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ジョングルール ~ハーメルンの笛吹き男~  作者: 凪茶房
第三章 靴屋のネオは東方植民へ志願する
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崩壊

 ハーメルンの東門をくぐった途端に、その場でへたり込んでしまった。街の壁というものが、ここまで心強いものだとは、夢にも思わなかった。それは、一〇〇人の子供たちもまったく同じ思いだろう。

 子供たちがぞろぞろと帰ってきたのを見て、街の大人たちは驚愕し、なにがあったのかを肩を揺さぶらんばかりに聞いてきた。

「エーフェルシュタインの悪魔が出た! エーフェルシュタインの悪魔が出たぞ!」

 その知らせはあっという間にハーメルンの街中を走り回り、今やすべての子供たちが両親と再会し、恐れと安堵が辺り一帯に広がっていた。東門の前に集まった大人たちを前に、ネオは改めて思い知った。自分の率いた東方植民は、失敗してしまったのだと。

 とにかく、なにが起きたのか、どうやって逃げてきたのか、それらを報告しなくては。そう思って言葉を探すが、

「……すいません」

 そんな言葉しか、出てこなかった。結局のところ、ティルの正体も見抜けずに護衛を頼んだネオが間抜けだったのだ。なにが失敗だったのかと問われれば、最終的にはそこに行き着くのだろう。誰に責任があるかと言われれば、植民請負人であるネオ以外にはありえない。だから、言い訳もせずに謝った。

「すいません。僕が、不甲斐ないばっかりに」

「いや、よくやってくれた」

 そんな言葉を返してきたのは、商人らしき男だった。どうやら子供たちの両親のひとりらしい。なにせ子供だけでも一〇〇人もいるのだ。いったいどの子供の親なのかは見当もつかない。しかし、その男は心からの安堵を顔に浮かべ、ネオをねぎらっていた。

「エーフェルシュタインの悪魔に襲われたにも関わらず、ひとりも死なせずに連れて戻ってきたんだ。ネオ君に任せて、本当によかったよ」

「そうだよ」

 別のおばさんが合いの手を入れた。

「どこの誰とも知れぬ男を雇ったりしてたら、子供たちをおっぽり出して逃げ出してたかも知れないよ。そしたら、二十四年前の繰り返しだ。ネオ君は、立派に子供たちを守ってくれたんだよ。東に向かうのに失敗しても、なあに、子供が死んじまうよりはずっとマシさ。ネオ君は子供たちの命の恩人だ。胸を張っておくれよ」

 それが、集まった大人たちのおおむねの総意だった。少なくとも、この場の誰ひとりとして、ネオを責めるものはいない。それで、ようやくネオは自分の決断が正しかったことを知った。ネオはあのとき、無理にでも先に進むことができないものかと考えたのだ。アマラになかば脅し同然に説得され、東方植民を断念することに決めたが、その決断は正しかったのだと、街のみんなが教えてくれた。

 驚くべきことに、靴職人のツンフトでネオを煙たがっていた余所の工房の親方まで、ネオを称賛していた。どうやら、その親方も子供のひとりを植民に参加させていたらしい。子供の恩人でもあるネオを、自分の工房で雇っても良いようなことまで口走っている。

 確かに植民は失敗に終わった。少なくとも、当分の間はハーメルン市における東方植民の話はタブーになるだろう。しかし、その一方で子供たちを全員無事に生還させたネオが得たものは、考えていたよりも遥かに大きなものだったのかも知れない。

 もちろん、それだけでは終わらなかった。


「どの面を下げて戻ってきおったかッ!」

 少しだけ気持ちも軽くなって、聖ボニファティウス律院に赴き、エーリッヒ神父に報告しようとしたそのとき。あの温厚な神父が、ネオの顔を見るなり烈火のごとく罵声を浴びせてきたのだ。文字通り、呆然となった。これが、あのエーリッヒ神父だとは信じられなかった。あまりにも予想とかけ離れていたために、打ちひしがれるよりもむしろ呆気にとられた。

 ――ネオ君、君はまだ若い。失敗を糧にするのも、若さの特権だ。……君は、今回の失敗で成長すべきなのだ――

 実のところ、そんな温かい言葉を期待している自分もいたのだ。しかし、それが単なる甘えだったことを、思い知らされた。しかし、それにしても、

「なにが、エーフェルシュタインの悪魔だ! なにが、シュタイナウだ! どこぞの野盗に襲われたからといって、おめおめと逃げ帰ってくるとは、なんという失態だ! シュプリンゲ村にたどり着く、ただそれだけのことが、どうしてできぬのだ!」

 いくらなんでも、豹変し過ぎではないか? 謝罪の言葉さえも言わせてもらえない。どうして、あの温厚なエーリッヒがここまで激昂できるのだ? 確かに自分は失敗した。ハノファーレ市どころか、その手前にあるというシュプリンゲ村にさえもたどり着けなかった。だが、あのまま強行して子供たちともども全滅するよりは、遥かにましな結果を残したのも事実だろうに。

