ホーエン老人
ホルティスミンネ市。規模としてはミンデンと同じ程度か。大きな城こそないものの、山と川に囲まれたその立地は、かのシャルクスブルク砦を彷彿とさせる。橋のたもとに巨大な門を持つ関所の街、そのはずれの山の麓に、こじんまりとした、しかし綺麗な屋敷があった。
「マクデブルクの道化が! 今更なにをしにのこのことやって来おったか!」
ネオを笑顔で招き入れた直後、ティルの顔を見るなりホーエン老人の顔色が真っ赤に染まった。そして、飛び出した言葉がこれである。
思わず、エーリッヒの豹変ぶりを思い出してしまうネオだったが、しかし、ティルのことだ。きっとここホルティスミンネでも好き勝手に悪戯を繰り返して追われることがあったのだろう。
「いやあ、お元気そうでなによりなこってす」
「き……きさま……っ、貴様が言う言葉かッ! そこへ直れいっ! かくなる上は、儂がこの手で……っ!」
このままでは話を聞くまえに血管が破裂して倒れてしまいそうな勢いだ。慌ててネオが仲裁に入った。
「ホーエンおじさん。彼は……ティルさんは、僕達を助けてくれたんです」
「んむ?」
ホーエンおじさんとは、お店にきたホーエン老人が自分のことをそう呼ぶようにと、かなり強引に指定してきた呼び名だ。当初は「ホーエン様」とか「ホーエン殿」とか呼んでいたのだが、気さくなホーエン老人はそれを嫌がったのだ。
「ティルさんのことです。きっと、とんでもないことをやらかしたんだと思います。たぶん、洒落にならないことをやったんでしょう。想像はつきます。……でも、ティルさんがいなかったら、僕たちはここにたどり着けませんでした。それは、間違いありません」
「……むう。ネオ坊やの恩人か……ううむ。それなら仕方ない。忌々しい道化めが、ネオ坊やに感謝を忘れるでないぞ」
ホーエン老人の表情が幾分やわらぎ、ようやくネオのほうへと戻ってきた。ティルへの激昂が嘘みたいに満面の笑みに変わった。
「さてさてネオ坊や。ネオ坊やじゃなあ。ずいぶんと久しぶりじゃなあ。ここに来たということは、ようやくこの爺の元で……」
言いながら、視線がイルゼの方へと泳ぐ。ちらりと足の様子を一瞥して、満面の笑みに複雑な色が差した。
「……というわけでは、ないようじゃな」
「はい……。すいません……どうしても聞きたいことがあるので、ご迷惑とは思いましたが押しかけてしまいました」
「ふむ……。聞きたいこと、とな。……ところで、そちらのおなごは、イルゼ嬢ちゃんじゃな? ふうむ。大きくなったものじゃな」
イルゼの顔に驚愕が広がった。まさか、自分の名前がホーエン老人の口から出てくるとは、まったく予想していなかったらしい。
「私を……知ってるんですか?」
「うむ。前に会ったときにはほんの子供じゃった。もう七年か八年か、かなり前になるからな。嬢ちゃんが覚えていないのも無理もあるまい。ついでに言えば、イルゼ嬢ちゃんが一緒にいるということは、……聞きたいことというのは、ゲルハルト絡みじゃな?」
言いながら、自分の言った言葉に気づき、それを噛み締めるように視線を泳がせた。どうにも表情のめまぐるしい老人である。
「……そうか。二十四年か……。今年はもう……そんな年じゃったか……」
「あの……ホーエンおじさん? ……ゲルハルト……って?」
「おお、おお、そうじゃった。奴め、今はシュタイナウと名乗っておるんじゃったか。ゲルハルト・フォン・エーフェルシュタイン・トラバント。……それが、奴の本当の名前じゃ」
「ゲルハルト……。やっぱり……シュタイナウさんは、エーフェルシュタイン家の……」
