六月二四日
ごーん……ごーん……
聖ボニファティウス律院の鐘が終課を告げると、そわそわしていた街中がにわかに動きはじめた。すでにニコライ教会前の広場は、ハーメルン市民のほとんどが集まっているのではないかというほどに混雑している。おのおの火の着いていない松明を手にぐるりと取り囲んでいるのは、広場の中央に据え置かれた巨大な燭台である。聖油をたっぷりとかけられた焚き木がくべられているそこに、教会の小さな燭台から、うやうやしく火が移された。途端に、ごうっと音を立てて巨大な炎の塊が出現する。
「夏至の火だ!」
たまりかねたように誰かが叫んだのを皮切りに、ざわついていた群衆が、わっと歓声を上げた。いよいよ、夏至の祭りがはじまったのだ。
広場に集まっていた群衆は、巨大な燭台から夏至の火を自らの松明に移しはじめた。そして、そのまま行列を作って歩きはじめる。これは、街に住むものの権利であり義務でもある、祭りの要といえる儀式だった。もちろんネオもイルゼをともなって行列に加わっている。広場や大通りはもちろん、細い道も裏路地の袋小路までも別け隔てなく、一列になって夏至の火が練り歩く。街の隅々、ほんの物陰までも夏至の火で照らし出し、夏の到来を告げるのだ。
松明の群れが道という道を舐めつくしたあと、街は一種異様な空気に包まれていく。普段は終課の鐘が鳴ったら人間の世界が終わりを告げ、誰もが家の中に閉じこもるものだが、この夜ばかりはそうではない。闇の気配を跳ね返そうとばかりに街は加熱し、夜を通して騒ぎは続くのだ。
そもそも、この季節にもなると、太陽が沈むのはずいぶんと遅くなり、それに従って晩歌や終課の鐘も遅れがちになる。陽が沈んだあとも、空はいつまでも夕暮れ色を引きずる。さすがに深夜にもなると青く染まりはするが、しかし冬に比べると青色は薄く、そして夜が明けるのも早い。つまり、夏とは、人間の世界が人外の世界を押しのけてその勢力を伸ばす季節といえよう。夏至祭はその象徴というわけだ。
夕暮れ色のコントラストが青色に近づくころには、ネオとイルゼが加わっていた行列もほぐれ、誰も彼もが勝手気ままに動きはじめていた。金持ちも貧乏人も、これからはじまる狂乱に備えて、やにわに緊張を高めていく。そんな中、
「あー、いたいた。あんなとこにいなすった。おーい! ネオさん、こっちこっち!」
行列に紛れたネオを探していたのだろう、今やネオのバグパイプと剣の師匠でもある遍歴職人の青年が大声を上げて手をぶんぶん振っていた。
「ティルさん。よく見つけられましたね」
「いやー、お化けの扮装でもされたら、どうしたもんかと思いやしたがね。なんてったって、靴屋のこびとさんて言うくらいですからねぇ」
ティルの軽口に、ネオがとんがり帽子にぶかぶかなブーツでも身につけた姿でも想像したのだろうか、一緒に行列から抜け出してきたイルゼがククッと笑った。
「……それで、どうでしたか?」
恐る恐るネオが聞くのは、ティルに預けていた大量の靴のことだ。
結局、ネオとイルゼが一心不乱に作った結果、できた靴は百と二〇揃いを超えていた。数としては上々だが、しかしその代わり、橋向こうの三叉路で行商人を演じる時間がまったく取れなかったのだ。そして、晩課の鐘とともに祭りがはじまったら、以後三日間はすべての商売が禁止されてしまう。つまり、最終日の出発までの間、靴を売る機会が一度も訪れないのだ。なにか良い考えはないかとティルに相談したところ、言い出しっぺと言うことでティルが行商を代行することを申し出たというわけだ。
ティルに任せておけば、そう悪い商売にはなるまい。そうは思ってはいたものの、しかし自分の靴がどこまで評価されるのかは、どうしても不安がつきまとっていた。確かにネオの靴はハンザ同盟をはじめ各所で高い評価を受けていたが、しかし、これまではツンフトを通して一定の価格で――つまり格安で――取引されていたのだ。それが、いきなり末端に近い価格で売りに出されるのだ。今までの価格に慣れていた人なら手を出さないのが当然というものだろう。
