邂逅
ティルの言うとおりだった。先が思いやられて、涙が出そうだった。
ここのところ、初夏にしては珍しく良い天気が続いていたのだが、それも昨日までだったらしい。冷たい雨が、一〇〇人の子供たちを打ちのめしていた。そればかりか、明け方になってから、二〇人ほどの子供たちが熱を出して夢魔に取り憑かれたのだ。
シュタイナウを見習って、昨夜寝る前にヴァイデを煎じたものを夢魔除けとして飲ませておいた。しかし、ろくに街から離れたこともない一〇〇人の子供たちが、いきなりとんでもない距離を歩いたのだ。ひとりも夢魔に取り憑かれないなんて都合の良いことがあるはずがない。ティルに言わせれば、この程度の人数ですんで幸運だということだが、しかし、それどころではなかった。二〇人ものうなされている子供を前に途方に暮れそうになるネオの精神を、やはりイルゼが支えた。
元気な子供にたどたどしくも懸命に指示を配り、水辺に生えているヴァイデを片っ端から掻き集めさせた。それをリンネルで絞り、煎じたものよりも遥かに濃い汁をうなされている子供に飲ませて回った。他にも、そこらに生えているオレガノやマルビウムを集め、手でぐじゃぐじゃに揉んで柔らかくほぐし、それを苦しげに息をする子供たちの胸や喉に張った。忙しさに目が回りそうだった。
昼ごろになると、ようやく子供たちは落ち着きを取り戻した。しかし、ネオの心はこれ以上ないほどに重い。なぜなら、こんな状況でも出発しなければならないからだ。それを告げるのが、嫌だった。きっと、子供たちは泣き出すだろう。それでも、言わないわけにはいかない。心を鬼にして、そのことを告げるべく立ち上がったが、それをティルが制した。
「あっしが言いやすぜ」
「そんなこと、」
「アンタは嫌われちゃ駄目だからね。その点、あっしは気が楽なもんだ。街によっちゃ、親の敵みたいに嫌われてっからね。今更捨てるもんなんてありゃしないさね」
「……っ」
だからって。だからって、嫌われるのが嫌だから、その役をティルに押し付けるなんて、
「ネオさん、わかってないね? あっしはね、『嫌われないほうが良い』なんて言ってるわけじゃないんだ。アンタは子供たちの柱だ。なにがあっても、どんなに卑怯な真似をしても、絶対に嫌われちゃなんねえ。ネオさん、アンタが子供たちに嫌われたら、みんなバラバラだ。そんなんじゃ、誰ひとりとして生きて帰れないってなもんだ。あっしが言ってるのは、そういうことでさぁ」
愕然とするネオの横をするりと抜けて、ティルはいまだ寝転んでいる子供たちの前に、仁王立ちになった。
「そらそら! 休憩は終わりですぜい! 起きた起きた! 出発だぁ! ほーら、いつまでも転がってると、尻を蹴飛ばされちまうぜい!」
言って、さっきまでうなされていた子供の尻をひとつ蹴飛ばした。
「ティルさん!」
ネオがやめさせようと掴みかかるのに、にやりと笑った。「そうでさ。それでいいんでさぁ」目がそう言っていた。しかし、その表情とは裏腹、ティルは手を突き出してどすんと胸を打ってきた。なすすべもなく、ネオは泥水の中に尻餅をついてしまう。
「ネオさん。アンタが甘いことを言うから、ガキどもがつけ上がるんだ! こちとら、護衛代金はきっちりいただいちまってるんですぜ? 途中で放り出したら、それこそお尋ねものだい。なんだったら、目ぇ覚めるように、アンタの尻も蹴飛ばしてやりやしょうか?」
自分たちのせいで、かばってくれるネオまでが酷い目にあう。そのことを理解した子供たちは、ようやくしぶしぶと起き上がり、今まで布団代わりにしていたマントを羽織った。ぶつぶつと不平をいう声が、子供たちの恨みの視線が、ティルの全身に突き刺さっていた。それをまったく感じない様子でへらへらと受け流しているティルに、ネオは奥歯をぎゅっと噛んだ。そうしないと、涙がこぼれそうだった。
