イルゼ
「わたし、職人さんの工房って、はじめてです。……思ったより、広いんですね」
「う、うん。ひとりで靴を作る職人は珍しいからね。大きいところでは五人くらいで作業するみたいだけど」
鎧戸を閉めた工房の中は、真昼といえど薄暗い。照らすものは、窓に貼った羊皮紙を透けてオレンジ色になってふんわりと差し込んでくる陽光のみである。
会話がどことなくぎこちなくなってしまうのは、二人揃って緊張しているからか。今になって、自分がイルゼに頼んだことがどれだけ常識はずれで、どれだけずうずうしいものなのかが実感としてのしかかっていた。
「ネオさんは、すごいです」
「え?」
突然のイルゼの言葉に、戸惑うネオだが、
「たったひとりで、こんなに素敵な靴を作れるなんて。まるで、魔法です。わたし、こんな素敵な靴、見たことも、ありませんでした」
たどたどしいながらも一生懸命にしゃべっている様子が、ネオの心の奥をくすぐる。
「あの……わたし、まだ、きちんと、お礼を言ってなかったです。ネオさん……素敵な靴を、ありがとう、ございます。わたし、この靴を、一生、ずっと、大事にします」
言って、胸に抱いていたはいていない方の靴を、文字通り宝物のようにギュッと抱きしめた。
すでに充分すぎるほど大事にされている。駱駝の革はイルゼのたおやかな指でずっと撫で続けられていたのであろう、その表面はほどよくなめされ、まるで使い込んだ革手袋みたいに小さな手に馴染んでいた。ここまで大切にされると、逆に気恥ずかしさが頭をもたげてくる。あの夜のように、まるで自分自身がイルゼに抱かれ、撫でられている、そんな暖かさとこそばゆさが胸をくすぐった。
「ど、どういたしまして。……でも、できれば、靴はどんどん使って欲しいな。壊れたら、何度でも直してあげるから、ね?」
イルゼは少し、戸惑ったようにきょとんとした顔を見せる。しかし、すぐに柔らかな笑みを取り戻し、
「はい」
嬉しそうに微笑んだ。素直に可愛らしいと思った。薄暗い工房の中にあって、少女の健やかさが眩しかった。
実のところ、ネオは身体に欠損を持つ放浪者を少なからず見たことがある。その多くは同情を煽るか、好奇の視線を集めるか、つまり、身体の欠損を自ら見世物にして物乞いをしていたものだ。そして、これはネオの持つ印象だが……彼らは総じて、好奇の視線を自ら集めておきながら、その好奇な視線を憎んでいるように見えた。そもそも立場が弱く、街の住民に危害を加えられても「影への復讐」しか許されぬ放浪者である。加えて人と違う容姿となれば、どんな冷酷な扱いを受けるかは想像に難くない。そこに、暗い感情が湧かないほうが、むしろ不自然ですらある。
きっとイルゼも旅を続けるうちに嫌な思いをしたことは一度や二度ではないだろう。まさしく、ネオがしてしまったような仕打ちを――もちろん、ネオの場合は悪意によるものではなかったが――受けることもあったろう。そんな中で、このイルゼの健やかな可愛らしい笑顔は、それこそ奇跡だった。この笑顔のためならば、何度でも靴を作っても良い。何度でもミンデンまで往復しても構わない。そう思ったとき、ようやく、放浪楽師であるイルゼに「壊れたら、何度でも直してあげる」などと言ってしまったことに気づいた。壊れたらもなにも、靴が壊れるころ、イルゼはとっくに遠くの空の下を旅しているだろうに。
自分の間抜けさに頭を掻きながら、いよいよネオは切り出した。
「それじゃ……その……いいかな」
「……っ」
びくんとイルゼの肩がひとつ震え、笑顔が緊張に強ばっていく。それが心苦しい。
イルゼは、以前に聞いたときと同じように長い時間をかけ、
「……はい」