「そこはそれ、行商人は情報に敏いですからねえ。ハンザの爺ぃなんざ、ネオさんの靴の山を見ただけで『あの靴屋が店じまいするのか』って見透かしてくる始末でさ……。なんだったら、もっとふっかけてやりゃ良かった」
と言うことは、無事に全部の靴が売れたのだ。胸を撫で下ろすネオに、ティルがそっと腕を差し伸ばした。他人の目をはばかるように渡されたそれは、銀色に輝くずっしりとした五枚の硬貨だった。
「五グルデン……。すごい……。本当に、僕の靴が……」
ティルの言っていた話はほらでも冗談でもなかったのだということを、今更ながらに理解した。もっとも、生まれてこのかた行商なんてやったことのないネオが、いきなり三叉路に靴を並べても、同じようにはいくまい。この金額はティルの行商人としての才能のあらわれでもあるのだろう。
「これ、約束の、」
思い出し、慌ててティルに一枚を報酬として渡そうとするが、
「いんや、とっくに一枚頂いちまったあとなわけでして」
「……っ」
まさか、六グルデンで売れたというのか。
「ついでに言えば、『商売した以上、見ぬふりはできん』ってんで、往復分の橋渡し賃もしっかり取られて、両替屋にもふんだくられたあとでして。……ほんとなら、今からでも東方植民なんて放り出して、尻に帆かけて逃げ出すことをお勧めしたいくらいでさ」
橋渡しや両替屋にどの程度取られるのかはネオには想像もつかないが、きっと安くはないだろう。それを差し引いて、更にティルの取り分を引いた上で、この金額なのだ。
ともあれ、これで最後の懸念もなくなった。懸念とは、くだんの東方植民への参加条件のひとつ、ある程度のまとまったお金を持っていることだった。
ネオひとりならば問題はない。絶対に必要なその立場上、ネオの資金はエーリッヒを通してヴェルフェン家が出すことになっている。しかし、イルゼの参加に関しては「見ぬふりをする」という形で話が進んでいた。つまりイルゼの参加は黙認するが、その資金までは面倒は見ないというのがエーリッヒの返事だったのだ。切り詰めれば、イルゼの食い扶持くらいはどうにでもなるのだろうが、それでは条件を満たすために資金を調達した他の参加者や、条件を満たせずに参加を断念したものたちから不服の声が上がることは避けられまい。
その心配が、これでなくなったのだ。もとよりこのお金はイルゼが一緒に靴を作ったことで得られたものだ。なれば、イルゼの資金とするのは当然でもある。
「そこらに落ちてる誰ぞの骨を『聖者の遺骨』だのでっちあげて売りさばくよか、ずうっと楽でしたよ。もっとも、多少は口車も回しやしたがね。なにせ、誰が見ても上等の靴だ。やれ、どこぞのお城のお抱え職人だとか、聖クリスピンの再来だとか、ごってりと盛りやしてね」
「それって……」
まずいことなのではないかと不安に駆られるが、
「ま、あっちの世界じゃ吹くのは当たり前ですから。ハンザの爺ぃみたいに、買うほうもわかってて買うんだから、いちいち気にしないこってす。それに、多少のことは、あれだ、ホラ、お祭りってことで勘弁してもらいやしょうや」
確かに、祭りにはそういった空気が色濃く漂っているのも事実である。ネオとイルゼが先ほど行列に混じって練り歩いていた通りも、今では乱痴気騒ぎがはじまる様相を見せていた。
「にしても、今年は色々と厳しい冬になりそうだから、どっちも必死ですなあ。これじゃあ、まるで四旬節だ」
四旬節とは、三月に行われるキリストの復活に合わせた断食のことだ。おそらくどこの街でも変わらぬものなのだろう、その直前には断食に備えて狂乱じみた祭りで街が覆われるのだ。その様相は、ネオの目にもはっきりと見て取れた。確かに、夏至の祭りでここまで熱狂することは珍しい。ここでティルのいうどっちもとは、すなわち金持ちと貧乏人のことだろう。というのも、祭りには両者による極端な二面性があらわれるのだ。