今、ティルが浴びている恨みの視線は、本当は自分が負うべきものなのだ。しかし、先導者であるネオに恨みを背負わせる訳にはいかないと、自ら嫌われ役を演じたのだ。おそらく、さっき子供の尻を蹴飛ばしたのも、ほとんど演技でろくに力など入れていなかったのだろう。ネオが咄嗟に子供をかばうところまで計算づくだったのだろう。ひとえに、子供たちの心をネオに集めるため。ネオを子供たちの心の柱にするため。そうしないと、ティルの言うとおり、みんなバラバラになってしまうから。誰ひとりとして生きて帰れないから。
「……え?」
さっきのティルの言葉に違和感を覚え、聞き直そうと見上げたそのとき、鬼のように厳しい号令がかかった。
「そうら! 出発だぁ! バグパイプを吹き鳴らせ! 脚を上げろ!」
慌てて、バグパイプを吹き鳴らした。バッグは水を吸い、ずっしりと重くなっている。雨の中では、あたかも雨水が音を吸い取っているかのように、音の響きも鈍い。それに負けまいと、一生懸命に吹き鳴らした。
一応、街や村を縫う細い道があるが、街道と違い石を敷き詰められていない道はどろどろにぬかるみ、脚を信じられないほど重くしていた。もはや、バグパイプだけが頼りだった。このぐるぐると回る魔法の音色がなければ、子供たちはもちろん、ネオだって一歩も前に進めないだろう。苦しかった。これを、ハノファーレに着くまで。いや、違う。ブラウンシュヴァイクの兵隊が合流したあとだって、天気が良い保障などないのだ。この行軍は、植民が終わるまでずっと続くのだ。今更ながら、エーリッヒの言葉が脳裏をよぎっていた。
――人生を賭けるに足る、動機――
イルゼ。ネオの動機そのものの少女。見ると、イルゼは雨など慣れっことばかりに、顔色ひとつ変えずに歩いていた。いや、ネオや子供たちを気遣って、歩調を合わせてさえいた。そればかりか、子供たちが脱落していないか、気を失って倒れたりしていないか、後ろの様子に気を使ってくれている。脚を、バグパイプを吹く喉を、バッグを押す手を、奮い立たせた。
イルゼを守る。イルゼのために挫けない。イルゼのために諦めない。そのためには、こんなところで挫けている場合ではない。ネオのバグパイプの音色から勢いが消えれば、子供たちも一緒に元気をなくしてしまうのだ。負けるものか。ぬかるみなど、ものともせずに踏ん張った。
そうして、どれくらい歩いただろうか。太陽が見えず一日中薄暗く、そして鐘の音も聞こえないとなれば、あとどのくらいで夜になるのか見当もつかない。方角さえもおぼつかない。そんな不安が膨らみはじめたところで、ティルが助け舟を出した。
「ネオさん、見えやすかい? あすこ、左右から山が迫ってるでしょう。もうしばらく歩けば、シュプリンゲ村がありやす。その近くに廃村があったような、なかったような。……うまくいけば、今夜は雨をしのげますぜ?」
雨が地面に弾け、ティルのいう左右の山すらもはっきりとは見えない。が、どうやら道は間違っていないらしい。廃村があるかも知れない。できれば屋根のある家が残っていて欲しい。祈る気持ちで脚を動かした。とにかく、子供たちを休ませてやりたかった。屋根の下で焚き火を燃やして、冷えきった身体を温めてやりたかった。そんな思いで、とにかく道だけは見失わないように、地面を見つめてバグパイプを吹き鳴らす。ほとんど自分の笛に操られる夢遊病者になった気分で、脚を動かした。
突然、
「……」
隣を歩くイルゼの脚が、ピタリと止まる。
「?」
ネオが重い顔を上げると、行く手にはいくつかの建物が見えた。あれがティルの言う打ち捨てられた廃村だろうか。屋根のある家はあるだろうか。そんな考えが早速頭をよぎったが、しかしイルゼは廃村などには目もくれず、雨の中の一点を凝視していた。そのただならぬ緊張に、ネオも目を凝らすと、なにかが動いているのが見えた。それは二つの人影だった。雨の中でマントを深くかぶってはいるが、がっしりとした長身と、しなやかな細身は隠せない。