言って、ベッドに腰掛けたまま、おずおずとスカートをたくし上げはじめた。たくし上げる両手が、ぶるぶると震えていた。抑えようもなく、胸がざわめく。薄暗い工房の中でふたりきり。ネオが見つめる中、イルゼがふくらはぎを晒していく。その頬に浮かぶ羞恥の色に、改めてこの行為の大胆さを思い知った。
お祭りや踊りの最中に、ふくらはぎがちらりと見えてしまうのとは話が別だ。いや、それだけでも健康な男性なら、まちがいなくドキリとするものだ。もちろん、自らそれを見せるなんて、貞淑な女性であれば、夫にしか決して許さないことだ。もしも、街の往来で男性に対して同じことをして見せたら、それは相手を色香で誘惑しているのに他ならない。そういった行為を、イルゼにさせているのだ。まるで靴を作ることを口実に、とんでもなく破廉恥な行為をイルゼに強いているような、背徳感にすら近い感覚が湧き上がってくる。ドッ、ドッ、ドッ、と心臓が響いているのが、異様に近く感じられる。その音をイルゼに聞かれるのではと、心配になるほどだった。
真っ白でしなやかなふくらはぎが、眩しくネオの目に飛び込んだ。健康なほうの左脚だ。それを目に入れただけで、心臓が跳ね上がった。しかし、見るべきはそちらではない、もう片方の脚だ。
イルゼが失った右脚。その代わりに取り付けられた、椅子の脚を思わせる木の棒。いつか厩でイルゼが転んだ際にチラリとだけ見たそれを、まじまじと観察した。ネオの視線を受け、イルゼの背中が震える。ちらりと目を上げると、真っ赤になって目を閉じ、瞳に涙さえ浮べているイルゼの顔があった。罪悪感がきりきりと胸を締め付ける中、ひもを取り出して木の棒の長さを測り、接続部分の形を把握していく。
イルゼの右脚の失われている部分は、膝のすぐ下辺りからだった。辛うじて膝の関節が残っており、ふくらはぎに差し掛かるところが布でグルグル巻きにされて木の脚が縛り付けられていた。当然、布の上からでは接続部分を確認することはできないため、
「……外しても?」
顔色をうかがいながら聞いた。さすがに、これ以上のことはイルゼが嫌がったら断念せざるを得ない。
「外さないと……全部見ないと、作れない……ですか?」
「うーん……作れないことはないと思うけど……。今までイルゼさんがずっと使っていたものだから、この部分の形が変わると脚が痛んだりするかも知れない。……かえって脚を悪くしたら、意味がないしね。……駄目かな?」
「…………ネオさんに、なら」
それだけ言って、右脚に巻いてあるリンネルを自らほどきはじめた。
リンネルはかなりきつく堅く巻いてあったらしく、解けた布は思っていたよりもずっと長くなって床に落ちていく。それがなくなった途端に、カランと音が鳴った。イルゼの脚から木の脚が外れ、地面に転がったのだ。それは、丸みを帯びたY字型の木の枝を加工して作ったものらしい。Y字のくぼみに右脚の切断面をあてがい、布できつく巻くことで固定していたのだ。
はらりと亜麻布が落ちると、ネオの目に真っ白なものが飛び込んできた。
「……」
思わず、息を呑んだ。なにか、いけないものを見てしまったような、一瞬にして日常空間から隔絶された錯覚に囚われる。布の上からでも見て取れた通り、イルゼの脚はかろうじて膝の関節を残していた。ネオが知るかぎり、脚を失う際には関節で切断され、膝から下をまるごとなくすことが多い。その意味で、イルゼは幸運といえよう。ぷっつりと絶たれた切断面は、傷跡というにはなめらかで、むくんでもおらず血色も良い。真っ白な中に赤みを帯びたその艶やかな色が、ネオの目を捉えて離さなかった。
吸い込まれるように、その切断面に手を触れた。
「ひやっ!?」
