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ジョングルール ~ハーメルンの笛吹き男~  作者: 凪茶房
第二章 靴屋のネオはミンデンへ向かう
21/39

動機

 ネオに支えられてゆっくりと階段を降りてくるイルゼを、三人が出迎えた。

 おそらく、同じ女性として最も気にかけていたのであろう、アマラが真っ先にイルゼの姿を見て声を上げた。

「あら、すてき。可愛いじゃない」

「ふん……。木靴(クロンプ)か。まあ、そんなこったろうとは思ってたが……。ハンザの倉庫で見つけたってえのは、それかい。低地地方(ネーデルラント)ではよく見たもんだ」

 シュタイナウの言うそれこそが、ネオがミンデンで見つけたものだった。ハンザ同盟の倉庫の片隅で、ネオの靴と一緒に並べられていたそれを見た瞬間、ネオは「イルゼの足を見つけた」と思ったのだ。

 もっとも、記憶を頼りに木を靴の形に整え、更にイルゼの義足として組み上げるのは簡単ではなかった。恐らくネオひとりだけでは、ここまで丁寧に作ることはできなかっただろう。

「いやぁ、本当によくできてるこってす。見てくださいよ。ここ、足首がきちんと曲がるんですぜ?」

 特に苦心した関節部分を、まるで自分が作ったもののようにティルが自慢する。事実、この部分は大変だった。いかにして靴と足首を接続するか、相当悩んだ。ティルの手伝いは、技術的なものよりもむしろ、知識面のほうが多いほどだった。ティルによれば、関節を持つ義足はそれほど珍しいものではないそうだ。ただし、それは鉄製のものに限られる。戦争で脚を失った騎士が、甲冑の具足を改造したものを義足として使う例は多いらしい。

 だが、木製で同じ仕組みにすると、決定的に脆くなってしまう。なにしろ体重をかけてギシギシとこすれ合うのだ。あっという間に砕けてしまうだろう。それを解決するのに、ティルの知識が大いに役に立った。義足の先端を球状に削り、木靴を二つに割って内側に丸い空洞を掘り、挟み込むことで球状関節を作ったのだ。この手法は、ティルがいなければ思いつきもしなかったろう。

 手伝いがあってもなお、作業は困難を極めた。なにしろ球と空洞の大きさが違ったら、まともに曲がらないのだ。慎重に慎重を重ね、球はつるつるになるまでやすり掛けして、空洞の内側には例の駱駝革を貼りつけた。

 そうして出来上がった義足が、先ほどはじめてイルゼの足に取り付けられたのだ。スカートに覆われると、もはや普通の女の子にしか見えず、脚の異常など最初からなかったとすら思えてくる。アマラにいたっては、それ以上の評価を下していた。

「ふうん、いいわね。……まるで、人形のお姫さまみたい」

 人形のお姫さま。

 言われて、当のネオが改めてまじまじとイルゼを見つめる。確かに、アマラの言葉はぴったりだ。見世物で演奏するときに着ている青いチュニックドレス。真っ白なエプロンと、腰に巻いたピンク色のリボン。ふんわりとしたスカートの裾からチラリと覗くのは、かつてネオが作った革靴と、そして、こんもりと可愛らしく丸みを帯びた木靴である。もしも人形の国があるとしたら、その国のお姫さまは、こんな姿なのだろう。注目の中でもじもじしたイルゼが、一歩、床を踏む。ころん、と小気味よい音が響いた。

 しかし、これで満足するわけにはいかない。これだけで無邪気に喜んでしまっては、以前と同じひとりよがりでしかない。努めて頬を引き締め、イルゼを促した。

「い、イルゼ。少し歩いて、具合を確かめよう? 靴って、しばらく使わないと痛みが出て来なかったりするからさ」

「はい」

 まだ呼び捨てに慣れないネオと、嬉しそうに返事をするイルゼ。一歩を踏み出すのに、ほとんど無意識にネオの手にすがりついてくる。イルゼの手のぬくもりが、嬉しくもこそばゆい。その手をそっと握る。二人並んで、まるでこれからハーメルンの街を案内するような気分で、旅籠から出た。

 ベッカー通りに出たところで、イルゼはなにかを思いついたらしい。ネオに先立って南のほうへと向かって歩きはじめた。作った本人が驚くほどの速さで義足の扱いに馴染んでいく。恐る恐るだった歩みが、一歩ごとになめらかなものに変化していくのが目に見える。

