南へ
なんでだろう。どうしてだろう。
両親が生きていたときには、そんなことは考えもしなかった。ただ父親に教えられるままに、ザクセン語の読み書きを覚えた。母親に教えられるままに、聖書のラテン語を指で追った。幼いネオにとって、それが日常だった。
はじめてその疑問がネオの心に宿ったのは、両親が死んでからだった。自分の持つザクセン語の知識が、靴職人のツンフトのなかでひどく厄介な代物だということをなんとなく察して、居場所の狭さを感じていた。
自分の持つ聖書が、ニコライ教会の神父にとってはひどくけしからんものだということをなんとなく察して、結局、水車小屋の見える橋の上に居場所を見出した。そうして、叔父親子と、ツンフトと、教会と、それらの間を危ういバランスで縫うように暮らしていた。
転ばないように。バランスを崩さないように。いつしかそうすることがネオにとっての当たり前となり、そうすることに疑問を感じなくなっていた。イルゼにそのことを指摘されるまでは。
イルゼの放った魔法の言葉は、今までずっと心の奥に封じられれてきた素朴な疑問を、怒涛のごとく掻き立てた。なぜ、靴職人の父親が、靴作りだけでなくザクセン語を勉強させたか。なぜ、靴職人の妻でしかない母親が、高価な聖書を手に入れてまでラテン語を勉強させたのか。いや、そもそも――ただの靴職人が、どうやって聖書などを手に入れることができたのか。それも羊皮紙ではなく本物の紙で作られた、恐ろしく高価なものを。
答えのない疑問に急き立てられ、ネオは脚を動かした。脚にしつこくまとわりついていたピッチのようなネバネバは、いまや微塵も感じない。文字通り、イルゼの魔法の言葉によって、跡形もなく消し飛んでいた。不快なそれが消えてなくなったあとに残っていたものは、たったひとつ。いいようのない、胸のどきどきだった。
目の前を曇らせる邪魔なもののなくなった状態でそれを胸に感じて、ようやくその正体に気づいた。胸のどきどきの正体。それは、「知りたい」という心だった。まだ見ぬものを見たいという心。いくつもの分厚いベールに隠されたなにかを、探し出したいと思う心。神秘の闇のなかに手を差し込んで、たったひとつの真実を掴み取りたいと願う心。
それは、きっと旅をするものにとってはごく当たり前のものなのだろう。ネオにとって、聖書を読みながら危ういバランスを取り続けることが当たり前であったように、ジョングルールも、他の放浪楽師も、きっとティルのような遍歴職人も、みんな当たり前にそれを持っているのだ。
いつだったか、リンテルンの街で、見たことのない魚の料理を前にシュタイナウが言った「胸のどきどき」という言葉。自分の胸の中にも、たしかにそれがある。重く心を覆っていた靄がイルゼの魔法によって吹き飛ばされたあとに、確かにそれの存在を感じ取っていた。
水車小屋の風景。変化と不変。その狭間で綱渡りをしていたネオは、シュタイナウの導きによって、変化の側へと踏み出していたのだ。
だから、深く息を吸う。胸の中にある気持ちを探る。まずは、この道が、どこに続くのかを知りたい。右も左も森に埋め尽くされた風景の、その先になにが見えるのかを、知りたい。シュタイナウがわざわざ自分に会いにハーメルンまで来たというのなら、その理由を知りたい。アェルツェンにはいなかったホーエン老人。シュタイナウは、その老人がすべてを知っているという。ただの靴屋であるはずの自分が、聖書などを読んでいた理由も、きっとそこにたどり着けば見つかる。そんな予感があった。
いや、仮にそこに求めていた答そのものがなくても、歩き続けた先には、きっとなにかがある。なにかが見つかる。そのために、自分は歩くのだ。
南下するためには、一旦ヴェーゼル川にまで戻らねばならない。引き返すという行為が、とんでもなくもどかしく感じるが、しかしイルゼによれば、確実にホルティスミンネにたどり着くためには、ヴェーゼル川沿いに行く以外にないらしい。