触られることを予想していなかったらしい。びっくりして、イルゼの背中が跳ねる。柔らかかった。骨が絶たれた箇所はゴツゴツしているものと思っていたが、イルゼの右脚はまるで膝から下にふくらはぎの代わりにゆで卵でもくっつけてあるかのように、つるりとした柔らかさをネオの手に返していた。これなら、布を巻けば直接骨に負担がかかる心配もなさそうだ。手の中で震えるゆで卵みたいな丸みを帯びた脚を、指でぎゅっと押したりしながら、そんなことを確かめていく。
「ネオ、さん……そこ、あんまり、さわっちゃ……駄目、です」
なすがままのイルゼは、まるでしがみつくように自らのスカートをギュッと押さえ、ぶるぶると震えていた。息が、苦しそうだった。
「ごめんね。痛い?」
「いえ……少しびりびりするけど、痛くはないです。……でも、でも、」
血色が良いのも当然だ。顔を上げると、泣きそうな顔が真っ赤に茹で上がっていた。煙さえ吹き上げそうなほどに、うなじまで染め上げていた。その様子に、イルゼがとんでもない羞恥心と、必死に戦っていることが見て取れる。いや、今のイルゼが感じている恥ずかしさは、それどころではないのだ。ふくらはぎどころか、おそらくイルゼが最も他人の目に触れさせたくないであろう、イルゼが最も恥ずかしいと感じているであろう場所を、他人に、しかも歳の近い異性に見せて、あまつさえ触らせているのだ。
イルゼはあたかもネオの前で全裸になって、好き勝手に身体をいじくらせているのと同じか、あるいはそれ以上の羞恥を抱えているのだ。それこそ、なにもかもをネオに委ねる覚悟で。それは、ほとんど初夜を迎えた花嫁のごとき心境なのだろうか。なんだか、取り返しの付かない、とんでもないことをイルゼにさせてしまった気がした。
イルゼが恥ずかしさに耐え、ほとんど身を投げ出すほどの想いで応えてくれている。その事実に、ネオの胸の中にあったくすぐったさが急激に膨らみ、ざわめいた。それは、今までに感じたことのない、強烈な熱を秘めていた。その熱が、心臓の鼓動がネオの身体を突き動かし、気がついたときには、
「ひやっ!? ……ネオ、さん!?」
イルゼの右脚の先端、丸みを帯びた部分に、唇を付けていた。
「だめ。だめです。ネオさん、そこは、きたないです。ずっと、ずっと布に包まれてて、ろくに洗ってなくて、」
「そんなこと、ない」
唇を離して、代わりとばかりに手のひらで撫ぜる。
「ひぁ……っ」
今度は、肩と背中をびくんと震わせて、全身で驚くイルゼ。
ろくに洗ってないなんて、とんでもない。おそらくイルゼは不潔だと自分で思っているのであろうこの右脚を、風呂や水浴びのたびに徹底的に洗っていたに違いない。手にさらさらと触れる感覚は、汗や脂でべたついた垢にまみれたものではなく、生まれたての赤ん坊みたいに滑らかだった。きめの細かい肌に、しっとりと指が吸い着く。
普段は布に包まれている切断面。本来その先にあったはずの感覚の糸が、そこに結集しているのだろうか。イルゼはまるで不意に足の裏をくすぐられたかのように、身を震わせている。しかし、出てきた言葉はくすぐったさを訴えるものではない。
「だめです。ネオさん、わたしの、その脚は……とても、とても醜いですから、呪わしいですから、だから、だから、」
「でも」
ほとんど泣き出しそうなイルゼに、ネオは穏やかな気持ちで言った。穏やかなのに、胸の奥がどうしようもないほどに熱を放っていた。その熱に支配され、思ったままを口にした。
「ぼくは、この脚が……すごく好きだな。仕事柄、色んな人の脚を見てきたけど、イルゼさんのこの脚は……とっても綺麗だ。……他の誰よりも……いちばん綺麗だ」
「ま……、ま……、」
まさか、と言おうとしているのだろうか。イルゼは言葉も継げずに、ただただ顔を真っ赤に染め上げてふるふるとかぶりを振る。だが、それは心底からの言葉だった。包み隠さぬ、ネオの抱いた本当の気持ちだった。