「それよ。あの男のことじゃ。やつには伝えねばならんことが山ほどあるというに、一向に顔を出しよらぬ。やつめ、おおかた、なにかやらかしたんじゃろう? その絡みでここに来たんじゃろう? どれ、この爺に話してみい」
とはいえ、シュタイナウがなにを考えていたのか、なにをしようとしていたのか、ネオには知る由もない。結局のところ、ネオとシュタイナウとの関わりを最初から順に話すほかなかった。
ネオが、橋の上でシュタイナウに声をかけられたこと。
ミンデンに行くネオに着いてきたこと。
突然イルゼを残して消えてしまったこと。
エーフェルシュタインの悪魔を名乗り、植民請負人となったネオの前にあらわれたこと。
わざわざ捕まって殺されるためにハーメルンに戻ってきたこと。
それらのすべてを順番に話す以外に、説明のしようがなかった。ネオ自身こうやって一生懸命に喋ることに慣れていないこともあり、その言葉は我ながら拙いと思ったが、しかしホーエン老人は辛抱強く聞き入っていた。
そして、シュタイナウの口からホーエン老人の名が出てくるところまで話し終わり、ほうっと息をついた。喉がカラカラになっていた。
聞き終わったあと、しばらくの間、ホーエン老人はなにかを考えている様子だった。なにかを懐かしむような、そしてなにかを後悔するような、そんな色を瞳にたたえて、ポツリとつぶやいた。
「ゲルハルトめ……。あの男は……まだ彷徨い続けておったのか……」
その言葉からはゲルハルト……シュタイナウに対する、とてつもなく深い思い入れが篭っているのが感じ取れる。どこか遠くを見ているような、まるで、救われぬ魂を憐れむような物言いだった。
老人は視線を落として、ネオに向き直った。
「うむ……いかにもこの爺めは、おそらく多くの疑問の答えを持っておる。それを教えてやることも容易い。……ネオ坊やも、覚悟を決めてここまで来たようじゃ。だが、やはり聞いておかねばならん」
ホーエン老人の目がすうっと細くなった。ネオの心を見透かそうとばかりに、じっと見つめながら、問うた。
「儂の話を聞いたら、引き返すことはできなくなるぞ? もはや、ハーメルン市で靴を作りながら暮らす、呑気な靴屋ではいられなくなるぞ? それでもいいのかの?」
「……っ」
それは、アマラにいわれたことだった。となれば、続く言葉も同じものである。
「ここに踏み込んだら、場合によっては……」
「命なら、もう狙われました」
「ふむ。そうじゃったな」
「僕は……きっと、答えを見つけないといけないんです。もしも答えを見つけなかったら……命を狙われる理由を探し出さなかったら……。たとえ、追手がいなくなっても、僕は一生、怯え続けなきゃなりません。……それに」
横に並んで立っている愛しい少女の肩を、そっと抱いた。
「この疑問は、僕だけのものじゃないんです。イルゼにも……真実を知る権利があるんです。……だから、教えてください。……二十四年前に、いったいなにがあったんですか」
ホーエン老人は、目を閉じた。遠い昔の話を思い出しているらしく、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎはじめた。それは、シュタイナウと名乗った男の、真実の姿だった。
「二十四年前……ゲルハルトは、一三〇人の子供たちを連れて東へ向かった。まずは植民の成功をお祈りしようと、司教のいるヒルデスハイムを目指したそうじゃ。コッペンブリュッゲで子供たちの両親と別れた翌日……。そうじゃな、旅の疲れがピークに達したころ……おそらく、オルデンドルフの辺りじゃろうか。そこで子供たちは、襲われたんじゃ」
「いったい、誰に……?」
