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ジョングルール ~ハーメルンの笛吹き男~  作者: 凪茶房
第二章 靴屋のネオはミンデンへ向かう
20/39

不誠実の報い

 閉じられた鎧戸が、外からコツコツと鳴らされた。がたりと音を立てて開けると、初夏の陽光が鋭く突き刺さる。

こびと(ツヴェルク)さんや、大丈夫かい?」

 目がくらむ中、心配そうに声をかけてきたのは、例のおばさんだった。手にはこれまた大きな麻袋を持っているところを見ると、どうやら叔父の店がつぶれたことを心配して見舞ってくれたらしい。

 思えばここ三日ほどの間、ネオは工房から一歩も出ていなかった。毎日、午後になるとやってくるティルの指導のもと、借りた工具をふるい、それ以外のことは食事と寝ること以外、なにもしなかった。食事は――考えてみれば深刻な問題だったが、おばさんのくれたクーヘンがまだ残っていたのと、ティルも差し入れと称してパンやらスープやらを皿や鍋ごと旅籠からちょろまかしてきたので、困ることはなかった。

 だが、おばさんにしてみれば、街に戻ったネオが叔父の店がつぶれているのを見て、そのまま工房を閉めきって引きこもってしまったかのように見えたのだろう。事実、状況はそれに近かった。ただ、おばさんが心配する通りに工房の中で鬱々と落ち込んでいたのではなく、無我夢中で工具をふるっていただけだった。

「おんや? 思ったより元気そうだぁね。良かった良かった。……って、なんだい、この様子は? 指物師(家具職人)にでも化ける気かい?」

 工房の中の様子を見てそんなことを言うおばさんに、ネオは微笑んで答えた。

「おばさん、ご心配おかけしました。まだ先のことはわからないけど……。でもまあ、なんとかなりますよ」

「ふぅん……なんだか、ちょっと見ないうちに逞しくなったみたいだぁね。でも、無理しちゃだめだよ? クーヘンくらいならいつでも食べさせたげるから、お腹が空いたら声をかけるんだよ?」

 涙が出るほどありがたい言葉ではあるが、しかし、それに甘んじて、それに寄りかかる人間を、すなわち物乞いと言うのだ。すべてを諦めて投げ出す前に、まだ自分にはできることがあるはずだ。やってないことも、まだたくさんある。

 お礼を言って受け取った麻袋には、やはり大量のクーヘンが詰まっていた。おそらく、この工房にいられる一ヶ月は、これで食いつなぎなさいと言う心づくしであろう。同時に、このクーヘンがなくなるまでには、今後の身の振り方をはっきりさせなさいということでもある。確かに、クーヘンが尽きる前に食べ物を得る算段をなにかしら考えなければ、本当に叔父親子と並んで物乞いせざるを得なくなるだろう。

 こんな状況になった今、くだんの豪商ホーエンの話に乗って、アェルツェンとやらでおかかえの職人になっておくのだったと、今更ながら後悔がのしかかってくる。しかし、ホーエン老人が次にいつ来るかはさっぱりわからない。あるいは、すでにネオを引き抜くことを諦めてしまったかもしれない。ともあれ、今は虫の良い想像をするよりも、ティルに師事して目の前の目的を果たすことが先決だった。


 手伝いにくるティルは、差し入れだけでなく、街の様子も運んできた。それによれば、東方植民への希望者は少なくはないそうだ。かといって、順調というわけでもないらしい。そもそも、植民には誰も彼もが参加できるというわけではなかった。

 第二、第三と、あとに続く植民たちについては、ブラウンシュバイク公国の兵隊による警護も多くは望めないものの、参加条件はないに等しい。しかし、少なくとも、ハーメルンからの最初の東方植民は、なにがなんでも絶対に成功させなければならないのだ。ヴェルフェン家が厳しい条件を出してくるのも、当然といえば当然である。

 まず、なんといっても、若く健康であること。最低でも、二ヶ月はほとんど休まずに歩き続けなければならないのだ。着いた先では来る日も来る日も泥まみれの力仕事となる。年寄りでは旅の足を引っ張るばかりか、着いた先では手は動かさないくせに命令ばかりする役立たずに成り下がり、つまり、団体の結束と秩序を著しく乱してしまうのだ。