伝統的に祭りは無礼講の色が濃い。物乞いが草木で作った冠を戴いて王様を装ってみたり、逆に市参事会の重役が公共の往来でべろんべろんに酔っ払い、挙句にすっぱだかになったりもする。子供にいたっては、魔女の格好をしたり、顔中に炭を塗りたくったりして、動物やお化けの扮装をして街中を練り歩くのだ。見せかけや格好だけではない。実際に物乞いや下働きの男が、市参事会の重役や教会の神父の肩をばんばん叩いてゲラゲラ笑っていたりもする。こうして、普段の生活では絶対に見ることのできない、街全体がなにかに取り憑かれたような、異様ともいえる空間ができあがるのだ。
身分を超えた乱痴気騒ぎは往々にして大変な乱闘に及び、流血沙汰も珍しくはない。普段から威張り散らす金持ちに対して、貧乏人がここぞとばかりに意趣返しをする絶好の機会なのだから、当然といえば当然だ。しかし金持ちのほうも心得たもので、彼らは彼らで、集まった物乞いや貧乏人たちに施しを与えるのだ。家の前にテーブルを出して、この日のために作っておいた大量の食事を、誰彼かまわず振舞っていく。それは、傍目には、一歩間違えば暴徒になりかねない貧乏人たちを、どうにかして宥めているようにしか見えない。しかし、上手くしたもので、これはこれで金持ちの側にも利がないわけでもないのだ。
ネオの頭をよぎるのは、いつかエーリッヒが読んだ聖書の一節である。
――富めるものが天国の門をくぐるよりも、駱駝が針の穴をくぐるほうがはるかに容易である――
祭りに対する喜びの二面性とは、つまりこういうことだ。持たざるものは純粋に施しや無礼講を楽しみ、富めるものは目に見えぬ神さまに対して「どうです、私はこんなに功徳を積んでいますよ」とアピールする絶好の機会なのだ。施しはパンにトルテにクーヘン、スープにビールなどの食事だけではなく、そのままお金をばらまくものもいれば、身銭を切って浴場を借りきり、救霊浴場――もちろん、救うのは貧乏人ではなく、自分自身の魂だ――と称して開放するものもいる。
こうして、祭りの間は毎晩のように乱痴気騒ぎが続くのだ。
しかし、その金持ちによる施しも、飢饉の話が広まった今年とあっては、いつもに比べてケチな気がする。食事にせよ、その他の施しにせよ、来たる飢饉に備えておこうと、量も少なく、質素に抑えてあるのがはっきりと見て取れた。もちろん、貧乏人のほうも負けてはいない。充分な施しがもらえないとなれば、無礼講に乗じてとことん過激ないたずらに興じるのみだ。金持ちのほうも黙って殴られまいと対抗して、そこかしこでふざけ半分、まじめ半分の乱闘じみた騒ぎが加熱しつつあった。
そんな喧騒から離れた路地裏、二人は工房の前に座りこみ、ぼんやりと表通りの祭りを見ていた。おばさんに振舞ってもらったいちじくと蜂蜜のトルテをかじりながら、ぽつりぽつりとつぶやくように言葉を交わしていた。
「シュタイナウさんのこと……教会に、言わなかったんですね」
「……うん。ずっと、考えてたけど……結局、ね」
イルゼの言うそれは、最後までネオが悩み続けていたことだ。いや、正直に言えば、今でも迷っている。かつてイルゼがネオに話したシュタイナウの言葉は、それほどまでに決定的だったのだ。
――俺が、悪魔だからさ。……裏切り者のお前の親父をぶち殺して、お前をかっさらった悪魔だからさ――
あまりにも、出来過ぎている。裏切り者。子供をさらう悪魔。夏至祭りを前に姿を消したという事実。それを踏まえて記憶をたぐれば、引っかかる点はたくさんあった。
まず、放浪楽師としてはありえないほどのシュタイナウの剣技。あれほどの腕前があれば、放浪などしなくてもいくらでも食べていけるだろう。実際、イルゼの話によれば、祭りが終わり見世物で金を稼げない時期になると、シュタイナウは決闘などを本人に代わって引き受ける代理剣士として稼ぐことも少なからずあったそうだ。大きな街には剣客通りと呼ばれるそういった輩の集まる裏通りもあるそうで、冬になるとそんな場所で金持ちの次男、三男などを相手に剣術指南をして小金を稼ぐことも珍しくなかったという。