 考えてみれば当然だ。今までは木の棒一本を右脚として、まるで杖の上で危ういバランスを取り続けるような歩き方をずっとしてきたのだ。その木の棒の先に球状の関節と木靴が取り付けられ、安定感が増した一方で、バランスの取り方自体はそう変わらない。不自由な身体に慣れていた分だけ、こういったものには適応力が高いらしい。

 なによりも、イルゼの言葉によれば、

「すごいです。ぜんぜん、痛くないです。地面のゴツゴツが、すごく、フワフワになってます」

 まだ旅籠を出てから五〇クラフタ〔およそ九〇メートル〕も歩いていないのに、すでに義足の先端にまで神経が通っているようにさえ見える。丸っこい木靴がスカートの裾からちらちらと覗くのが嬉しいのか、少し浮かれ気味にネオの前を歩くイルゼ。聖ボニファティウス律院の前を通り、ヴェーゼル川にかかる橋へと向かう。

 ああ、と合点がいった。イルゼはこの橋の上を、この靴で歩きたかったのだ。

 ころん、ころん、ころん、と一歩ごとに木靴が鳴る。木でできた橋を木琴に見立てて、イルゼは嬉しそうに木靴を鳴らして歩いていく。そして、いつもの場所、水車小屋の見える橋の中ほどで立ち止まり、ネオを振り返った。

「イルゼ、あまり無理しちゃだめだよ? まだ足に馴染んでないから。……たぶん、あとで痛くなるからね」

 はじめて装着した義足である。あてがったふくらはぎの切断面は、間違いなく靴擦れと同じく皮膚を傷めることになるだろう。それは、どうやっても避けられないことだ。できることは、それをあらかじめ考慮して、少しずつ皮膚を慣らしていく以外にない。もちろん、そんなことは言うまでもなく、今まで粗末な木の棒を義足代わりにしていたイルゼにはわかっているだろう。しかし、イルゼは柔らかく微笑んで言った。

「はい。……でも、」

「うん?」

「たぶん、大丈夫、です。こんなに素敵な脚が、合わないはずがないです」

「そう、だといいけど……」

 ここまで喜んでもらえると、ネオとしてもこの上なく嬉しいが、しかし無理をして脚を痛めてしまうのは本末転倒だ。最悪の場合、この義足に苦手意識を持ってしまうことになりかねず、またイルゼは自分の右脚が悪いのだと、自身を責めるかも知れない。もちろんそれは、ネオの願っていることとは正反対の結果だ。

 心配そうな顔を見せてしまったのだろうか、イルゼはネオの顔を下から覗き込むように言った。

「あの、ネオさん?」

「うん」

「その……、私、ネオさんが考えてること、わかります。私の……脚のこと。私が、私の脚を、どう思ってるかってこと」

 突然の言葉にギクリとした。それは、ネオが義足に込めた決意を、どんな意志を込めてイルゼの義足を作ったのかを、完全に見透かされているという意味だからだ。

 思えば、ネオの革靴をひと目見ただけで、ネオの考えを、そしてネオの勘違いを正確に見抜いたイルゼである。そうでなくとも、ネオはこれでもかというほどにその想いを義足に込めて作っていたのだ。イルゼから見たら、ネオの気持ちが義足から色彩さえともなって滲み出している様子が見えているのかも知れない。そんなイルゼが、ネオの想いを見抜けないはずがなかった。

「え、と……その、」

 狼狽したが、イルゼは柔らかな声で重ねてくる。

「私……、私の右脚を好きになるのは……たぶん、難しい、です」

「そ、そう……」

 少しばかりずしんとネオにのしかかる言葉だったが、しかし、イルゼは続けた。

「でも、ネオさんの作ってくれた、この右脚は、大好きです。なによりも、なによりも大切な、左のブーツとおなじ、私の宝物です」

「……」

「私の右脚は……その、とても醜くて、呪わしいです……。けど、ネオさんの作ってくれた脚を、付けることのできる右脚です。ネオさんが脚を作ってくれたから、他の人とは違う、特別な右脚になったんです。だから……私、その分だけは、私の脚を、好きになれそうです。だから……、」