地図もなし、シュタイナウのような熟練の案内人もなしとなれば、頼れるものはわずかだ。すなわち、道しるべを見つけることができる幸運と、行く先々の村や街にホルティスミンネまでの道を知っている人がいるという幸運と、東方植民以来ずっと曇りがちな空が晴れ上がって、星で方角を確認できる幸運と、……そして、ヴェーゼル川である。
どんなに道が入り組んでいようとも、複雑に枝分かれしていようとも、目指すべき街が同じ川の延長にある以上、川沿いの街道を歩けば必ず着く。それだけは絶対不変の真理だ。
すでに辺りは真っ暗になっていた。薄雲越しにぼんやりと照らしてくる月明かりがなかったら、それこそ右も左もわからないだろう。ヴェーゼル川を左手に黙々と歩くと、行く手にのっそりと巨大な影が見えてきた。ちろちろと燃える松明がいくつかかけられ、木組みの壁に囲まれたそれは、どうやら石造りの建物らしい。
「はっきりとはわからないですけど……多分、オーゼンのお城だと思います」
オーゼン。聞いたことがある名前だ。確か、イルゼの靴の材料にした駱駝革を聖ボニファティウス律院に喜捨したのがオーゼン伯だと聞いた気がする。と言うことは、あの影は、オーゼン伯のお城というわけか。お城とは言うが、いつかミンデンで見たものよりもはるかに小さい。というより、聖ボニファティウス律院とどっこいどっこいといったところだ。しかし、小さいが城郭に囲まれ、そして中央に主塔を持っているたたずまいは、明らかに教会や修道院などではなく、戦争のための小さな砦といったおもむきを見せていた。
「街外れに水車小屋があると思うので、その近くで少し休みましょう」
「水車小屋の近くで?」
その発想自体が、ネオの常識とは正反対だ。いったい、どうしてわざわざ不気味な水車小屋の近くに陣取る必要があるというのか。
「アジール〔権力の及ばぬ場所の意〕、ですから。なにかあったときには、一番安心です」
アジール。水車小屋の持つその奇妙な性質は、ネオも話くらいは聞いたことがあった。水車小屋はもちろん不気味で嫌われてはいるが、その一方で、街の中で諍いが起きて、誰かが誰かに追われることになった際に、水車小屋の中にまでその諍いを持ち込むことは禁止されているのだ。これもバナリテと同じく領主によって定められたもので、街の法律などよりもはるかに強い力を持っている。
たとえ街の中で犯罪を犯したものでも、ひとたび水車小屋に逃げ込めば、そして水車小屋の粉挽きがたった一言、領主の名前を出して制止したら、街の番兵も踏むこんで犯人を捕まえることは許されない。その間に、身代金や罰金の交渉を行うのだ。
もちろん、街の住人にとっては理不尽でしかないこういった謎めいた性質もまた、水車小屋と粉挽きが嫌われることを助長しているのだろう。しかしそれは、いつなんどき迫害の対象となりかねない放浪者にとっては、これ以上ないほどに心強い存在なのだ。
一心不乱に歩き、焚き木を拾い集めることすら考えていなかったため、焚き火による暖は取れなかった。横たわったアレクサンデルとアルブレヒトに挟まれ風よけになってもらい、マントをイルゼのものと二枚重ねにして、しっかりと寄り添うことで互いの身体を暖めあった。体温が外に逃げて行かないように、身体をピッタリと重ねた。柔らかなイルゼの鼓動がネオの胸に響き、これではドキドキしてとても眠れないと思ったが、しかし、水車小屋のギシギシごりごりと響く音が耳を支配すると、いつのまにか思考も痺れはじめた。
夜が明けてから、再び歩いた。雨こそ降らないものの、空はどんよりと重い色をたたえている。
「そう遠くないところに、グローンデのお城があるはずです。その辺りまでは知ってるんですけど……それより南は、私もうろ覚えで……」
それでも、ヴェーゼル川に沿っていけば、なんとかなる。その思いに支えられて、ひたすらに歩いた。イルゼの言った通り、オーゼンとほとんど同じ規模の小さなお城と、その周囲に張り付くような集落が見えた。
その横を通りすぎて、黙々とヴェーゼル川をたどって歩く。そろそろ街では九時課の鐘が鳴ってるころかと思っていたとき、イルゼがなにかに反応してネオの袖を引いた。