 次に、ある程度のまとまったお金を持っていること。ヴェルフェン家が後ろ盾にいるとはいえ、最初の一年はどうあがいても収穫を見込むことはできない。つまり、持ち込む食料――おそらく大半は乾燥した巻きパンだろう――のみでどうにかして一年を越えなければならない。その食料を買い込むための資金は、多少はヴェルフェン家から出るにしても、最終的には自腹である。そうしなければ、金だけ受け取って逃げるものが続出し、結局は失敗に終わってしまうからだ。

 これらの条件に合致するものは多くはなく、当初は流れ者も含めて三〇〇人ほどいた参加希望者は、一〇〇人程度に減っているという。

 しかし、なによりも深刻な問題があった。彼らを率いる先導者、すなわちヴェルフェン家から正式に依頼されて植民を率いる、いわゆる「植民請負人」がいないのだ。しかし、それは当たり前でもあった。植民請負人になるためには、ある程度以上の教養があるだけでなく、街の外の知識にも通じていなければならない。それを兼ね備えるものなどハーメルンでは皆無に等しい。更に、教養に長けているということは、そのまま聖職者の卵であることを示す。大人になったら聖職者の地位が待っている、そんな彼らがわざわざ危険を犯す必要など、まったくないのだ。

 子供たちを先導できるものがいない以上、どんなに植民への気運が高まっても、決して実現はしないだろう。

「ま、気にしないこってす。そもそもが分の悪い博打でさぁ。ネオさんみたいに自分の腕で食ってけるお人が、おいそれと首を突っ込む話じゃねっすよ」

 確かに、植民に人生を賭けるほどの積極的な動機をネオが持っていないのは事実だった。そんな大層なものがあるのなら、とっくにエーリッヒに申し出ている。今はただ、ひたすらに目的のものを作るしかなかった。

「しかし、さすがにあれだけの靴を作るだけのことはありやすねぇ。ネオさん、アンタやっぱ大したもんだわ」

 その言葉は大袈裟でも誇張でもないらしい。自分でもそれは感じている。現に、ティルの工具を丸一日使っていただけで、概ねの要領は体得していた。ティルの教え方も上手いのだろうが、どの工具も革細工で使うものに通ずる点があり、三日も経つころには、もはやティルの指南もほとんど必要ないほどに手に馴染んでいた。

 一人で黙々と作業をする時間が長くなると、色々なことが頭の中を巡る。その中でも、特に頭にこびりついて離れようとしないものがあった。ほかでもない、先日エーリッヒに飢饉の話とともに聞かされた、かつての事件の話だ。重苦しそうなエーリッヒの声までが鮮明に残っていた。

 二十四年前と四十八年前にこの街で起きたという、子供たちの失踪事件。それは、悲しくも恐ろしい、呪いの物語だった。


「今から五〇年ほど前に戦争があったという話は、覚えているね?」

「はい」

 もちろん忘れようもない。なにしろ、ネオがミンデンに向かう羽目になったのは、その戦争が原因でもあったのだ。

「帝国の定める暦で数えるなら、一二五九年ということになるな。教皇派がミンデン市にこの街の知行権を売ったというのは、その年だ。そして、ミンデン市とエーフェルシュタイン家との間で行われたあらゆる交渉が決裂し……翌年、戦争がはじまった」

 しかし、その戦力の差がどれほどのものであるのか、シャルクスブルク砦を目の当たりにしたネオには想像がついた。そもそもが、戦いに向ける覚悟も準備も、根本的に異なるのだ。あれほどの砦を領内に持つ軍隊と、ハーメルン市が互角の戦いをできるとは思えない。

「兵士と言っても、その大半はここの市民だ。もちろん、民兵として多少の訓練は積んではいたが、それでも勝ち目のある戦いではなかったろう」

 それでも、自分の街を守るために、ハーメルン市民は戦ったのだ。しかし、そんな戦いを繰り返しても、いたずらに被害を重ねるだけだというのは、いくらネオに戦いの経験がなくとも理解できる。

「これは私の予想だが……死者が増えるにつれ、市民には疑問が湧いたのではないだろうか。そもそもが知行権をめぐるエーフェルシュタインとミンデンの戦いだ。ミンデンが勝ったところで知行者が代わるだけで、自分たちの生活にはそれほどの変化はないのではないか、とな」

 つまり、戦いを続けることの利害において、エーフェルシュタイン家とハーメルン市民の間に溝ができてしまったのだと、エーリッヒは言う。エーフェルシュタイン家としては、これまで財を投じてこの街の発展を支えてきた以上、その街の住民は一緒に戦うべきだと考えるのは当然である。しかし、ハーメルン市民の側に、命をかけるほどの意味があったかどうかというと、なんとも言えない。