 考えていたのとは、少し違った。改めて思い知った。イルゼは、ネオが想像できる程度の単純な思考の持ち主ではないのだ。そもそもが、片足を失ったまま放浪楽師として旅を続けてきた彼女だ。その旅も生活も、容易なものではなかったろう。むしろ、困難の連続こそが、彼女の生活といえよう。その過酷な人生で育まれた彼女の思考を、ハーメルンの街で黙々と靴を作っていただけの自分ごときが想像するおこがましさに、恥ずかしくなった。しかし、

「だから、ネオさん、ありがとう、ございます。素敵な靴と、素敵な右脚を、本当に、本当に、ありがとうございます」

 いつの間にか、イルゼは水車小屋を背景に正面からネオと向き合い、まるでキリストに祈りを捧げるかのように手を組んで、今までで一番の笑顔を浮かべて、お礼を言っていた。その笑顔に、見とれた。

 ネオは、むしろイルゼにこそ感謝したい気分だった。こんなにもおこがましく、どこまでもひとりよがりな自分の、ほとんど一方的にネオの想像を押し付けた贈り物。それを、喜んでくれているのだ。なによりも、一方的なネオの心を読み取り、その心をこそ喜んでくれているのだ。

 幸せだった。

 両親が死んでから、冷たい風に吹かれるままに宙をさまよい続けていた自分が、ようやく地面に降りてきた気分だった。

 ごりごりと重く響く水車小屋の音が心地いい。イルゼの笑顔が、この幸せな気持ちが、幸せな時間が、いつまでも続くと約束されているように思えた。ぎしぎしと軋む音が、少しだけ切なかった。この音が伝える通り、どんな時間も永遠ではない。放浪楽師であるイルゼは、そう遠くないうちに再び旅の身となるのだ。それでも、ネオは最も望んでいたイルゼの笑顔を手に入れることができた。今はただ、それだけが嬉しかった。

 今となっては、かなり強引にミンデン行きを押し付けたエーリッヒ神父に、そしてやはり強引についてきたシュタイナウに、そのシュタイナウに、ネオに付いて行けとけしかけたアマラに、そして快く倉庫を見せてくれたハンザ同盟に、関わったすべての人たちへの感謝の念が胸に溢れていた。


 イルゼを送り届けて旅籠から出たネオを追って、アマラが声をかけてくる。

「ネオくん?」

「あ、はい」

 なんの用事かと思いきや、

「ネオくん、イルゼのこと、好き?」

「……っっ!!」

 まったく包み隠さぬ、心の真ん中を射抜いてくる質問に、さすがに狼狽が隠せない。ほんのりと幸せ気分に浸っていた顔は、一瞬にして熱に覆われ燃え上がった。

「そ、そんな、つもり、じゃ」

 慌てて熱を振り払おうとしどろもどろに答えるが、しかし、ふと気づいた。目の前からのぞき込んでくるアマラの表情は、からかいや冷やかしといったものではなく、真剣そのものだったのだ。その視線に後押しされ、ネオは改めて自分の胸の中の熱をきちんと意識した。いや、そもそも今顔を覆っている熱こそが、そのすべてでもある。

 最初は、本当にそんなつもりではなかった。

 我ながら恥ずかしいとは思うが、しかし、当初のネオは、実のところイルゼのことなんて欠片も興味はなかった。可愛らしい女の子に親切にしてあげられる、自分にその力があるという事実を知り、無邪気に舞い上がっていた。ただ、それだけだった。

 しかし、ミンデンから帰ってきて、イルゼの出迎えを受けた瞬間。そして毎朝のように北門の外でネオの無事を祈り、ネオの靴を抱いて寝ていたと知った瞬間。つまり、イルゼという少女の人格に触れた瞬間、ひとりよがりだった少年の胸に、熱が宿ったのだ。

 薄暗い工房の中で、ほとんど決死の覚悟で羞恥をこらえ、ネオにその脚を晒してくれたイルゼに、胸の熱は爆発しそうなほどに昂ぶっていた。

 ネオの胸のなかで一方的に想像するだけだった、おぼろげなイルゼの姿。それが、いくつもの経験を通すことによって、少しずつ本物に近づいていくのを感じていた。この胸に宿るイルゼを、もっともっと本物に近づけたい。そんな想いが熱の塊となって、ネオの胸を内側から焦がしていた。