「うん? どうしたの?」
「しっ……こっちです。速くっ」
アレクサンデルとアルブレヒトを引っ張って、足早に森の方へと入っていく。森の近くは背の高い草が茂っていて、イルゼは見事な手綱さばきで二頭のロバをそのなかに伏せさせた。そして、ネオとイルゼも身を伏せたころ、ようやくネオにもなにかの足音が聞こえてきた。
「馬の足音……? でも、どうして隠れるの?」
「足音が四頭だからです。ただの早馬なら、一頭か二頭で充分なはずです。四頭もいるってことは、兵隊か……もしかしたら、もっと悪い相手かも知れません」
「兵隊?」
まだイルゼの言葉を飲み込めないネオだが、返事が来る前に、足音の主の姿があらわれた。イルゼの言うとおり四頭の馬だ。さっきまでネオたちが歩いていたところを、ガガガッ、ガガガッ、と蹄で蹴散らして走り去ってゆく。その姿を見ただけで、イルゼの言っている意味はよくわかった。
馬上の騎手は、シュタイナウが可愛く見えるほどの悪相を備えていたのだ。ひとり残らず顔中をボロボロに刀傷で削り、まるで涎でもふりまかんばかりに下品な笑みを隠しもしない。どう見ても、まっとうな人間ではない。盗賊か、あるいは仕事のない兵隊だろうか。馬に乗っていたからには、盗賊騎士かもしれない。
兵隊だの騎士だの言えば多少は聞こえが良いが、なんのことはない、ただの馬に乗った盗賊だ。通行料だの安全料だのと言って、ようするに難癖をつけて金品を奪っていくのだ。悪ければ身ぐるみ剥がされて殺される。そういった輩だ。
しかしイルゼは簡単には断定しなかった。
「今までに、盗賊騎士が根城にするような古いお城はなかったですよね? 従者も連れていなかったし……。だとしたら、あの人達は、どこから来て、どこに行くんでしょう?」
「…………」
ネオには見当もつかない。しかし、今更のように、アマラの言葉が脳裏に蘇っていた。
――とんでもない争いに巻き込まれて、残りの人生のすべてが殺し合いで終わっちゃうかも知れない――
もしかしたら、さっきの盗賊は、自分を探しにきていたのか? イルゼは、そんな予感を察して、急いで隠れたのか? まさか。それこそ、考え過ぎだ。そう思うネオだが、しかし、イルゼがアレクサンデルの背中に積んであった弓に弦を張っているのを見て、ぎょっとした。
「万が一のためです。私の弓でも、馬を脅かすくらいなら、なんとか」
そう言って、蹄の音が聞こえないことを念入りに確かめた上で街道に戻り、再び南へとヴェーゼル川をたどった。しかし、イルゼの悪い予感は当たっていたことを、思い知らされた。
ヴェーゼル川がゆるやかにカーブして東へ向かいはじめたころ、遠くから、からーん、からーん、と鐘の音が聞こえた。さすがにネオにも音だけで街や集落の規模が予想できるようになっている。このくらいの音を立てるのは、小さな村の礼拝堂といったところだ。城があってもオーゼンやグローンデと同じ程度の小さなものしかないだろう。それでも、人の気配があるという安心感は凄まじかった。一刻も早く、その村へと駆け込みたいという衝動で胸がいっぱいになり、注意がおろそかになっていたのだ。
「ネオさん!」
イルゼが緊張した声を上げたときには、道の後ろから四頭の馬が凄まじい勢いで迫っていた。いつの間に後ろに回りこまれたのか? どこかに回りこむ道でもあったのか? わからないが、とにかく、四人の盗賊らしき男たちは、ネオの背後から追いかけてきたのだ。
「ネオさん! 走って!」
「でも……っ!」
振り返って、再びぎょっとした。イルゼが弓に矢をつがえ、ギリリと構えていた。まさか、射つのか。人に向かって、射つのか。なにが起きているのかわからない。一瞬にして悪夢の中にでも放り込まれた気分だった。およそ二〇クラフタ〔四〇メートル弱〕にもなろうか。馬上の男の顔が見えて、背筋が凍った。ネオとイルゼの二人をしかと見据えて、狂乱じみた笑みを浮かべていたのだ。それは、悪意というほかないものだった。今の今まで、なにかの勘違いで、ただの通りすがりの兵隊さんかなにかだろうと思っていたのが、一瞬にして粉砕された。