 それに、エーフェルシュタインの悪魔の正体や手口がわかったのだ。もしも、ネオの知るエーリッヒ神父であれば、あらためて計画を練り直し、対策を講じて、確実に成功させる方法を考えるところだ。

「し、神父さま……? いったい」

「やかましい! この役立たずが! この私が、いったい何年かけて計画してきたと思っているのだ! これではすべてが水の泡ではないか! いや、それどころか……。ええい! いまいましい!」

 もちろん叱責は覚悟していた。子供たちが無事に帰ってきたとはいえ、失敗は失敗だ。そのことを突きつけられれば、ひたすら平身低頭で謝る以外にない。そんな覚悟をしていた。しかし、落ち込んではいなかった。いや、エーリッヒの怒り狂う様子があまりにも現実離れしていたために、しょんぼりと落ち込む余裕すら与えられなかった。

 エーリッヒは、本当に何年もかけて計画していたのだろう。ブラウンシュヴァイク公国のヴェルフェン家と交渉を重ね、支援を約束させるまでには、大きな苦労があったことだろう。見当もつかないが、ブラウンシュヴァイク公国の軍隊を動かすというのも、とんでもなくお金のかかることなのだろう。そういえば、この事業の功績をめぐり、水面下では事業そのものの乗っ取り工作まであると言っていた。あるいは、今回の失敗でエーリッヒ神父が東方植民事業を任されることは、二度とないのかも知れない。エーリッヒにとっては、ヴェルフェン家の中で名を上げるための、文字通りたった一度のチャンスだったのかも知れない。そのすべてを台無しにしてしまった。それは、申し訳なく思う。返す言葉すら見つからない。

 しかし同時に、エーリッヒが何年もかけて計画したことについて、聞かないわけにはいかなかった。

「神父さま。ひとつだけ聞かせて下さい」

「なにを、ぬけぬけと……っ」

 聞く耳も持たぬと言わんばかりのエーリッヒだが、しかしネオは言葉を強めた。断固として、聞いた。

「僕をミンデンまで行かせたのも、その間にお店をつぶしたのも、何年も前からの計画だったんですか。僕を植民請負人に仕立て上げるために、ずっと前から、」

「だったらなんだというのだ! まさか、そんなくだらぬことが、言い訳になるとでも思っておるのか!」

「――――っ!」

 耳を疑った。ある程度の覚悟はしていたが、それでも頭が真っ白になった。

 あの工房には、確かに嫌な思い出もたくさんあった。叔父や従兄に対しても、暗い感情を募らせてきた。しかし、それでもネオにとっての唯一の帰るべき場所だったのだ。かつて叔父と争った際にも、血の滲む思いで守り抜いた、父親の遺した工房だったのだ。それを一方的な都合でつぶしておいて、挙句にそのことを誤魔化すどころか「くだらぬ」とまで言い切ったのだ。

 しかし、ネオの受ける衝撃はそれだけに留まらなかった。

「ええい! かくなる上は、もう一度出発するのだ! 今すぐにでも!」

「…………ええっ!?」

 いくらなんでも、ありえない。正気とは思えない。まさか、怒りのあまり本当に気が狂ってしまったのではないか。そんなふうに思いさえするが、どうやらエーリッヒは大真面目に言っているらしい。

「食料が必要なら、用意してやる! 他に必要なものはなんだ! 言え! そして、すぐにでも子供らを集めて、出発するのだ!」

「無理ですっ」

 きっぱりと言った。こればかりは、どんなに怒鳴りつけられようが、たとえ殴られ追い立てられようが、絶対に無理だった。そうでなくとも、今までずっとエーフェルシュタインの悪魔が東方植民への障害になっていたのだ。

 この街では、二十四年に一度、子供たちがいなくなる。

 その噂は本当だった。本当に、エーフェルシュタインの悪魔は子供たちを狙っていた。それが現実となって目の前にあらわれた以上、もはや東方植民など夢のまた夢、さっき帰ってきたばかりの疲労困憊の子供たちを連れて再び出発など、正気の沙汰とは思えない。

「絶対に、無理です。……もしも、もしも僕ひとりで行けというのなら……そして、それが必要だというのなら、這ってでも行って見せます。……でも、子供たちを連れて行くのは、絶対に無理です。どうやっても不可能です」

「無理だろうが、なんだろうが、行くのだ! なんのために貴様ごとき徒弟ふぜいに目をかけてやったと思っておるのだ! 今までの恩を、これ以外のどんな形で返せるというのだ!」

 さすがに、ここまで立て続けとなれば、衝撃には慣れた。いや、さっきの言葉から、なんとなく予想もついていた。思えば、両親が死んでエーリッヒ神父と懇意になったのは数年前のことだ。何年も前から計画していたと言う以上、知り合った当初からそのつもりだったというのは、自明といえよう。そのことが、はっきりした。他ならぬエーリッヒ自身の口から放たれた。