 アマラの質問が、その熱の意味をはっきりとネオに認識させた。それは、熱いだけではなく、茶化したり汚したりしてはならない、とても尊く神聖な気配をもってネオの胸を締め付けていた。胸の熱に駆り立てられ、正直に答えた。

「はい……とても」

 言いはしたものの、イルゼは放浪楽師で、ネオは靴職人の、しかも徒弟である。職人が親方の許しもなく勝手に女性と親しくなることは、ツンフトの規約で――。そこまで考えて、自分はもう靴職人どころかツンフトともなんの関係もなく、あと一ヶ月も経たぬうちに家すらも失う身であることを思い出した。となれば、このアマラの質問は、もしかしたら。

 ジョングルールと一緒にこいと誘うつもりなのか? あれだけシュタイナウに放浪者の素質を褒めちぎられたとあっては、あながち冗談ではないかも知れない。確かにジョングルール一座に加われば、家を失ったあともどうにか生きていけるだろう。旅慣れたシュタイナウに導かれ、楽器の演奏を覚えて、一座の靴の修理を担当しながら。なによりも、イルゼと一緒に。

 そんな夢想とともにアマラの返事を待つ。

「そう。……よかった」

 にっこりと微笑んで、しかし、くるりときびすを返し、旅籠へと戻ってしまった。

 肩透かしを食らった気分で工房に戻ったが、落ち着かない。なにしろ、ミンデンから帰ってからというもの、ずっとイルゼの義足作りに没頭していたのだ。普段ならばいつもどおりに革靴を作っている時間だが、今はそれを命じる叔父もいない。ようするに、暇なのだ。

 そういえば、ティルの話は本当なのだろうか。革靴を百揃い作って、橋の向こうの三叉路で行商人に混じって売れば、本当に三グルデンもの銀貨になるのだろうか。しかし、三グルデンという途方もない金額が本当かどうかはともかく、街の外である以上、三叉路で靴を売ることは禁止されていない。それは事実だ。いずれにせよ、この工房を追われたら、お金がなければ餓え死にするのみである。ならば、話の真偽は置いといて、とにもかくにも靴をたくさん作っておくことは無駄にはなるまい。幸運にも材料の巻き革は没収されていない。当面の間、材料にはこと欠かないだろう。そんなことを考えて、クーヘンをかじりながら靴作りに取りかかった。

 終課(就寝)の鐘が鳴り、そろそろ一段落と思って、両手をいっぱいに広げて伸びをしたところに、コツコツと扉を叩く音が聞こえた。

 直感的に、アマラか、あるいはシュタイナウだと思った。ネオの気持ちを聞いたことで、やはりジョングルールに誘いに来たのだ。どうしよう。とは思うものの、しかし、この状況にいたっては断る理由など、どこにもない。ミンデンへの旅で胸に宿ったどきどきが、新鮮な風に煽られて、心の奥底でじりじりと熱を放っている。そんな感覚さえあった。

 とにかく、話を聞かないと。急いで扉を開けた。

 だが、そうではなかった。扉の外に立っていたのは、ネオが想像していた神秘の世界へのいざないではなかった。アマラでもシュタイナウでもなく、ネオが想う少女その人だった。

 一瞬、心が喜びに踊る。しかし、本当に一瞬だけで冷めた。イルゼの表情は、昼に橋の上で見せた笑顔が嘘のように凍りついて、まるで森の中で道に迷ってしまったとでも言わんばかりの焦燥を浮かべていたのだ。

「ネオさん……。こんな時間に、ごめんなさい。私、わたし……ネオさんしか頼れなくて……。ごめんなさい」

「いや、そんな……迷惑なんかじゃないけど、でも、いったい……?」

「アマラさんと、シュタイナウさんが、いなくなっちゃったんです」

「まさか」

 明らかに遅い時間ではあるが、しかし夜の世界にも慣れたシュタイナウのことだ。どこかへ出かけていて、すぐに帰ってくるんじゃないかと思うが、

「お使いから戻ったら、荷物が、これと……私のものだけが残ってて……アレクサンデルも、アルブレヒトも、居なくなってて……」

 そういうイルゼの背中には、彼女の胴と同じくらいの大きさのハーディ・ガーディ(手回しフィドル)が背負われていた。アルブレヒトとは、もう一頭いたロバの名前か。アレクサンデルしかり、やはり偉そうな名前だ。それにしても、ロバを連れて出るということは、それだけで当分は帰らないということだ。そして、イルゼの演奏するハーディ・ガーディが残されていたという事実。それは、それを残したシュタイナウたちの意図するところを残酷なほど正確に告げていた。