「わからぬ。……今となってはな。あるいは、オルデンドルフを根城にする盗賊だったのかも知れぬ。あるいは、子供たちを付け狙っていた人さらいだったのかも知れぬ。……いずれにせよ襲撃者は、まずは子供たちを率いる植民請負人を……ゲルハルトを叩き切った。やつも奮戦したようじゃが、相手の数が多すぎた。子供たちを守りながらでは、どうしようもあるまい。襲撃者は、お金や財宝を奪い取り……そして、子供たちはそのままどこかへと連れ去られた。残っていたのは、目の見えぬ女の子がひとりと、言葉の喋れぬ男の子がひとり。そして、斃れたゲルハルトだけだったそうじゃ」
「……?」
ネオの脳裏に疑問符が浮かぶ。まるで、誰かがそれを目撃したかのような口ぶりだからだ。
「ひとりだけ、休憩場所に忘れた上着を取りに戻って、それで難を逃れた女の子がいてな……物陰から一部始終を見ておったんじゃ。襲撃者が去ったあと、当時まだ五歳足らずだったその子は、何日もの間、懸命にゲルハルトを手当して……やつはかろうじて一命を取り留めた」
もちろん、その少女の名前はネオも知っている。アマラベルガ。彼女は、死にかけていたシュタイナウを必死の看病で助けたのだ。そしてそのあとは、奴隷として役に立たぬとみなされ捨て置かれていた二人の子供を、ハーメルンに送り届けた。
「戻ったハーメルンで、アマラベルガは……。信じられぬことを耳にしたそうじゃ。植民失敗の報が、どういうわけか当人よりも先に伝わっていたんじゃよ。そして、それだけではなかった。……いわく、トラバントの男……ゲルハルトがエーフェルシュタインの悪魔となって、子供たちを連れ去った、とな。……もちろん、いわれのない噂じゃ。しかし、悔しいことにの……ハーメルン市の住民には、噂を信じてしまうだけの理由があったんじゃよ」
もちろん、ただの噂ではあった。しかし、根も葉もない噂ではなかったのだ。かつてのハーメルン集落を食い物にしていた教皇派のネズミどもを一掃し、ハーメルン市を繁栄に導いた立役者であるエーフェルシュタイン家。ミンデンとの戦争で苦境に追い込まれたエーフェルシュタイン家を、ハーメルン市民は捨てた。ヴェルフェン家に鞍替えしてしまった。栄華を誇っていた領主の家は、自分が育ててきた街の市民に裏切られ、見るも無残に没落してしまった。心の片隅に突き刺さっていたその負い目が、ハーメルン市民に噂を信じさせたのだ。
「ゲルハルトめは言い訳をせなんだ。やつを植民請負人に任命したこの儂にさえも、ただの一度も言い訳をせなんだ。ただ……子供たちを守れなかったことを悔いて……。エーフェルシュタイン家の名を穢してしまったことを詫びて……。すべてを背負って、去って行きおった。誰にも……止められなんだよ」
それが、二十四年前の事件の真相。アマラは最後まで「エーフェルシュタインの悪魔」とは言わずに「子供たちを狙う悪魔」と言っていた。もちろん、子供たちの失踪事件はエーフェルシュタイン家の復讐劇などではないと知っていたからだ。エーフェルシュタイン家は嘘偽りではなく、本当にハーメルンの子供たちと一緒にはるか東の地でやり直すことを夢見ていた。そのことを、知っていたからだ。
きっと、シュタイナウは世界中を彷徨い歩いたのだろう。なんとかして、さらわれた子供たちを見つけ出すことはできないかと。なんとかして、奴隷にされた子供たちを、ひとりでも救い出すことはできないかと。何年も……一〇年以上も、シュタイナウはすべての罪をひとりで背負って、彷徨い続けたのだろう。
「そして、ゲルハルトはついに見つけ出した。さらわれた子供たちが奴隷として働かされているという村を、十数年も彷徨い続けた末に、ようやく探し当てたんじゃ。……しかし、たどり着いた村は、すでに打ち捨てられておった。不作続きでな。開墾が追いつかず、領主が手放したあとじゃった。そこでゲルハルトは、あのとき連れ去られた子供を……その生き残りを、たったひとりだけ見つけ出したんじゃ」