そういえば、アマラの剣技もシュタイナウが仕込んだと言っていた。いずれにせよ、そこいらのごろつきや並の剣士に務まることではない。その卓越した剣技に、どうしてもトラバント家――すなわち、エーフェルシュタイン家の近衛兵――という背景が重なって見えてしまう。領主を守る近衛兵だったならば、その剣技にも説明がつくというものだ。
また、シュタイナウはハーメルンの街にいる間、いつも旅籠の一番奥の席に引っ込んでいた。薄暗いところで表情を読めなかったのを思い出す。そして、レ・ジョングルールの見世物のときには帽子をかぶり、やたらにわざとらしい付け髭をしていた。そして帽子が落ちたあとには髪の毛がぺろりと垂れ下がっていた。
つまり、シュタイナウはハーメルンの街の中ではあまり素顔を出さないようにしていたのではないだろうか。なぜか? もちろん、素顔をまともに見られたら、まずいからだ。そして、ミンデンから帰ってエーリッヒに報告する際に、自分のことは伏せておけと言っていた。あのときには疑問に思わなかったが、思えばティルはそれを仕事として依頼されたくらいなのだ。場合によっては謝礼を受け取ることだってできたろうに。これもやはり、自分の正体を隠そうとしていたと考えるのが自然だ。
すべての状況が、ネオの想像をあるひとつの結論へと導いていた。否定したところで、その仄暗い想像は引っ込んだりはしなかった。
シュタイナウこそがエーフェルシュタインの悪魔ではないか。
そう考えるほか、どうしようもなかった。もしもシュタイナウが今年の東方植民を狙い、そのためにハーメルン市を訪れたのだとしたら。シュタイナウの正体が、二十四年に一度の呪いを現実のものとするべくあらわれたハーメルンの笛吹き男なのだとしたら。ネオは、そのことをエーリッヒに伝えるべきだったのではないだろうか。そして、人相書きを周囲の街や村に書き送って、なにかが起きる前に取り押さえるべきだったのではないのだろうか。
だが結局、逡巡しているうちに夏至祭りがはじまってしまった。今からでは仮に人相書きを作っても、配布は間に合うまい。しかし、後悔する気持ちは無かった。確かに、状況だけを並べて見れば、シュタイナウこそがエーフェルシュタインの悪魔だとしか思えない。しかしその反面、どう考えても、シュタイナウがエーフェルシュタインの悪魔だとは思えなかったのだ。
理由は、ひどく曖昧なものである。なんのことはない。シュタイナウは、なんだかんだでイルゼに優しかったからだ。確かに、どんな事情からか、イルゼと会話することを拒み突き放してはいた。しかし、ネオがイルゼを傷つけてしまったときなどのように、咄嗟のときには後先考えずにイルゼのために危険を犯してしまうのだ。
イルゼだけにではない。ミンデンまでの無茶な旅をせねばならなくなったとき、ぶつぶつと文句を言いながらもネオをきちんとミンデンまで連れて行き、そしてハーメルンまで無事に送り届けた。アマラの口添えがあったからだというが、仮にアマラが言わなかったとしても、シュタイナウは同じことをしていた気がする。
ようするに、あの男は根が善人だとしか思えないのだ。一言で悪人として片付けることが、どうしてもできないのだ。そんな男が、エーフェルシュタインの悪魔であるはずがない。ただ、それだけのことである。
根拠というには、あまりにも不確かなものだ。しかし、その直感にも近い考えがずっとわだかまり、結局ネオは告発することができなかった。そして、シュタイナウが姿を消し、夏至祭りがはじまってしまった今となっては、なにを考えたところで仕方がない。
「でも、いつか……」
「?」
大通りを通った松明が、火の粉を夜空に巻き上げる。オレンジ色に輝く粉が宙に舞う様子を見ながら、ネオはつぶやいた。
「そう遠くないうちに、また会える……そんな気がするんだ」
だから、なにも心配はいらない。そんな気持ちを込めて、イルゼの手を握った。
「……はい。私も……そう、思います」
柔らかい微笑みとともに、そっと握り返してくる小さな手が、暖かかった。