 同時に、ネオは決定的なことに気がついていた。一連の罵倒の中で、エーリッヒの口からは飢饉に関する憂いが、ただの一度も出てこなかったのだ。そもそも、東方植民そのものが飢饉への対応策ではなかったのか? 実のところ、東方植民に失敗しても、飢饉によってハーメルン市が被る問題を解決するためなら、どんな手伝いだって厭わないつもりだったのだ。なのに、エーリッヒは、飢饉の話などすっかり忘れてしまっている様子だ。

 いや、本当に忘れているのだろう。ネオを植民請負人に仕立て上げる、ただそれだけのために、叔父の店をまるで犯罪を犯した放浪者でも処分するかのようにつぶしてのけたのだ。エーリッヒにとって、街の住民がどんな目にあおうが、知ったことではないのだ。飢民が押し寄せてハーメルンの街で暴れようが、そんなことには端から興味すらないのだ。

 この男は、ただただ、ヴェルフェン家における自分の栄達のことしか考えていなかった。神父の皮をかぶった、とんでもない俗物だった。申し訳ないと思う気持ちが、みるみる引いていくのを感じた。エーリッヒに対する気持ちが、すーっと冷たくなっていった。

 入れ替わりに、ティルの顔が脳裏に浮かび上がってくる。あるいは、ティルもまた、こんな思いを重ねてきたのかも知れない。気に入らない親方や領主に王侯貴族。そういった相手を面白おかしくおちょくった挙句、大金を巻き上げ、場合によっては破滅させる青年。叔父の件もしかり、からからと笑うその裏には、立場や権力を傘に着た横暴に対する底知れぬ怒りがあるのかも知れない。

 こんなとき、ティルだったらなんて言い返すだろう。そう思った途端、自然に口が動いた。自分でも驚くほど冷静だった。

「どうしてもというなら、ひとつだけ準備が必要です」

「言ってみろ」

「確かに、僕の役目は子供たちを率いることです。でも、そのための説得をすることまでは、引き受けた覚えはありません。だから、神父さまが子供たちとご両親を説得してください。子供たちの準備ができたなら、いつでも出発しましょう」

「……おのれっ」

 まさか、そんな言葉がネオの口から出てくるとは思わなかったのだろう。恐ろしいほどの形相で睨みつけてきた。しかし、もはや臆することはなく、冷たい目で視線を受け止める。目の前にいる男は、もはや何年も親切にしてくれた神父ではなかった。神さまなどとは遥かに縁遠い、自分の利益だけのために立場を悪用して、ネオから帰るべき家を奪った男だった。

「準備ができたなら、いつでも言ってください」

 ぬけぬけと言い放ち、背を向けた。

「このままでは……このままでは、すまさんぞ」

 背後から聞こえるのは、もはや神父の言葉とは思えない。恫喝そのものとも取れる呪いの言葉だった。

 この日、ネオの信じていた世界が、崩壊した。

 エーリッヒという、ハーメルンの街における最大の理解者を失った。いや、そんなものは最初からいなかったのだ。両親が死んでから数年。ようやくその事実に気付かされただけだった。


「ネオさん……大丈夫ですか?」

 律院の外で待っていたイルゼが声をかけてきた。エーリッヒの怒鳴り声は外まで聞こえたろう。叩きつけられた真実に、ネオが打ちひしがれているのではと心配してくれていたのだ。

「うん、大丈夫。びっくりしたけど……本当のことがわかってすっきりしたよ。……でも」

 ただ、ひとつだけ、疑問が残っていた。一連のエーリッヒの行動で、ひとつだけどうしても理解できないものがあった。果たしてエーリッヒの真実の姿は、ほとんどシュタイナウが看破した通りのものだったが、それでも説明のつかないことがあった。

「……神父さまは、どうして僕の東方植民への参加を渋ったんだろう」

 最終的にネオに行かせる計画だったのなら、ミンデン行きのときと同じように強引に頼み込めばよかったのだ。帰るべき家を奪うことで、ネオを追い込む条件は充分に整っていたはずだ。加えて、ネオはネオで、外の世界を歩くことに自信を付けていた。強引に頼まれれば、きっと引き受けていただろう。なのに、エーリッヒは「人生を賭けるに足る動機」だのといい、ネオの方から参加を希望してくるまで待っていた。その理由が、最後までわからなかった。

 あるいは……ネオを利用して計画に組み込みはしたが、その一方で、純粋な気持ちで東方植民の成功を願う心も持っていたのかも知れない。東に向かったものたちの幸福を心から願うからこそ、中途半端な気持ちでの参加を諌めていたのかも知れない。今となっては真意を聞き出すことも叶わないが、しかし、せめてそうであって欲しいと思わずにはいられなかった。


 エーフェルシュタインの悪魔が捕らえられたという騒ぎがネオの耳に届いたのは、その日の夕方のことだった。


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