一三〇八年、春が終わるころ
この街では、二十四年に一度、子供たちがいなくなる。
そんな噂が囁かれているのは、水車小屋がずらりと並んだ不気味な景色のせいなのかも知れない。しかし、実のところ、ネオ・シューマッハは水車小屋が嫌いではなかった。
特に、音が好きだった。
たっぷりと水を吸った木製の車輪がぎしぎしと軋む音と、小屋の中で巨大な石臼がごりごりと回る音。
目を離すと、たちまち崩れ落ちてしまいそうな危うさを秘めた音と、この先何十年、何百年経ってもまったく変わらないような、約束の音。
なぜだかは自分でもわからないが、相反する二つの音に包まれていると、不思議と気分が落ち着いた。鬱々とした気持ちが、ほんの少しだけ見たことのない世界へと誘われ、吸い込まれるような気がした。
だが、ネオがそれを口にすることはなかった。なぜなら、水車小屋は街では嫌われているからだ。
――水車を操る粉挽きは、川に住む水妖と通じて小麦を騙し取る泥棒だ――
悪態を付きつつも、ハーメルンの住民は小麦の詰まった麻袋を粉挽きに預けざるを得ない。粉挽きを介さずに自分で勝手に粉を挽くことは、領主が粉挽きに与えたという水車のバナリテによって、厳しく禁じられているのだ。
大きな麻袋に詰まった小麦も、挽いて粉にするとちっぽけな器に収まってしまう。しかも、その中から――とても正直に計っているとは思えない――手数料と、領主に納める租税の分まで差し引かれるのだから、良い感情が生まれるはずがない。その上、水という人ならざる力を操るとなれば、そこに得体の知れぬ不気味さが加わるのは当然というものだ。
だから、ヴェーゼル川の中洲にずらりと並んだ水車小屋を見下ろせる橋の途中などに、好きこのんで留まるものはいない。
しかし、そんなところだからこそ、ネオにとっては特別な場所だった。
ネオは、一〇〇クラフタ〔およそ一八〇メートル〕ほどもあるこの大きな橋の中ほどで、両親の遺言に従って聖書を開き、ラテン語の勉強をしていた。
日課だった。ただの聖書に過ぎないが、一介の靴職人の、しかも徒弟のネオが落ち着いて読める場所となると、そう簡単には見つからないのだ。
まず、聖職者でもその卵でもないネオが街の中で堂々と聖書を広げると、街の中央のニコライ教会の神父が良い顔をしない。あまり目立ったら、難癖をつけられ聖書を没収されかねない。
工房も同じようなものだ。父親の死後、当時できたばかりの職人組合の決定に従いしぶしぶとネオを引き取った叔父も、徒弟でもある甥が聖書を読むのをことさらに嫌がった。それどころか、大切な形見の聖書を叩き売って小金に代えようとする有様だった。
そんなしがらみから逃れて、誰の目も気にせずに両親の遺言を果たせるのが、ようやく見つけたこの場所なのだ。
巨大な木の橋を西に渡り切って三叉路までいくと、そこはむしろ森の領域に近い。そこにいるのは街の定時市場からあぶれた怪しげな行商人か、素性も知れぬ放浪者か、あるいは処刑台に吊るされた咎人くらいだろう。なにか起きても、助けを呼ぶ声も番兵に届かない。高価な聖書を持っていては、とても安全とはいえない場所だ。逆に、橋を東に渡りヴェーゼル門をくぐって街の中へと入ると、今度は教会やツンフトなど、法律やしがらみの支配する窮屈な世界だ。
それらの中間に当たる橋の上は、街の外ほど治安が悪くもなく、そして街の中ほどしがらみに縛られない、ネオにとってとても都合の良い場所だった。
一時課の鐘〔午前六時ごろ〕とともにベッドを抜け出し、いつものように中洲の皮なめし職人から靴の材料の巻き革を買い入れた、その帰り。工房を開ける三時課の鐘〔午前九時〕までには暫く猶予がある。この時間、ネオは大抵ここで聖書を開いていた。難解なラテン語を追うのに目が疲れたら、水車小屋を眺めながら、不思議な音に聞き入った。
そんなわけで、ネオは水車小屋が嫌いではない。ここは誰にも邪魔をされない、ネオだけの場所なのだ。
しかし、今日に限っては、そうではなかった。
「水車小屋と、巻き革と、聖書か……。ずいぶんと面白ぇ取り合わせだなぁ?」
突然かけられた横柄な声に、反射的に聖書を背後に隠した。こんな場所でネオに興味をもつものがいるとは思っていなかったから、驚きとともに警戒心が立ち昇ってくる。ちらりと番兵のほうを見る。大声で叫べばすぐに来てくれるだろうか。
「おい。別に、そいつをよこせなんて言ってねぇだろうがよ。怪しいもんじゃねえよ」
横柄な声はネオの反応に抗議するが、ものも言わずに強引に奪い取る物盗りだっているだろう。そもそも、いったい――。
そこで、はじめてネオは声の主を見た。
橋の欄干を背にしたネオを取り囲んで、いつの間にか数人とロバ二頭が周りを占拠していた。長い旅をしてきたらしく、全員等しく羊革のつぎはぎマントを頭からかぶり、埃と土にまみれている。ロバの背中に山と積まれた、用途もわからぬ雑貨類。その脇にぶら下がっている奇妙な革袋を見て、ネオには彼らの正体がわかった。
革袋に見えるものは、実は楽器である。見かけはまるで水を詰める革袋そのものだが、よく見れば袋からは何本かのパイプが突き出ている。そのうちの二本ばかりは、ネオの背丈よりも長く伸びていた。これは、放浪楽師が好んで使う楽器、バグパイプだ。