 なによりも、夜が明けるのも待たずにイルゼがここに来たということは、旅籠にいられなくなったということだろう。シュタイナウたちはイルゼの帰るべき部屋もろとも、旅籠を引き払ってしまったのだ。

 ティルはどこにいるのだろうか。シュタイナウたちと一緒に引き上げたのか。いや、ティルはなにやらどこかの工房に潜り込んで路銀を稼いでいると言っていた。まだ街にいるかも知れない。しかし、他の親方の工房となると、それこそイルゼが入り込める余地はないだろう。

 結局イルゼには、頼れる人間がネオ以外に思いつかず、他にどうしようもなく、迷惑だろうと思いつつもここを訪ねてきたのだ。

 もちろん、ネオは迷惑などとは欠片も思わない。むしろ、イルゼが自分を頼ってくれたという事実が、嬉しくさえある。扉の前で震えているイルゼを優しくいざない、工房の中に招き入れた。途端に、イルゼがしがみついてきた。ネオの胸に頭をぎゅっと押し付け、ぶるぶると恐怖に耐えている様子だった。

「大丈夫、大丈夫だから。イルゼ、落ち着いて。ここに居ていいから。僕は絶対、絶対に追い出したりしないから、だから、安心して。ね?」

 ずっと気が張り詰めていたのであろう。ネオの言葉を聞いた途端、イルゼの緊張が崩れた。涙が溢れだしたのか、地面にぱたぱたと黒い雫が浮かびはじめた。涙の中で、イルゼは自分の身に起きたことを実感していくようだった。

「ふえ、うええ……、ネオさん……ネオさん。ひっく、わたし、どうしよう。ひっく……、私、わたし……、ひっく、捨てられちゃいまひた……」

 ネオの胸にすがって嗚咽とともにわななくイルゼ。その柔らかな体温を感じながら、ネオはアマラの別れ際の笑顔を思い出していた。イルゼへの気持ちを聞かれたのは、このことが念頭にあったのだ。

 それにしても、突然だった。シュタイナウにせよ、アマラにせよ、イルゼを旅のお荷物のように思っている素振りは欠片も見せなかった。シュタイナウにいたっては、イルゼの脚の件で、自分が処罰を受ける危険を犯してまでネオを殴りつけたではないか。イルゼが邪魔だからとか、イルゼがいては足手まといだからとか、そういった理由で厄介払いしたとは、とても思えなかった。

 では、いったい、なぜ。

 ネオがイルゼへの想いを明らかにしたことで、この結果に至ったというのであれば、つまりシュタイナウとアマラは、イルゼをネオに押し付けたと考えるのが妥当か。いや、ネオと一緒にミンデンまで行けとシュタイナウをけしかけたアマラの性格や、ぶつぶつと文句を言いながらもそれを守ったシュタイナウの律儀さから考えて、そう考えるのは正しいとは思えない。なによりも、ネオ自身が押し付けられたなどとはまったく感じていない。

 きっと、自分はイルゼを託されたのだ。そう思った。

 シュタイナウやアマラは、ネオの一連の行動や、作り上げた革靴、そして義足などを見て、そして最後にイルゼへの気持ちを聞いて、「ネオにならイルゼを任せられる」と判断したのだ。その結果、こんな行動に出たのだ。

 考えが至った途端、背中にずしんと重圧を感じた。熱をともなっていた。それは、この先、シュタイナウに代わって自分がイルゼを守っていかねばならないという責任感でもあり、自分の人生において、大切な、巨大ななにかを手に入れたという確信だった。

 ようやく落ち着いてきたのか、ネオの胸に顔を押し付けたまま、なかば呆然とするイルゼ。嗚咽の名残か、ときおり涙混じりにしゃくりあげる。

「大丈夫。大丈夫だよ、イルゼ。なんにも心配しないでいいからね……」

 震える頭を宥めるように撫ぜながらも、その脳裏には、エーリッヒに言われたあの言葉が鮮明に蘇っていた。


 ――人生を賭けるに足る、動機。


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