「よう」
横柄な声が、雨の中に響く。
予感はあった。この旅の途中、どこかで会える気がしていたのだ。それが現実になっただけだ。この男には言いたいことが沢山ある。イルゼのことで問いただしたいことが。そして、ひとりの男として、イルゼと自分のことを話したい。しかし、立ち込める不穏な空気が、それを許さなかった。シュタイナウはうすら笑いを浮かべたまま、直剣を抜いていた。そのとなりに立っているアマラも、両手に例の湾曲剣を下げている。つまり、ふたりとも戦いの準備をしてネオたちを待ち構えていたのだ。それが、自分たちに向けられたものだということが、突き刺さる視線で理解できた。
「シュタイナウさん。……やっぱり、貴方が」
「なんでえ。まさか『もしかしたら、違うかも』なんて甘いこと考えてやがったのか? まったく、とんでもねえお坊ちゃんだな」
「貴方が……。エーフェルシュタインの……悪魔」
その言葉を口にした途端、シュタイナウのうすら笑いが、ニイッと歪んだ。それは、凄惨な笑顔だった。怨み。憎しみ。悲しみ。そんな単純な言葉ではあらわせないほどに渾然一体となった感情を映し、狂気の色さえ帯びていた。
ネオの後ろで、子供たちが震えていた。あくまだ。あくまだ。エーフェルシュタインのあくまだ。そんな声が、恐怖とともに行列の後ろの方へと伝わっていく。しくしくと泣き出す子供もいるようだった。
「さぁて。ここまでは俺が考えてた通りにことが運んだわけだ。さすがに、あのときひとりでミンデンに行くって言い出したときにはどうしたもんかと思ったが、すぐにわかったぜ。こりゃ、あのエセ神父がネオを植民請負人に仕立てあげるつもりだってな」
「……まさか」
エーリッヒ神父が? ネオをミンデンに送り出したときから、植民請負人にすることを決めていたというのか?
「馬鹿かお前は。どこまですっとぼけてやがるんだ。だいたい、イルゼの一件が起きる前からミンデン行きを頼まれてたんだろ? 大事な大事なお手紙を、旅をしたこともないどこぞの徒弟にわざわざ届けさせる間抜けがどこにいるかよ。その時点で少しは疑いやがれってんだ」
しかし、そこにはハーメルン市とミンデン市の間に横たわる、深い軋轢と事情があったのだ。文字を読めて、街の外を怖がらず、そして市参事会に関わりのないネオこそが適任だったはずだ。
「とどめに、ティルが護衛を頼まれたって話よ。ネオ、お前……本気でおかしいとは思わなかったのか?」
「…………」
確かに。違和感はないでもなかった。しかし、その違和感の原因を探りだす余裕がないまま、慌ただしく時間が流れてしまったのだ。その違和感の正体を、シュタイナウは知っているという。
「簡単なことだろうが。わざわざ護衛させるくらいなら、最初からティルに手紙をもたせりゃ、それで事足りるじゃねえか」
「あっ」
それだ。違和感の正体は、それだった。単に自分が手紙を運ぶというだけならば、多少の無理はあろうとも納得できないでもない。失敗したら失敗したで、また別の誰かに頼めば済む話だ。しかし、ティルが護衛を任されたと知った時点で、心の奥にその矛盾が引っかかっていたのだ。あのときエーリッヒは「そこいらの旅のものや農奴に任せるわけにもいかん」と言っていた。なのに、遍歴職人のティルに護衛を依頼した。ティルが使者として信頼に値しないのであれば、その信頼できぬティルに護衛を依頼すること自体おかしい。完全に矛盾している。
このことから考えられるのはひとつだった。手紙は二の次だったのだ。無論、それは必要な手紙だったのだろう。だが、なによりも「ネオがミンデンまで旅をして帰ってくること」にこそ、意味があったのだ。そして、その理由もまた、ひとつしかありえない。エーリッヒは街の住民に説明する際に、ネオを指して「ミンデンまでひとりで行って帰ってきた」としきりに喧伝していた。つまり、街の住民から反対意見が出ないように、あらかじめネオに誰もが納得するであろう旅人としての実績を積ませていたのだ。