「ブラウンシュヴァイク公国に救援要請がきたのは、そのころだな。公国の代表たるヴェルフェン家が先陣に立ち、かつての仇敵を助けに馳せ参じたのは、前に言った通りだ。しかし、駆けつけた先、ゼデミューンデ村の跡にて、ヴェルフェンの兵士たちは恐ろしいものを見たそうだ」

「……なんですか?」

「子供たちの亡骸だよ。下は七歳くらいから上は十四、五といったところか。喇叭(ラッパ)を吹き鳴らす笛吹きを先頭に、いくさ装束に身を包んだ子供たちが……全員、殺されていた」

「まさか……」

「そのまさかだ。……今となっては、いったいどんな経緯があったのかは知る由もない。だが、エーフェルシュタイン家を守るために子供たちまでもが駆り出され、そしてその全員が命を落とした。……恐らく、この事件が原因で、ハーメルン市民とエーフェルシュタイン家の間に亀裂が走ったのだろう」

 いったいなにがあったのか、想像に難くはなかった。追い詰められたエーフェルシュタイン家は、もはや勝ち目のない戦いにハーメルン市の子供たちまで巻き込んだのだ。そして、喇叭(ラッパ)を吹く「笛吹き男」に率いられた子供たちの軍隊は、ハーメルンに戻ることはなかった。ハーメルン市にとって最悪の結果をもたらしてしまった。

「いずれにせよ、その犠牲が決定打となりエーフェルシュタイン家は事実上の敗北を喫した。……だが、ヴェルフェン家が乗り出してきた以上、ミンデンもそれ以上は戦いを続けようとしなかった。なにしろ、こちらはブラウンシュヴァイク公国が背後にある。下手につついたら、ハーメルン市どころか、ザクセン地方、いや、それどころかヴェストファーレン地方までもすべて巻き込んだ大戦争になりかねん」

 これが、ハーメルン市が子供を失った最初の事件だ、と締めくくった。

 しかし、ネオはすっきりしなかった。この話だけでは、現在の悪魔や呪いの噂にはつながらないからだ。子供たちが犠牲になったのは事実だし、ハーメルン市民とエーフェルシュタイン家との軋轢についても理解できる。しかし、これだけではただの戦争の話でしかない。

 つまり、この話には続きがある。ハーメルンが本当の呪いを受けたのは、この戦いの二十四年後のことだったのだ。


「さて、ミンデンは撤退したが、もはやエーフェルシュタイン家には領主としての力は残っていなかった。戦争資金を得るためにそこかしこの諸侯に借金を重ね、ハーメルン市の財政も破綻しかけていた。そしてそれを救ったのは、やはりヴェルフェン家だった。街の多くの職人や商人はヴェルフェンの傘下に収まることで、どうにかつぶれずに済んだのだ」

 それがなにを意味するかというと、つまりツンフトや教会、市参事会などを通してエーフェルシュタイン家に納められていた財源が、そのまま失われるということである。ただでさえ借金まみれの上に、残された収入源をなくしてしまうのだ。

「それじゃ、エーフェルシュタイン家は……」

「うむ。当然ながら反発した。彼らは古くからつながりのある職人や商人を味方につけ、ハーメルン市の住民を真っ二つに対立させたのだ。……だが、それも長くは続かなかった。私がまだ子供のころ、一二七二年のことだ。……ザクセン地方を飢饉が襲ったのだよ」

「!」

 飢饉になったら、なにが起きるか。ついさっきたっぷりと聞かされたことなのだ。それと同じことが、かつてハーメルン市を襲ったのだ。

「幸いにも、当時のブラウンシュヴァイク公国は、傘下に収めつつあったこの街に梃子入れしていたのでな。ヴェルフェン家にくみしてさえいれば、とりあえず餓え死にすることはなかった。……だが、エーフェルシュタイン家にとっては、この飢饉は致命的だったろう。かろうじてエーフェルシュタインの側に踏みとどまっていた市民が、すべてヴェルフェンに流れてしまったのだ」

 それは仕方のないことだろうと、ネオは思う。借金まみれで食料の蓄えさえもままならなかったであろうエーフェルシュタイン家に、市民を守ることができるはずもない。飢えて死ぬよりは、新しい支配者を受け入れて生きることを市民が選ぶのを、誰が責めることができようか。