「それは……まさか、」
思わず、視線がイルゼに向く。イルゼも、一言も聞き漏らすまいと固唾を飲んでいた。ホーエン老人はゆっくりと頷き、肯定しつつ話を続けた。
「その子……いや、すでに大人になっていたが……。ともかくその子は……痩せ衰えて、病魔に蝕まれ、もはや死ぬのを待つ身じゃった。そして、再会したシュタイナウにこう訴えたそうじゃ。『どうか、私たちを赦して欲しい。私の命を差し出すから、エーフェルシュタインの呪いから解き放って欲しい』と。……その子は、自分の親たちが、かつての主君を捨てたことが原因で、自分が呪いを受けたのだと信じこんでおったんじゃな。そして、この苦しみを終わらせて欲しいとゲルハルトに懇願したんじゃ」
それが、一〇年以上にも渡る放浪の果てにシュタイナウが見つけたものだった。
……助けてやりたい。ハーメルンの街に帰してやりたい。再び両親に会わせてやりたい。シュタイナウの願いは、ただそれだけだった。しかし、病魔に苦しめられている瀕死の子供を前に、選択の余地はなかったのだ。
「元より助からぬ身じゃ。ゲルハルトにできることは……その子を楽にしてやることだけじゃった。あの男はなぁ……一〇年以上も彷徨って助け出そうとしていた子供を……ようやく見つけ出した、ただひとりの子供を……自分の手で死なせたんじゃよ。……必ず、エーフェルシュタインの呪いを終わらせる。そう約束してな……」
その、エーフェルシュタインの呪いを信じて死んでいった子供こそが。病魔に蝕まれ、シュタイナウの手によって苦しみから解き放たれたその子供こそが、イルゼの父親だったのだ。呪いを成就させるためではなく、呪いから解放するためにこそ、シュタイナウはイルゼの父親を殺したのだ。
「それからのゲルハルトは、約束を果たすためだけに生きておった。イルゼ嬢ちゃんが……あの男の生きるただひとつの理由になった。死なせた子供にたったひとり残されていた娘……イルゼ嬢ちゃんこそが、自分を断罪し、呪いを終わらせる天の使いだと信じこんでな。……それ以外に、罪をあがなう方法を思いつかなんだのだ……。なんとも……不器用な男じゃ。……哀れなほどにのう」
「……シュタイナウさん……」
イルゼが、胸の前で組んでいた両手に、ギュッと力を込めた。その目に涙が滲んでいた。
そこに宿った色は、悲しみではなかった。やはり、イルゼは正しかったのだ。イルゼが最後まで信じていた通り、シュタイナウはエーフェルシュタインの悪魔なんかではなかった。そのことを、ようやく確信できたのだ。
「いくつか、まだわからないことがあります」
「うむ?」
「まず……ホーエンおじさん。貴方は、誰なんですか?」
――植民請負人に任命したこの儂にさえも――
つい今しがた、ホーエン老人の口から出た言葉だ。しかし、答えを待つまでもなく、それを任命できる人間といえば、答えはひとつしかあり得ない。その確認の意味での質問だった。
「ホーエンリッヒ・フォン・エーフェルシュタイン。これでも、エーフェルシュタインの末席に加わっておるジジイじゃよ。エーフェルシュタイン伯、コンラート四世を父親として生を受けたが……生憎、妾腹でな。かろうじてエーフェルシュタインを名乗ることを許され、その威光でアェルツェン市参事会の重役というわけじゃ」
にこにこと笑いながら自分の正体を明かすホーエン老人だが、しかしそのまま寂しげに肩を落とした。
「……もっとも、今となっては夢のような話よ。すでにヴェルフェンの犬どもの世の中じゃからの」