これだけでも充分に衝撃だったが、しかし、続くシュタイナウの話は、更にネオの心を深くえぐるものだった。
「そんだけじゃねえ。……ティルよ、お前がネオの靴屋をつぶしたとき、やけに早く話が進んだんじゃねえか? それこそ、ネオの革靴の在庫がなくなったら、すぐにでもつぶしちまおうってな勢いでよ」
「うーん……。言われてみれば、そうやも知れませんなぁ。あっしの経験から言えば……。ああいったツンフト同士の揉めごとが起きたら、その次の土曜日に教会か律院で裁判やって、それで判決が出るもんでさぁ」
「そうだ。どこの街でも、普通はそうしたもんだ。だが、ネオが帰ってきたときには、すでに店はつぶれていた。なんでだ?」
「ふむ……。あっしはイタズラ大成功と浮かれてやしたが、こりゃ案外……。いや、確かにあれじゃあ、あらかじめ判決が決まってたみたいですな。しかし、どうしてそんなことを? つぶしたいなら、土曜日の裁判を待てば良いわけでやして」
「決まってらぁ。ネオがミンデンから帰ってきて、革靴の在庫ができちゃ困るからさ。革靴が店に並んでたら、そもそも問題にできないんだからな。……わかるか? ティルが靴下の騒ぎを起こすまでもなく、あの店はつぶされることが決まってたんだよ。ネオを無理にでもミンデンまで行かせたのは、植民請負人としての実績を積ませるためだけじゃねえ。その間にネオの帰ってくる場所をつぶして、植民請負人にならざるを得ないよう、追い込むためだったのさ」
黙って聞いていた。いや、声を上げることさえできなかった。エーリッヒ神父が、叔父の店をつぶした。ネオの工房をつぶした。まさか。まさか。そんなはずがない。だって、エーリッヒ神父は、ネオの両親が死んでから、ずっと、今までずっと、
「ずっと……機会を狙ってたんだろうよ。なにせ、チャンスは二十四年に一度の今年だけだ。なんにも知らずに慕ってくる、これ以上無いくらいに条件ピッタリな靴屋のガキを植民請負人に仕立て上げるために、周到に小細工してたんだろうさ」
ハンザ同盟への手紙。用意されていた書類の束。そして、ネオに話を切り出すための駱駝革。なにもかも、仕組まれていたのか。エーリッヒがこの東方植民をなにがなんでも成功させるために、裏工作していたと言うのか。ネオに目をつけて、何年も、何年も。
喉の奥が震えた。自分自身のことなのに、ひどく遠い出来事として感じていた。
「もっとも、俺にとっちゃ好都合だったがな。東方植民がポシャッちまったら、それこそ俺がハーメルンまで繰り出してきた意味がねえってもんだ。あのエセ神父とネオが頑張ってくれたお陰で、今回の呪いもきっちりと成就するってわけさ」
どんな嘘をついてでも、なにがなんでも東方植民を成功させんとしていたエーリッヒ。エーフェルシュタインの悪魔としてハーメルンを訪れたシュタイナウ。両者の利害が、それこそ悪魔の戯画のようにピタリと一致していたのだ。ふたりとも、ずっと、ずっと、二十四年に一度のこの機会を待っていたのだ。ネオの存在など、決められた道を行ったり来たりする双六の駒だった。彼らの思惑の前には、ネオの運命などオモチャと少しも変わらなかった。
「ネオ……さん」
いつの間にか、膝を着いていた。涙を流していた。そのまま倒れそうになるのを、イルゼが支えていた。
「……イ、ルゼ」
あるいは、イルゼとの出会いもシュタイナウの思惑のうちだったのだろうか。まさか、イルゼもそのことを……。
――わたし、幸せです――
頭をぶんぶんと振った。イルゼを疑うものか。あの笑顔を疑ってたまるものか。断じて、断じて疑うものか!
