・フォン・エーフェルシュタインが、母の父親……つまり僕の祖父であることを証言しています」
それこそが、母親の、そしてネオの正体だった。ネオの母親は、ヴェルフェン家が席巻しつつある中で、エーフェルシュタイン家の娘を捕らえて政略結婚に持ち込もうとする勢力から逃れるために、本家のお抱えだった靴屋へと身を隠したのだ。そこで、いかなる経緯があったものか、ネオの母親は実直な靴屋と恋に落ち、結婚した。その二人の間に生まれたのがネオだったのだ。
ホーエン老人は、自分の孫たるネオの境遇に心を痛めつつも、しかし両親がそう願った通り、とても明るいとはいえないエーフェルシュタイン家の事情にネオを巻き込むことをしなかった。本人の口からそれを聞かれるまでは。
たまの来訪での上等な贈り物や、より良い条件でアェルツェンに引き抜きたいという話。その裏には、言うに言えない複雑な思いがあったのだ。
注目の中、ネオは手に持った聖書を胸に抱いた。羊皮紙ではない、本物の紙でつくられた聖書。丁寧に薄く削った木の表紙を取り付けられており、そこには冠をかぶった獅子――エーフェルシュタイン家の紋章が焼き入れられている。生まれたときから傍らにあったその紋章こそが、ネオの出自を明らかにしていた。
「僕の名前は……ネオ・エーフェルシュタイン。僕はエーフェルシュタイン家の名において、ハーメルン市参事会に対し、容疑者ゲルハルトの身柄引渡しを正式に要求します。ヴェルフェン本家以外とは、一切の交渉に応じません」
放たれた重い言葉に押されてか、市参事会からは抗議の声は一言も上がらなかった。市民の間からも反発の声は聞こえなかった。
今になって思えば、誰もが不思議に思っていたのだろう。毎朝、水車小屋の前で聖書を広げている奇妙な靴屋の徒弟を。いったい、あの聖書はなんなのだろう? どうして、靴屋が聖書など読んでいるのだろう? それらの疑問が、ネオの宣言によってすべて氷解したのだ。むしろ、「なるほど、どうりで」といった納得のほうが強いほどで、今更それを否定しようなどという輩はひとりとしてあらわれなかった。
静まり返った中で、ティルが仰々しくその場に跪き、一礼して見せた。
「マクデブルク司教代理人として、不肖ながらこのティル、証人を申し出たく存じやす。ブルヒャルト三世猊下の名において、エーフェルシュタイン家の正式なる訴え、確かに受け取りやしてございやす。……おのおの方、よもや異論はございやせんな?」
ティルがぎろりと市参事会の面々を見回した。いつものヘラヘラとした笑顔とはうって変わり、凄みを帯びた狡猾な笑みだった。もちろん、誰ひとりとして口を挟むものなどいない。そもそもマクデブルクなどという名前を知っているもの自体、多くはないのであろう。ほかならぬネオでさえも、昨日、ホーエン老人がティルを罵倒した言葉ではじめて聞いた名前なのだ。
しかし、司教というものは司祭などとは違い、皇帝と同じくローマ教皇によって直々に任命される、雲の上の身分なのだ。それを知らないものなどいるまい。市参事会や教会の関係者となれば、なおさらだ。
ティルが、パッといつもの笑顔に戻った。まるで今までのは冗談だと言わんばかりだ。
「さて……これで、この件は正式にヴェルフェン家とエーフェルシュタイン家の問題になったわけでさ。もっとも……ヴェルフェン本家が、怪しげな司祭ひとりのために、わざわざ火種に手を突っ込むとは思えやせんがねぇ。……当然ながら裁判は中止、シュタイナウの旦那の身柄はエーフェルシュタイン預かりになるってぇ寸法だ」
その言葉を合図にイルゼとアマラがシュタイナウに駆け寄った。もはや邪魔するものもいない。戒めていた縄を解き、助け起こした。
ネオは、縄を解かれた男に向き直った。言いたいことが、山ほどあった。しかし、いざ当人を目の前にすると、言葉が喉に詰まってしまう。その代わりとばかりに、シュタイナウが悪態をついた。
「ネオ……この馬鹿野郎が……。俺の計画が、なにもかも滅茶苦茶じゃねえか。いったい、俺が何年前から考えてたと思ってやがんだ……」
「……それでも、貴方は間違ってます。貴方は、ひとりで背負っちゃいけないんです。二十四年前……なにがあったのかを、きちんと言わないといけないんです。いなくなった子供たちの、お父さんやお母さんのためにも」
シュタイナウが、ハッとして周囲を見た。見物人の中でも、五〇歳を超えていようかという歳を取ったものたちが、じっとシュタイナウを見つめていた。その老人たちが、いったい誰なのか、考えるまでもなかった。その視線でシュタイナウを貫き、真実を求めていた。二十四年前の真相を求めていた。
「シュタイナウさん、言ってください。エーフェルシュタインの悪魔なんて、最初からいなかったんだって。エーフェルシュタイン家は、この街を呪ってなんかいないんだって。……貴方は、言い訳をしていいんです。言い訳をしなきゃいけないんです。元より、貴方がひとりで背負いきれるものじゃ、ないんです」
ネオの言葉よりも、シュタイナウはむしろ老人たちの視線にこそ打ちのめされていた。まるで悪いことをした子供が叱られるのを怯えるかのように、うなだれて地面を見つめていた。そのまま、小さく呻く声で絞り出した。
「いったい、どの面下げて……。俺が……俺が、笛吹き男になって、ガキどもを連れてったことには……変わりがねえじゃねえか。……俺が、あいつらを守れなかったことには、違いがねえじゃねえかよ……。俺が……俺が……あのとき、あと少しでも……」
言葉は最後までは紡がれなかったが、それで充分だった。シュタイナウのこぼしたわずかな言葉だけで、老人たちには二十四年前になにが起きたのか、そして、この男が今までなにを思い、なにを背負い、そしてどのように生きてきたのか、充分に伝わっていた。
その証に、四人ほどの老人がよろよろとシュタイナウの方へと歩み寄っていく。それは、まるで二十四年前に失った我が子をようやく見つけ、その手を握ってやろうとばかりの歩みだった。
老人が、うなだれたままのシュタイナウの肩に触れる。なにを言うでもなく、慈しむように、いたわるように、背中をぽんぽんと叩き、撫でさすった。全員が、そうしていた。まるで、ずっと迷子になっていて、ようやく帰ってきた我が子に「おかえり」「疲れたろう?」そんな声をかけているかのようだった。
シュタイナウの足元に、黒い点がぽつぽつと浮かび上がり、いくつもの染みを広げていく。
「……っぐ……。すまねえ……。すまねえ……」
嗚咽を押し殺し、シュタイナウはかろうじて、そうつぶやいていた。
老人たちは、決して責めはせず、ただただ、シュタイナウと一緒にこうべを垂れている。これまでの苦しみを、悲しみを分かちあおうとばかりに背中を撫でさすってやり、傷ついた心を共にしていた。それだけが、彼らに許される、そして彼らにしか決して分かりあえぬ、たったひとつの言葉だった。