更に距離が縮まる。凍りつくネオのすぐ横で、ビィンと弦が跳ねた。イルゼが矢を放ったのだ。時間が止まる中、目だけで矢の行方を追う。……先頭を走る馬の胸に吸い込まれ、ドンと音を立てた。馬がその場で狂ったように立ち上がり、いなないた。乗っていた男が地面に叩き落される。それを避けて後続の三頭がたたらを踏んでいた。
「ネオさん!」
ぐいと手を引かれた。イルゼが走っていた。アレクサンデルとアルブレヒトは、いつの間にイルゼがそう指示していたのか、あるいは危険が迫っているのを察知したのか、とっくに先を走っていた。イルゼは片足が義足だとはとても思えない速さで、むしろネオのほうが付いて行くのに必死だ。
背後に荒々しい叫び声が聞こえ、蹄の音が追ってくる。振り返るのが怖い。そもそも馬なんかに追いかけられて、逃げ切れるはずがない。――そう思ったとき、目の前に木組みの壁と、集落への門、そして両脇を固める番兵の姿が目に入った。無我夢中で門の中へと転がり込んだ。へたり込んだ。心臓がけたたましくドッドッドッと音を立てている。荒く吐き出す息さえもが震えていた。見ると、イルゼが門の外を厳しく見つめている。その視線の先には、すでに馬の姿は見えなかった。まったく気づかなかったが、集落にある程度近づいた時点で、早々と諦めていたらしい。ようやく緊張が解けたのか、イルゼもその場にくたくたとへたり込んだ。
「い、いいイルゼ、いいまのは、いいいったい」
吐き出す言葉が面白いほどに震えている。それはイルゼも同じだった。
「わわわかりません。でもでもでも、あ、あんなふうに近づいてくる人が、わわ悪者じゃないはず、ななないです」
そういうものなのか。イルゼが迷わずに弓を射ったのも、その確信があったからなのか。
「連中、盗賊騎士か? この辺では見かけない顔だったが。ともあれ、無事でなによりだ。いくら馬を持っていても、この村の中までは追ってこれないさ」
「あ、ありがとう……ございます。助かりました……ほんとうに……」
「すいません。私たち、ホルティスミンネまで行きたいんです。ここは、どの辺りですか? この方向であってますか?」
お礼もそこそこに、イルゼが番兵に尋ねる。矢継ぎ早の質問に怪訝な顔を見せながらも、番兵はひとつずつ教えてくれた。
「ええと。まず、ここはヘーレンって村だ。ホムブルク公のご領地の西のはずれ……ってところかな。それと……ホルティスミンネか。結構遠いぞ。ここからヴェーゼル川はぐっと北東に回りこんでいるからな……順調にいけば、二日ってところか」
二日。ここまで来るのに二日かけているのだ。それだけでも、もう間に合わない。ずしんとその距離が肩にのしかかった。しかし問題はそれだけではないのだ。
「さっきの連中……君たちを狙っていたみたいだが……」
まともに川沿いを歩いていては、確実に追いつかれるだろう。いや、もしもそうなら、村から出るのを待ち構えているかも知れない。
「他に……ホルティスミンネに向かう道は、ないんですか?」
ネオの問いに、番兵はうーんと唸る。
「まあ、無くはないが……あまり薦められないな。なにせ森の中を通る道だ。南の門からオットーのお城に向かう道がある。お城から更に南に向かえば、ヴェーゼル川が曲がりくねるのに付き合わないでブライテフルトまで抜けられるが……って、おい」
「南門からオットーのお城への道を、そこから更に南、ブライテフルトですね? ……本当に、ありがとうございました」
ネオがていねいにお礼を言うその横で、イルゼはずり落ちかけていたロバの荷物を整え、出発の準備をしていた。
番兵はしきりに旅籠で夜を明かすよう薦めてきたが、シュタイナウのことを思うと、とてものんびりと食事をしていくことはできない。それに、さっき晩課の鐘が鳴ったとはいえ、まだ明るいのだ。少しでも歩を進めておきたかった。