「飢饉から五年後、ついにエーフェルシュタイン家はハーメルンを手放した。……知行権のすべてをヴェルフェン家に売却したのだ。今現在、この街の領主としてヴェルフェン家が座っているのには、こういった経緯がある」

「そうだったんですか……それで、エーフェルシュタイン家は街からいなくなったんですか?」

「うむ。どうやら、しばらくは周囲に残った城で活動していたようだが……。彼らの名が再びあらわれるのは、その七年後……一二八四年だ。そう、今からちょうど二十四年前だよ」

 いよいよ、その数字が出てきた。否応なしにネオの喉がゴクリと鳴った。

「街にあらわれたエーフェルシュタイン家の男は、東方への植民請負人だったのだ」

「……っ!」

「そのころのハーメルン市は流入者が多くてな、人口は増加傾向にあった。そして、色々あったとはいえ、いまだエーフェルシュタイン家に恩義を感じている住民も大勢いた。つまり、東方植民の話は、エーフェルシュタイン家と共に遠くの地でやり直そうという呼びかけだったのだ。……しかしそれは、真実ではなかった」

「エーフェルシュタインの……悪魔……」

「うむ、まさしく悪魔だ。……すべての準備は順調に整い、東方に向かう子供たちは夏至祭リに親の前で結婚式を執り行った。そして結婚式の翌日、六月二六日のヨハネとパウロの日、百と三〇人の子供たちが東へ向けて出発した。先頭を歩く植民請負人は、代々エーフェルシュタインの近衛兵を務めていた分家トラバントの男だった。色とりどりのつぎはぎの服を着ていたそうでな……街のものたちがまだら男(ブンディング)と呼んでいるのはこのためだろう。そして、男はバグパイプを吹き鳴らしながら、子供たちを連れて街を出ていった」

 しかし、その植民は失敗したのだ。いや、もともと成功するはずがなかった。なぜなら、エーフェルシュタイン家はもとより植民を成功させようなどとは思ってはいなかったのだ。

「……エーフェルシュタイン家は、先の飢饉ですべての住民がヴェルフェン家に寝返ったことを、呪っていたのだ。事実、その裏切りが決定打となって、自らが投資し発展させた街を手放すことになったわけだからな。教皇派のネズミどもを一掃し、この街を発展させた恩義を忘れたハーメルン市民への報復として、偽の東方植民の話を持ちかけたのだ」

 まだら男(ブンディング)。住民の不誠実。子供たちの行方。ひそひそと囁かれていた笛吹き男の事件。それは、かつての支配者であったエーフェルシュタイン家による、裏切り者への復讐劇だったのだ。

 ふと、ネオの脳裏に素朴な疑問が浮かび上がった。

「それがわかったのは、どうしてですか?」

「うむ。一三〇人のうち、二人だけが帰ってきたのだ。だが、ひとりは目が見えず、もうひとりは言葉を喋れなかった。噂によれば、もうひとり、途中で上着を取りに引き返していた子供が無事だったという話だが……この子供が誰なのかもわからず、どうもはっきりしない。……いずれにせよ、他の子供たちは人買いに売られたようだ。おそらく二人は役に立たぬと見なされ、それゆえに難を逃れたのだろうな」

 トラバント家の男。エーフェルシュタインに連なるもの。その男がエーフェルシュタインの悪魔となって、ハーメルン市の住民に復讐をした。恩義を忘れヴェルフェン家に寝返ったハーメルン市民の不誠実に対し、その子供を奪うことで報復したのだ。

 誘拐された子供たちはどうなったのか。まず間違いなく、奴隷として売り飛ばされたのだろう。ハーメルン市の東の穀倉地帯、その近隣にはみすぼらしい農村が無数にある。そこに住むものは、ほとんどが不自由人、つまり農奴だと父親に教わった。奴隷という存在は、決して縁遠いものではないのだ。

 そして、東方に向かう途中で人さらいに捕まった以上、当然、東方開拓の人足奴隷として売られたのだろう。もちろん、奴隷が土地を切り拓いても彼らのものにはなるはずがない。まともな報酬が与えられるはずもなく、家畜同然の扱いとなるのは疑いようもない。

 村ができた後も、引き続き農奴として生かされるならまだ良いほうだ。多くの場合、用が済んだら使い捨てられる、つまり、食い扶持を減らすために殺される。それが、人買いに売られた子供たちの運命である。