「お、知ってるか? なら話が速ぇや。ひとつ、自己紹介といくか。街で最初に会うものには礼を尽くすってのがうちの流儀なんでな。……ごほん。俺たちゃしがない放浪楽師、その名もレ・ジョングルールだ」
レ・ジョングルール。この辺り、ザクセン地方の言葉ではない。ラテン語だろうか? しかし、ラテン語で書かれたネオの聖書には、「レ」のような冠詞は一度も出てこない。レ・ジョングルール。なんとも不思議な響きだ。
「へへ、妙ちくりんな名前だろ? フランス王国の言葉だとさ。まあ、そのまんま『放浪楽師ども』って意味でな。……とりあえず、怪しいもんじゃねえから、むやみに騒がないでくれるとありがたいってぇわけだ」
弁解じみた言葉ではあるが、横柄な物言いはむしろ逆効果だ。肌は日焼けして浅黒く、無精髭も濃い中年の男。服装は旅にくたびれ泥と垢で汚れきっており、お世辞にも上品とは言いがたい。胡乱な笑みを浮かべている様子が、ネオの警戒心を募らせた。
そもそも、そのジョングルールとやらが、いったいどうしてネオに目をつけたのか。どうして自己紹介までして絡んでくるのか。怪しまれたくなければ、こんなところに留まってないで、橋を渡ってしまえば良いだろうに。さっさと街に入って、平穏な時間を返して貰いたいものだ。
見かねたらしく、助け舟が入った。
「旦那ぁ、子供ビビらせてどーすんですかい。ただでさえ人相が悪いんだから、大人しくしときやしょうぜ? 街に入る前に追い出されるなんて、シャレにならねっすよ」
「うるせえやい。橋の上で聖書なんざ開いてやがっから、どんな物好きかと思っただけだい」
団長の悪態にからからと笑い返す声の主を見ると、ネオを子供と称したその男は、ネオよりも四、五歳上といったところか。ひょろりとしたその青年の言うとおり、団長の人相はお世辞にも良いものではない。マント越しにもひと目でそれとわかる巨大な刀傷を走らせた凄みのある相貌で、ネオと聖書と立てかけてある巻き革とを順ぐりに見ている。その様子は、場所が場所なら獲物を品定めする盗賊にしか見えないだろう。
「シュタイナウさん、番兵さんが見てます」
つっけんどんに言ったのは、二頭のロバの手綱を取っている少女だった。ネオよりも若干若いか。背は低く、ロバに積み上げられた荷物になかば隠れてしまいながらも、突然取り囲まれてしまったネオを気遣う様子を見せている。
早く行きましょうとばかりにロバを引くその足取りは、ひょこひょこと片足を引きずって肩を揺らしていた。おそらく靴が破れたまま旅を続け、足を傷めてしまったのだろう。靴屋の職業病とでも言うべきか、足の様子が気になる。が、ロバと大量の荷物に隠れてしまった。視線に気づいたのか、少女はぺこりと会釈をしてくる。マントから覗いた人形を思わせる可愛らしい相貌にどきりとして、慌てて目をそらした。
少女の言葉は嘘ではない。ネオの近くで立ち止まった放浪者の群れを警戒した番兵が、こちらをまっすぐ向いて訝しみの視線を投げかけていた。実際のところ、人目がなくなった途端に狼藉を働くような放浪者も少なくはないのだ。この橋の上では狼藉は許さぬとばかりの視線と、少女のつっけんどんな口調に、
「ふん」
シュタイナウと呼ばれた男は大人しく歩きはじめた。ほっとしたネオの横を四人と二匹がぞろぞろと通り過ぎる。ふと、しんがりを歩いていた女が声をかけてきた。
「脅かしちゃってすまないね。うちの馬鹿はお行儀が悪くってさ。……靴屋さんかい?」
見れば、マント越しにも奇妙な艶っぽさを漂わせた女性が、にこにこと微笑んでいた。傍らに立てかけてある巻き革から、ネオが靴屋であると見て取ったらしい。
「え、ええ。徒弟の身ですが」
「ふうん。……もしかしたら、お世話になるかもだから、一応、よろしくね?」
媚びるようなウインクを見せ、するりとネオの横を抜けていった。しなやかな物腰から察するに、一座の踊り子なのだろうか。
最後にもう一度ロバ引きの少女と目が合った。団長とは対照的に律儀らしい、再びペコリと会釈された。踊り子の言葉と照らし合わせると、やはり、あの少女の靴は破れているのだ。靴が破れるとそれだけでも歩きにくいし、それで片足を怪我したら、そちらの足を庇って、もう片方の足も痛くなってくるものだ。最悪の場合、汚泥の毒が傷口から入り、死に至ることさえある。旅を続けるのに、これほど致命的なことはあるまい。あるいは、旅を生活の中心とする放浪楽師にとって、靴とはネオが想像する以上に大切なものなのかも知れない。
離れていく少女の顔は人形のように可愛らしいが、しかしその表情は重く沈んだ様子だった。足を怪我したまま旅を続ける過酷さを考えれば当然だ。ハーメルンの街でゆっくり休んでいくのだろう。あまり酷い怪我じゃなければ良いけど。そんなことを思いながら一座を見送っていると、今度は番兵が声をかけてきた。
「おーい! ネオ、そろそろ三時課の鐘が鳴るぜ? 店はいいのか?」
その言葉で我に返った。いい、どころではない。聖ボニファティウス律院の鐘が三時課を告げるまでには、店を開けておかなければ。
番兵に礼を言って、駆け足で橋を渡った。一座は片足を怪我した少女をともなっているにも関わらず、足が速かった。とっくに門番に橋渡し賃を支払い、街の中へと溶け込もうとしていた。