もちろん、イルゼが右脚を失ったことを喜ぶつもりは毛頭ない。しかし、目の前のイルゼの姿は左右不対象でありながらも、まるで最初からこういった形を持って産まれたかのような、教会の聖母マリア様の像を思わせる緻密で完璧な造形としてネオの目に映っていた。この美しい造形をネオの作る靴などで隠してしまうほうが、むしろ罪深いのではと思えるほどに、ネオの心を捉えていた。丸みを帯びたゆで卵みたいなふくらはぎが、愛らしくて、可愛くて、たまらなかった。つるりとした可愛らしい右脚を、いつまでもこうして撫ぜて慈しんでいたいと、心の底から感じていた。
しかし、イルゼは自分の右脚を、醜く、汚く、呪わしいものだと思っている。ほとんど不浄の部位と変わらなく思っている。明らかに、イルゼは自分自身の右脚に怯えている。その様子に、少しだけイルゼのことが理解できた気がした。イルゼはなによりも、自分自身にこそおびやかされているのだ。彼女が怖がっているのは、他人ではなく自分の身体なのだ。
だからこそ、彼女は他人に対して優しい。なにか嫌なことや間違いがあったときに、他人ではなく、真っ先に呪わしい自分を責めてしまう。イルゼのことをろくに知ろうともせずに靴を作ったネオではなく、その靴をはけない自分を責めてしまうのだ。
それならば。この右脚が、イルゼの心を内側から突き刺すひとつの棘になっているのならば。その棘を抜いてあげたい。それは、イルゼが自分の右脚に怯えずに済むようになることにほかならない。イルゼが自分の右脚を好きになれるように。ネオの手の中で震える可愛らしい右脚をイルゼ自身が愛せる、そんな靴を作りたい。そう、心から願った。
あるいは、この工房での時間は、ある種の儀式だったのかも知れない。もちろん、イルゼの脚の状態を正確に把握するための確認の意味はある。それ以上に、ネオ自身がなにをしたいのか、自分はイルゼにどうなって欲しいのか、自分はイルゼになにを望んでいるのか。それを確認するための儀式だったのかも知れない。
胸の奥の熱がまだ残っているからだろうか。工房から出ると、強烈な初夏の日差しに焼かれるようだった。イルゼも顔を真っ赤にしたままで、やはり陽光に焼かれている。
「イルゼさん……。ええと、ごめんなさい。いつのまにか、その、調子に乗っちゃって……。靴は、きちんと作るから。だから、」
弁解めいた言葉で、とにかくイルゼの靴を作る約束を取り付ける。もしかしたら、ネオの行為にイルゼは右脚どころかネオに怯えてしまったろうか。あるいは、怒っているだろうか。場合によっては、今晩にでもシュタイナウがぶん殴りにやってくるかも知れない。
「……ネオさん」
ぽつりと、イルゼが言った。顔からうなじまで赤く染め、しかしうつむいたままじっとりと睨みつける視線が、下からネオを見上げていた。
「フラウは、やめてください」
「え」
はじめてイルゼの姿を見たときに聞いたつっけんどんな調子に、ぎくりとする。思えば、右脚の様子を見るというだけの話だったのに、とんでもないことをしてしまった。イルゼにしてみたら、見るだけと言う約束を破って無理やり触られたのと変わらないだろう。心を閉ざしてしまっても不思議はない。そう思うが、
「わたしに、あんな、あんなことまでしておいて、あんなことまで言っておいて、フラウだなんて、そっちのほうが、ずっと酷いです」
明らかに非難する口調でそんなことを言われ、
「え、あ、はい……」
間抜けのようにそのままの返事をしてしまう。つまり、イルゼは怯えても怒ってもいないのだろうか?
「靴……お願い、しますね? わたし……待ってます、から」
「あ、はい」
口調を変えぬままのイルゼに、やはり間抜けに返事をするほかない。それだけを言うと、イルゼはくるりときびすを返し、旅籠の方へとひょこひょこと去っていった。