 子供たちを助け出す方法は、皆無だった。なにをどうやっても、子供たちを助けることはおろか、探しだす手がかりさえも掴めなかった。この残酷な結末がわかって以来、ハーメルンの街では東方植民の話は頑なに拒否され続けたのだ。


 四十八年前の戦争での子供たちの犠牲。二十四年前の笛吹き男による誘拐事件。そして、今年。

 ハーメルン市の年寄りたちがこのことを口に出すことすら嫌がるというその理由が、今のネオには理解できた。彼らは、エーフェルシュタイン家を裏切ってヴェルフェン家に寝返った自分たちこそが、かつての領主が悪魔に身を貶してしまったそもそもの原因であることを、わかっているのだ。そして、その不誠実の報いとして子供たちを連れ去られたのだということを、理解しているのだ。だからこそ、かつて自分たちがなにをしたのかを、その結果なにが起きたのかを口にせず、ただただ悪魔の呪いを恐れていたのだ。彼らは、いったいどんな気持ちでこの年を迎えたのだろう。

 幾度もヴェルフェン家に提示されたという東方植民の話を頑なに拒み続けていたのは、こういった事情があったのだ。

 無理もない話だと、ネオは思う。

 しかし、今年から来年にかけて起きるという飢饉に対処できなければ、ハーメルン市はどうなってしまうのか。あるいは、今年起きるという飢饉もまた、エーフェルシュタインの呪いなのではないかという考えさえ湧き上がってくる。それを思えば、エーリッヒがなんとかして東方植民を進めようとしているのも理解できた。問題は、なぜそれをネオに聞かせるのかということだ。

 ――悪魔も恐れないかね?――

 その問いは、明らかにこれに続くエーリッヒの頼みごとを連想させるものだ。頭の中で膨らんだその考えに押しつぶされそうになり、ネオの方から切り出した。

「それで……今度は、僕に東方植民に参加して、エーフェルシュタインの悪魔と対決しろって言うんですか?」

 やや睨みつけるような、疑いの篭った眼差しで問うたが、エーリッヒは見透かされるのも当然とばかりに微笑み、しかし意外な返事をした。

「確かに……ヴェルフェン家に植民請負人として認められるためには、まず第一に夜の世界を恐れず、第二に旅に慣れており、そして第三に、通るであろう街で交渉を……つまり読み書きができる、そんな若者でなければならぬ。白状すると、ネオ君以上の適任はおらぬと思っているのは事実だ。……だが、こればかりは頼めんよ」

 以前、ミンデンまでの使いを頼んできたときの強引さを思い出していたネオは、エーリッヒの態度に拍子抜けした。なにしろ一ヶ月後に家を失うのだ。自分で言うのもなんだが、これほど都合の良い人間もそうそういないのではないか。思わず聞き返してしまった。

「なんで、ですか?」

「もちろん、無理に頼み込んで上手く行くような、簡単な話ではないからだ」

 微笑んでいたエーリッヒの顔が、険しく引き締まった。

「想像できるかね? 飢えと寒さに耐えながら、見知らぬ森の奥で木の根を掘り起こして畑を作るのだぞ? おそらく、二度とハーメルンに帰ることはあるまい。参加するものは全員、たったひとつの命と、残りすべての人生を賭けることになるのだ。……これは、人生を賭けるに足る強い動機を持っていることが、絶対条件なのだよ」

「人生を賭けるに足る……動機……」

「君は家を失ったとはいえ、しかしこの街では屈指の靴職人だ。あるいは、他の工房で働くこともできるだろう。だからこそ、君からは動機を感じない。そもそも、これを任せられるのは、自ら名乗りを上げる気概を持った若者でなければならぬのだ」


「人生を賭けるに足る、動機……」

 ティルの工具をふるいながら、同じ言葉をポツリと口に出した。人生を賭けると言っても、そもそもネオには自分の人生の価値さえもわからない。まったく雲をつかむような話だ。

 だが、ひとつだけ、はっきりしているものがあった。

 イルゼの右脚に口付けたときの胸の熱。その衝動。それは、ネオが今までに感じたことのない、激しいものだった。その熱はまだ胸の奥に焼き付いて残っている。これを保ち続けるためならば、人生のすべてを賭けても惜しくない。そう思える自分がいた。その熱を、今作っているイルゼの靴に込める。そうやって形をもたせることで、ネオの胸に渦巻くものを、はっきりと見つめることができる気がした。


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