頭を持ち上げた。そうだ。気圧されるな。前を見ろ。睨みつけろ。たとえ、エーリッヒ神父に騙されていたとしても、利用されていたとしても、自分にはイルゼがいる。シュタイナウがエーフェルシュタインの悪魔だったとしても、悪意を持って近づいてきたのだとしても、それでも自分にはイルゼがいてくれる。ネオを取り巻くすべてが牙を向いたとしても、ネオにはイルゼという、人生を賭けるに足る強い動機がある。生まれてはじめて愛した少女への想いが、胸の奥でたぎっている。この熱情の前に、エーリッヒ神父の嘘や裏工作がなんだというのだ。エーフェルシュタインの悪魔がなんだというのだ。胸に宿ったイルゼの存在の大きさを前に、そんなくだらないものがなんだというのだ。
ああ、連れて行くとも。東の果てにでも、どこにでも連れて行くとも。たとえ、誰かに上手く乗せられたのだとしても、ずっと騙されていたのだとしても、ネオは確かにそれを願ったのだ。イルゼに帰るべき家を与えるという夢を、そしてイルゼと共に暮らすという夢を、胸に熱く抱いたのだ。他のすべてが嘘だったとしても、この胸に宿った動機だけは絶対に嘘じゃない。イルゼへの想いは、決してネオを裏切ったりはしない。それだけあれば、充分だ。
脚に力がみなぎった。すでに震えは止まっていた。ぐいと顔を上げ、そのまま立ち上がった。悪夢から冷めた気分だった。
「シュタイナウさん、答えてください」
「あぁん?」
「イルゼを僕に託した、本当の理由はなんですか」
「馬鹿かお前は。決まってるだろうが。お前もろとも売り飛ばすつもりだったからさ。お前がイルゼを連れてのこのことやってくるのは、わかり切ってたからな」
もちろん、予想できた答えだ。イルゼの肩が心細そうに震えるのを、ぎゅっと抱いた。そのまま、鋭く言い放った。
「嘘です」
「……んだとぅ?」
ネオの毅然とした口調に、シュタイナウは苛立っている。しかし、その苛立ちこそが、ネオの言葉を肯定していた。
「それじゃ、貴方が今までイルゼに見せてきた態度に、説明がつきません。貴方は、なにか別のことを考えているんです。なにか、隠してることがあるんです。いったい、イルゼと……イルゼのお父さんと貴方の間には、なにがあったんですか」
「てめえ……ペラペラと、好き勝手なことを……」
シュタイナウの言葉に怒気が宿るが、ネオはひるまない。なにがなんでも、ここでシュタイナウから真実を聞き出してやる。その気迫をぶつけた。
「そこまで言うなら、聞かせてやるぜ。イルゼのことも、なにもかもな。……わかってると思うが、俺がハーメルンのガキどもをさらうのは、これで二度目だ」
「……っ!」
「そうさ。俺はトラバント家の男だ。エーフェルシュタイン家から分かたれた、近衛兵の家の生まれさ。二十四年前にガキどもを連れ出したまだら男ってのは、いかにも、この俺のことだ。……俺が、ハーメルンの笛吹き男だ」
シュタイナウの顔が自虐的に歪んでいた。そこには、ありとあらゆる負の感情が交じり合っているのが見て取れた。後悔があった。憎悪があった。悲しみがあった。苦しみがあった。なによりも、奈落のように深い絶望があった。
「シュタイナウ……」
見かねた様子で、アマラが横合いからそっと声をかける。それを黙殺して、シュタイナウは続けた。
「おおかたの予想はついてるだろうが……。イルゼの親父は、二十四年前のガキの生き残りだ。売り飛ばされた先の村が全滅して、それでものうのうと生き延びてやがったんでな。エーフェルシュタインの悪魔として、呪いをきっちり成就させたのさ。そいつのガキを……イルゼを連れてったのは、呪いを忘れさせないためだ。俺が生きている限り、呪いは終わらせない。そのことを忘れさせないための生き証人として、手ごろだったのさ」
今度は、ネオがイルゼの肩を支えた。そうしないと、イルゼがその場に崩れそうだった。おそらく、イルゼにとって最も聞きたくない、最も認めたくない話だったろう。小さな肩がぶるぶる震えていた。だが、それではまだ説明がつかない。まだ、イルゼに対して接してきた裏表のある態度の真意がわからない。いつかネオを殴った理由が、宙に浮いたままだ。
「それだけじゃ、」
「話は終わりだ」
目の前で、びゅんと剣が唸った。それが、ネオの続けようとする言葉を、バッサリと切り捨てた。凄まじいまでの、拒絶の意志がそこに宿っていた。
「で、どうするよ。大人しくしてれば、場合によっちゃ、奴隷として生き延びることができるかもな。もっとも、俺はどっちでもいいんだぜ?」
