可能性
「聞かせてもらおうか。ネオ君の見つけたという、動機を」
もちろんエーリッヒとしては、できることなら二つ返事で了承して、ネオを植民請負人として認めたいところだろう。そうでなくとも、請け負えるものが見つからないがために、植民計画が頓挫しかけているのだ。しかしそれ以上に、植民請負人として若者たちを率いるのには、強い動機が必要とされていた。その意味で、靴屋としてやっていく能力を持つネオは、むしろその能力ゆえに、それ以上の動機を示さねばならなかった。
もちろん、動機はある。正直なところ、昨日の夜までは考えてもいなかったことだ。いや、一応考えないこともなかったが、それは数ある選択肢のうちのひとつでしかなく、動機を求められると返答に窮してしまう、その程度のものでしかなかった。
確かにハーメルンの街にこだわらずとも、ネオの腕前ならば遍歴職人でも、ティルの言うような行商人でも、生きていくすべはあるだろう。少なくとも、死にはすまい。
しかし、それらはネオがたったひとりでいる場合に限られるのだ。シュタイナウにイルゼを託された今、ひとりで自由気ままな遍歴をするわけにはいかない。もちろん、足の不自由な少女を連れた遍歴職人を雇ってくれる親方など、どこの街にもいるまい。そして、当てのない行商の旅にイルゼを連れ回すことも難しい。なにしろ、シュタイナウもアマラもいないのだ。たった一度ミンデンに行っただけのネオに、盗賊や人外からイルゼを守り通せるとは思えなかった。
しかし、東方植民ならば。
なにしろ、今回の植民に限っては、ブラウンシュヴァイク公国の兵隊が護衛についてくれる。盗賊や人外に襲われる心配は最初からなく、たどり着いた先で開墾することだけを考えれば良い。植民としては最初から成功を約束されているようなものである。そして、それが上手く行った暁には、イルゼに自分の家をプレゼントすることができる。もう二度と、行き場を求めて放浪することもなく、帰るべき暖かな場所を作ってあげることができる。それは、一ヶ月も経たぬうちに家を失うネオとしても、置きざりにされ行き場のないイルゼとしても、もはやそれ以外には選択肢がないというほどに輝かしい未来として示された道だった。そして同時に、絶妙のタイミングで到来した千載一遇のチャンスでもあったのだ。少なくとも今のネオにとって、間違いなく人生を賭けても良いと思えるほどの動機となっていた。
そのことを、エーリッヒに訴えた。懸命にまくし立てた。エーリッヒは最初こそ渋い顔をしていたものの、しかしネオの決意が変わらぬと知ると、あきらめた様子で溜め息を付いた。
「実のところ……最後の手段として、旅慣れたものを金で雇うことも考えてはいたのだがな……。やはり、これも神の導きというものか。そういえば、ネオ君がミンデンに行くことになったのも、不思議な導きだったな。思えば、あのときから、このことは決まっていたのかも知れん。とあらば、よもや止めることはできんな」
言って、複雑な笑みを見せた。
「本家によれば、請負人を金で雇うことは少なくないらしいが、金だけ受け取って姿をくらます輩があとを絶たないそうでな。実のところ、困っておった。君のおかげで、私の面目もどうにかつぶれずに済みそうだ。……心から感謝するよ、ネオ君」
「ひとつだけ、条件があります」
「なにかね?」
「イルゼを……、片足の不自由な女の子を同行させることです。これが通らないのなら、この話は無しです」
強気に言った。イルゼの右脚が、ヴェルフェン家が提示したという条件に触れていたのだ。いわく、「若く、健康であること」。イルゼは年齢においてはなんの問題もないが、しかし片足がないという事実は、明らかにハンデになる。少なくとも、同じような理由で参加を許されなかった希望者は大勢いたはずだ。
しかし、ネオが抱いた動機の中心にこそイルゼがいるのだ。イルゼを連れていけないのなら、東方植民などなんの意味もない。不公平と言われようが、植民請負人としての立場を傘に着た横暴と言われようが、こればかりは絶対に譲ることはできない。ネオもまた、なりふりを構ってはいられないのだ。
エーリッヒは少しだけ思案して、しかし、思ったより軽い調子で答えた。
「ふむ、本家と交渉してみよう。まあ、恐らく問題にはなるまい。だが、当日まではそのことは口外しないでくれたまえ。『それなら自分も連れて行け』と騒ぐものがあらわれたら、話はややこしくなるからな」
説得するべき人間は、もうひとりいる。そろそろ出てくるころだろうと思っていたら、案の定、律院の外で待っていた。
「貴方はシュタイナウさんたちとは行かなかったんですね。……なんとなく、そんな気はしてましたが」
「まぁ……元々、この街で稼ぐ間って契約でしたからねぇ。それにしても、惜しいことでさ。もうひと月もすれば、夏至のお祭りだってぇのに。せっかくの掻き入れ時をみすみす逃しちまうなんて、ねぇ」
言われてみれば、確かにそうだ。イルゼをネオに託すというだけであれば、なにもこんなに急ぐ必要はなかったのに。なによりこんなやり方でなくとも、と思う。面と向かってきちんと頼まれたら、きっとネオは戸惑いこそしても、最終的には断らなかっただろう。
「ところで……やっぱり、行くんですかい? 止めても無駄っぽいですけど」