「ヴェルフェン家……ハーメルンを守るために、一緒に戦った……」
ネオの言いかけた言葉に、ホーエン老人はギロリと目を向けた。
「その話を、すべて信じておるのかね?」
「え? ええと……」
非難を宿した鋭い目つきに、ネオはたじろいだ。なにか、まずいことでも言ったのだろうか? しかし、それは一瞬のことで、ホーエン老人の眼光はすぐに元の柔らかさを取り戻した。いや、弱々しくなったといったほうが、正しいか。
「いや、すまぬ。ネオ坊やを責めたところではじまらんな。……なに、そんな話は戦争に勝てば、後からいくらでも作り出せるということじゃ。汚い謀略を覆い隠すためのまやかしにすぎんよ。……ま、やめておこう。ここで語ったところで、敗者の遠吠えにしかならんからのう」
ホーエン老人は肩を落として、寂しそうにうなだれた。が、ひとつ言い忘れたことがあるとばかりに再びネオに顔を向けた。まるで懇願するような瞳の色だった。
「……じゃが、エーフェルシュタイン家の名誉のために、ひとつだけ言わせておくれ。儂らは……エーフェルシュタイン家は、巷で言われるようにハーメルンの子供たちを戦に追いやったりはしておらん。四十八年前……子供たちは、ミンデンとの休戦の使者としてゼデミューンデ村に向かったんじゃ。じゃが、ハーメルンとミンデンの休戦を喜ばぬものたちがいた……。その結果、子供たちは皆殺しにされたんじゃ。……決して……決して、儂らは子供たちに武器を取らせて死地に追いやったりはしておらぬ。……それだけは信じておくれ。お願いじゃ、ネオ坊や」
「……信じます。……きっと、そうなんだと思います」
実際、そうなのだろう。冷静に考えれば、確かに無理のある話だった。いくら戦えるものがいなくなったからといって、子供を戦わせてどうなるものでもあるまい。当時の戦いの行方がどのように運んでいたのかは知る由もないが、子供たちが戦地へ赴く理由としては、休戦の使者と言われたほうが、よっぽどしっくりくる。
なんといっても、ヴェルフェン家の中でさえ、東方植民の功績を奪い合って醜悪な裏工作が繰り広げられているというではないか。その結果、あのエーリッヒのように何年も親切な神父の皮を被り、ネオを利用せんと画策する俗物までもがあらわれた。そのヴェルフェン家が伝える輝かしい歴史が、すべて真実であるという保証など、どこにもないのだ。
そして、あちこち旅をしてきた今のネオにはハーメルンという街の特異な性質もよく見えていた。ザクセン地方を真っ二つに分かつヴェーゼル川。それを東西に渡す巨大な橋梁を持ち、しかも東には見渡す限りの小麦畑が広がっているのだ。それこそ、水車小屋が一〇以上も必要なほどの。それは、ヴェルフェン家やミンデン市でなくとも、涎が出るほどに手に入れたい立地といえよう。
そんな街の領主が都合良く助けを求めてきて、都合良くミンデンを退け、都合良く力を失い、都合良くハーメルン市の知行権を手放した。その結果が、今なのだ。しかし、もしもその途中で、ハーメルンとミンデンが休戦してしまうという「都合の悪いこと」が起きていたら……。休戦の使者が、無防備な子供たちだったら……。
いや、それ以前にハーメルンとミンデンが休戦するのであれば、ヴェルフェン家の手助けなど、最初から必要ないではないか。ことはハーメルンとミンデンの間だけで収まり、他の勢力の出る幕など、どこにもない。こんな状況で、エーフェルシュタイン家が誰かに、それも、よりによってハーメルンを狙う仇敵に助けを求めるなどということが、果たしてあり得ただろうか? つまり、ホーエン老人の言う「謀略を覆い隠すためのまやかし」とは……。
思索にはまりこんだネオを、ホーエン老人の言葉が引き戻した。