抵抗してここで殺されるか、それとも捕まって売り飛ばされるかを選べというのか。せめて、子供たちだけでも逃がすことはできないかと、ちらりと後ろを見るが、
「ガキどもだけ逃がすか? 構わねえぞ。やってみろ。疲労困憊のガキどもがこの山の中に放り出されて、ハーメルンまで生きて帰れると思ってるんならな」
シュタイナウはそこまで考えて、この場所で待ち伏せしていたのだ。
昨日ならば、子供たちにはまだ元気が残っていた。場合によっては、血気盛んな子供たちに殺到されて、シュタイナウと言えども手痛い反撃を受けていたかも知れない。そうでなくとも、ハーメルンまで半日程度の距離とあらば、逃げ切られる可能性もある。だから、慣れない旅の疲れがピークに達する二日目の夕方を選んだのだ。熱を出して夢魔に取り憑かれる子供が出ることも計算のうちだったろう。
それに加えて、この雨だ。ぬかるみが脚を重くし、バグパイプの音色を頼りに歩くのがやっとと言う状態だった。その音が止み、そして最も恐ろしいエーフェルシュタインの悪魔があらわれたのだ。子供たちの心は、完全に折れていた。ポッキリとへし折られていた。戦うことはおろか、逃げようという気力さえも、誰ひとりとして奮い起こせるものはいない。ただ、しくしくと泣きながら、疲れと恐怖でその場にへたり込むことしかできずにいる。
この状況はまるで、狼と、羊飼いと、くたびれきった一〇〇匹の羊だった。そして、狼としては、羊飼いが生きていようが死んでいようが、羊が手に入ることには変わらないのだ。
しかし、
「……どっちも、断ります」
このままむざむざと捕まる前に、ネオにはできることがあった。イルゼに子供たちのところまで下がるように目で合図する。そして、腰に下げていた剣をすらりと抜いた。シュタイナウのものよりは短いが、ネオの手にはしっかり馴染んでいた。
「ネオ……。剣を抜いた以上、覚悟はできてんだろうな」
「…………」
黙って、剣を正面に構える。シュタイナウが、誘いをかけて剣先をわずかに上げた。呼応して、ネオはくるりと剣先を下げる。シュタイナウは「ほう」とつぶやいた。今の動きだけで、ネオが以前のままの素人ではないことを見て取ったらしい。
「ティル、てめえの仕業か」
「へへっ、そのほうが盛り上がるってもんでしょ」
笑いながら、ティルはネオと肩を並べ、アマラと相対する形になる。力量から言えば、できれば立場を交換したいところだ。稽古でも、あれから更に上達したが、それでもようやくティルから五本に一本も取れるかどうかといったところだった。そのティルとシュタイナウは、どれほどの実力差があるだろうか。今の自分の実力で、どこまでシュタイナウに迫れるだろうか。考えるほど気が遠くなるが、しかし、シュタイナウにはイルゼを巡る因縁がある。他の誰でもない、ネオが決着をつけなければならないのだ。
シュタイナウが剣先にネオを捉えたまま、右ににじった。ネオも、打ち込んでくるタイミングを逃すまいと、ゆっくりと呼吸しながら、剣先で剣先を追う。アマラも左に動いているのか、ティルと背中合わせになるのを感じた。シュタイナウは、じりりと間合いを詰めながら、しばらく見ない間に侮れない相手になっていた靴屋の少年を睨みつける。
ふいに、口を開いた。
「ところでティルよぅ、エセ神父からの報酬は前払いで受け取ったのか?」
「もちろんでさ」
「じゃあ、もういいだろ」
「え」
思いがけず頭上を飛び交った他愛のない会話に、嫌な予感が脳裏を走る。反射的に振り返ろうとした瞬間、首にガツンと冷たい衝撃を感じた。
「ネオさん!」
イルゼの悲痛な叫び声が、耳に突き刺さる。視界が暗くなる中、ゆっくりと地面が迫ってくる。それで、自分が意識を失おうとしていることに気づいた。
あっさり。こんなにもあっさり。この手には、イルゼと子供たちの運命がかかっているというのに。あんなに稽古を積んだのに、戦いにすらならなかった。いや、そもそも勝ち目などはじめからなかったのだ。なぜなら、
「悪いね、ネオさん。言い忘れてやしたが、あっしは最初っからこっちの側だったもんでね。……でも、昨夜、言っといたでしょう? 明日は厄介な問題が振りかかるってね」
遠いところで、相変わらず悪びれもしない声が響いていた。不思議と、怒りは沸かなかった。ティルはもちろん、シュタイナウにも、アマラにも怒りは沸かなかった。ただ、自分には本当になにもできることはなかったのか、それを知りたかった。本当の心を、シュタイナウに聞きたかった。そして、子供たちが、イルゼがどうなってしまうのか、それが心配だった。