ティルが本題を切り出した。驚きはない。律院の前で待っていたということは、おおかたネオが東方植民に志願したことも盗み聞いていたのであろう。
「ええ。それで……また二つほど、お願いがあるんですけど」
「そりゃあもう、両方とも合点でさ」
「はい……えっ?」
さすがに驚いた。まるで、ネオがなにを頼むのか最初からわかっている口ぶりである。
「まず、バグパイプでしょ? 東方植民の先導者が笛のひとつも無しじゃ、はじまりやせんからねぇ」
的中だった。植民となれば、百人からの行列を率いるのだ。列から外れて迷ってしまう子供もいるだろう。先導者は、多少離れてもその場所がわかるように、笛を吹き鳴らさねばならない。また、足の疲れを忘れさせ、活力を与えるためにも、音楽は絶対に必要なものだ。更に、狼などの獣を除ける効果も期待できる。そして、そんな目的で最も頻繁に使用される楽器が、放浪楽師の象徴とも言えるバグパイプなのである。身体が勝手に踊り出しそうになる、ぐるぐると回るあの音色には、あるいは本当に足を動かす魔法がかかっているのかも知れない。
もちろん、靴屋のネオが笛の練習など、今までにやったことがあるはずもなかった。そしてネオが知る中で、バグパイプの教えを請うことができるのは、シュタイナウが去った今となっては、ティルひとりしかいないのだ。
更にティルは続けた。
「もうひとつ、ブラウンシュヴァイクの兵隊さんと合流するまで護衛するってのも、まあなんとかなるでしょ」
「……っ!」
こちらも的中である。まるで魔法みたいにネオの言わんとすることを当ててみせるティルに、思わず呆気にとられた。ネオが東方植民を引き受けたと知っただけで、次にネオがなにを考えるのか、ネオがなにを懸念するのか、ティルには手に取るように読めているのだ。
ブラウンシュヴァイク公国のハノファーレ市にたどり着いて兵隊と合流してしまえば、安心だ。エーフェルシュタインの悪魔もおいそれとは手を出せまい。しかし、ハノファーレ市も決して近いとは言えないのだ。もちろん、植民の目的地となる東の果てと比較すれば、目と鼻の先といえよう。しかし、それでもミンデンと同じかそれ以上には遠いはずだ。
かつてネオがシュタイナウに導かれて歩いたのとそう変わらぬ距離を、今度は子供たちを導いて旅することになる。きっと、ネオと同じように足にまめを作って歩けなくなる子供も大勢いるだろう。そんなときにどうすればよいのか、すでにネオは知っている。しかし同時に、まだまだネオが経験していない不測の事態が、旅の中では沢山あるはずなのだ。イルゼの祈りに守られていたネオは、その加護のもと、なんのトラブルにも巻き込まれなかった。しかし、だからこそ、いざトラブルに巻き込まれたときにどうすれば良いのか、その経験が決定的に足りない。そんなネオにとっては、ハノファーレ市に着くまでが最大の難関といっても過言ではなかった。
そこで、シュタイナウが「別格」と評するほどの幸運の持ち主で、しかも、たったひとりで遍歴を繰り返しているという熟練の旅人に、最大の難関を乗り越えるのを手伝って貰えないかと考えていたのだ。
ティルはそれらをすべて予想し、それどころか、
「エーリッヒの旦那にふっかければ、多少の金も巻き上げられそうだ」
これをエーリッヒからの正式な依頼という形に持ち込んで、謝礼を取る算段までしている様子だった。これが、ティルという青年なのだ。思わず、息を飲む。シュタイナウの言葉がネオの脳裏をよぎっていた。
――あいつは……なんていうか、別格だ。俺たちとは根本的に持ってるもんが違う。もしも神さまとやらが悪ふざけで人間をこさえるとしたら、まさにティルがそうなんだろうな――
別格。神さまの悪ふざけ。四つの街で死刑宣告を受け、しかもそのことごとくを口八丁手八丁で切り抜ける生粋の悪戯者。その片鱗を垣間見た気がした。
きっと、うまくいく。
思えば、シュタイナウがイルゼを託したのも、この決断を促すためだったのかも知れない。なにしろ、街は東方植民の話で持ちきりなのだ。そんな中でイルゼを託す以上、ネオがこの決断をすることは予想していただろう。つまりシュタイナウは、ネオに植民請負人の役目が努まると認めているのだ。一週間ほど一緒に旅をしただけだが、その中でのネオの成長を見て、ネオにならイルゼや子供たちを東の世界に無事に連れていけるだろうと判断したのだ。
最も信頼しているエーリッヒ神父も、同じ判断をしてくれた。それに加えて、今や幸運の象徴とも言える熟練の旅人にして遍歴職人のティルが、最大の難関を護衛してくれるのだ。これだけの条件が揃って、うまくいかないはずがない。
ふと考えた。――両親は、どう思うだろうか。
ザクセン語を教えてくれた父親。ラテン語を教えてくれた母親。その願いがどこにあったのか、今や知る由もない。しかし、文字が読めればこそ、地図や立て札も読める。取引する際に金額をごまかされることもない。ザクセン語やラテン語の知識があるからこそ、ネオは植民を率いることができるのだ。それだけは動かない事実だった。
今まで重荷に思っていた読み書きの知識が、かけがえのない宝物であることを知った。ザクセン語にせよ、ラテン語にせよ、読み書きさえできれば、できることが大幅に増える。言葉とは、つまり可能性だった。
ネオの両親が遺していった最大の宝物。それは、ネオの限りない可能性だった。