「ま、昔の話じゃよ。ネオ坊やが一番大切なことを知っていてくれるのであれば、それで充分じゃ。……して、ほかにも聞きたいことがあるんじゃろう?」
「あ、はい。ええと……、二十四年前のことと……シュタイナウさんとイルゼのお父さんとの間になにがあったのかは、わかりました。……でも、シュタイナウさんは、どうして僕たちの東方植民を邪魔したんでしょうか? もしもエーフェルシュタインの呪いを終わらせることを望んでいるのなら、むしろ植民を今度こそ成功させようと思うんじゃないでしょうか?」
もちろん、自分を悪者に仕立て上げ、断罪の果てに死ぬことを願っていたという理由もあり得るが、そのために子供たちを全員危険に晒したのだ。なにしろ真夜中に大勢で逃げたのだから、途中で人外や狼に襲われていたかも知れない。子供たちを死なせてしまったことを悔やんでいる男が、別の子供たちを危険に晒すなど、いかにも理屈に合わないではないか。
「ふうむ……。ゲルハルトめ……なにを考えていたのやら……」
「ふふーん。それについては、多少、心当たりがありやすぜぃ?」
横から言葉を割り込ませたのは、遍歴職人の青年だった。そういえば、ティルはシュタイナウと共謀してネオの東方植民を妨害したのだ。なにか聞いているのかも知れない。そして、ティルにもまた謎が多すぎる。カラカラと笑うこの青年は、いったい何者なのだろう?
「だが、その前に……。ネオさん。そろそろ忘れたふりは止めましょうや。あんたにはもうひとつ、真っ先に聞かないといけないことがあるでしょうが? まずは、そっちをはっきりさせないと、話がはじまりゃしねぇわけでさ」
「…………っ!」
やはり、ティルには見透かされていたらしい。実のところ、答えを聞くのが怖かったので先延ばしにしていたのだ。もしも、その予感が当たっていたとしたら。それが答えなのだとしたら……きっと、ばらばらだった点が線で結ばれ、いくつもの疑問が氷解するのだ。しかしそれは同時に、文字通りネオの運命を変えてしまうことにほかならない、重大なことでもあった。
「ネオさん。あんたは真実を知らなきゃならねえんだ。……なぁに、ここからハーメルンまでは馬を飛ばせば一日で行けますって。もちろん、ここのご老人が馬を貸してくれれば、の話ですがね。……イルゼ嬢はあっしの馬に乗ってもらうとして……。ネオさんに馬を教える時間はないから、騎手もひとり貸して欲しいところですかねぇ」
「ふん」
不愉快そうに鼻を鳴らすホーエン老人だが、どうやら今の悪態には承諾の意味があったらしい。それにしても、馬とはそこまで早いものなのか。ネオたちが何日もかけてホルティスミンネにたどり着いたのが、嘘のようだ。ともあれ、話はついたとばかりにティルは向き直った。
「そんなわけだ。ネオさんとイルゼ嬢が頑張って歩いたおかげで、土曜日の晩課の鐘……シュタイナウの旦那が処刑されるまでには、間に合うって寸法でさ。だから、あと必要なのは……ネオさん。あんたが真実を知って、なにをすべきか決めることだけなんだ」
ティルの言葉に背中を押され、もうその問いを避けて通ることはできないのだと悟った。
ホーエン老人は、既になにを聞かれるのかわかっているらしい。落ち着いて、しかし柔らかな笑みをたたえてネオを見つめ、その問いを待っていた。
ゆっくりと息を吐いた。いつの間にか、イルゼが手を握っていた。……そうだ。この手があれば。イルゼが傍にいてくれれば、自分は迷わないで済む。大切なものを見失わないで済む。そう思い、繋いだ手をしっかりと握り返した。
「ホーエンおじさん。……教えてください」
はっきりと、その疑問を口に出した。
「僕は……。いったい何者なんですか?」




