エーフェルシュタインの悪魔
ただでさえ、子供を手放すことを喜ぶ親などいるまい。それが、悪魔に狙われているこの街で、呪われた年に、とあっては、なおさらのことである。しかしこれは、避けることのできない運命だったのかもしれない。
どこの街でも、住民が増えすぎた場合の対策として、ふた通りの道がある。すなわち、街を拡張するか。あるいは、街から出ていってもらうか。理由がどうあれ前者が選べない場合、必然的に後者を選ばざるをえない。こういった場合、単純に街から追い出す、つまり物乞いや放浪者など立場の弱いものから順に事実上の追放をすることが多い。だが、ときおり、一部の市民が国や諸侯の支援を受けて、はるか東方の見知らぬ土地へ送り出される場合がある。それは、出資者による領土拡張の一環であり、同時に穏便に人口を減らすための有効な手段でもあった。
彼らの行く先は、まず間違いなく森の只中である。手付かずの森にたどり着いた彼らは、まず、川を探す。水を確保したら最低限の森を切り開き、小屋を作りあげる。それで、とにもかくにも冬を越すのだ。春が来たら、雪をかき分けて森を拓き、畑を作り、ときには原始人さながらに森の木の実や野生の獣を狩り、食料を確保する。そこまでできれば、もう成功したようなものだ。次第に家を増やし、畑を広げ、そして、村を形成する。その村はそのまま彼らのものとなり、同時に出資者の領土となるのだ。
――東方植民を領主が支援する――
その噂が広まれば、次々に後発の植民たちが出発して行く。自分たちで村を作れば、そのまま自分たちが村の管理者となれるのだ。いずれ村が発展して街にまで育った暁には、自分の子や孫が市長や街の重役になるかも知れない。そんな未来への希望を抱いて、東の世界へと旅立ってゆく者は多かった。
つまり、ヴェルフェン家がエーリッヒに提示した案とは、それだった。実のところ、慢性的な人口増加に悩むハーメルン市に対して、今までに何度も打診されてきた案だったという。しかし、悪魔の呪いに怯えるこの街では、それが受け入れられることはなかった。そしてついに「二十四年目」のこの年を迎えてしまったのだ。
よりによって、その二十四年目に飢饉が起きるとは、まさしくエーフェルシュタインの悪魔による呪いとしか思えない。だからこれは、避けることのできない運命だったのかもしれない。
「しかし、だからこそ、今こそ我々はエーフェルシュタインの悪魔に立ち向かわなければならないのだ!」
「我々の勇気をもって、エーフェルシュタインの呪いを終わらせねばならない。でなければ、溢れかえった飢民達によって、この街はつぶれてしまう!」
「これは、戦いなのだ! かつてこの街を支配していたエーフェルシュタインのくびきを今こそ断ち切り、悪魔に身を貶したものどもと永遠に決別するための戦いなのだ!」
ベッカー通りとオスター通りの交差点にあたるニコライ教会の広場にて、エーリッヒは自ら街の住民に説いていた。この話は以前からエーリッヒがヴェルフェン家と交渉を重ね、支援を確約させたことで現実的になったものらしく、今やエーリッヒはこの事業の第一人者だった。
エーリッヒが漏らした言葉によれば、ヴェルフェン家も市参事会も一枚岩というわけではないらしい。こういった大きな事業を成功させることは、ヴェルフェン家の中でもとても大きな功績として注目され、それ故に事業をまるごと横取りするような工作が行われることもあるという。だから、具体的にヴェルフェン家の誰と交渉しているかなどは、ほんの一握りの人間にしか知らされていなかった。うかつに隙を見せると、この事業を横からかっさらって自分の功績に仕立てあげようという輩があらわれることもあるのだという。
普段ものしずかなエーリッヒが珍しく声を張り上げているのには、街の住民を納得させるだけではなく、「この事業は自分が進めているものである」と公の場で宣言する意味もあるのだ。だが、その真意はともかくとして、実際のところ、エーリッヒの訴えることはすべて正しかった。このまま飢饉がはじまり、凍えた飢民が押し寄せたら、彼らはいつ暴徒と化すかわからない。いったん略奪がはじまったら、ハーメルン市にある家という家が形を失うまで、それは止まらないだろう。
そうでなくとも、今までずっと東方植民を拒否し続けたことでハーメルンの人口は増大し過ぎ、それは様々な形で悪影響を見せはじめていた。これが余裕のある時期ならば、人口の増加はむしろ歓迎すべきことだが、しかしザクセン地方では、長い長い、数十年以上にもおよぶ冷害が続いていた。南のアルプスから吹き下ろし、ザクセン地方を舐めていく風が、冷たさを増す一方なのだ。まるで神さまが帝国の戦乱を憂いているかのようだった。当然、ハーメルンの東に広がる広大な穀倉地帯でも農作物の収穫は減り、食料の価格は慢性的に上がり続け、それは住民の財布の紐を堅くしていた。こんな状況下において人口が増え続けるというのは、街そのものが破綻へ向かってゆっくりと行進しているのと、なにも変わらない。
たとえば子供のことをひとつ挙げても、家を継げるのは長男のみと相場は決まっている。次男や三男は婿入り先を探すか、どこかの職人に弟子入りして徒弟になるかして、生きていくための算段をせねばならない。その一方で、働き口は慢性的に厳しい状況である。仕事も帰る家もないものたちはしばしば徒党を組んで、物乞いとも盗賊ともわからぬ危険な輩となって街の治安を脅かしていた。
東方植民は、これらの問題をすべて同時に解決するのだ。帰る家も働き口もない若者は、はるか東方にて農村の創設者となり、自分の家と畑と仕事を手に入れる。苦しい旅と、過酷な労働の末に、彼らはもっとも望んでいるであろう宝物を手に入れるのだ。
そして、東方植民がはじまったと噂が流れれば、ハーメルン市に向かっている飢民たちもまた、食べ物が得られるかどうかも定かではない街に向かうよりも、はるか遠くに自分の土地を持つことを夢見て東へ向かうことになる。ハーメルン市の人口は適正なまでに減少し、餓えたものたちも東へと希望を見出し、あらゆるものごとが綺麗に回るのだ。
それを阻害するたったひとつの問題がこの街のタブー、すなわちエーフェルシュタインの悪魔と、その呪いの噂だったのだ。
しかし、ネオの予想に反してエーリッヒ神父の演説に対する住民の反発は、意外にも少なかった。それはひとえに、エーリッヒの手腕によるところなのだろう。住民が反発することは、もちろんエーリッヒも予想していたのだ。だからこそ、エーリッヒはその反発を和らげるべく、あらかじめ根回しをしていた。そしてそれは、素晴らしく周到なものだった。
まず第一に、ヴェルフェン家はすでに植民先の候補の土地を見つけているという。まったく当てのない放浪の旅というわけではないのだ。
第二に、東方に向かう若者たちを狙うエーフェルシュタインの悪魔に対し、エーリッヒはヴェルフェン家の軍事支援をもって立ち向かうことを公言した。ハーメルン市から東に四日ほどの距離に、ヴェルフェン家の本拠地のひとつ、ハノファーレ市がある。そこまでいけば、あとはブラウンシュヴァイク公国の兵隊が護衛につく手はずを整えていたのだ。
旅の全行程は、まずは二ヶ月といったところか。ブラウンシュヴァイク公国を抜けるころには、ハーメルンからは想像もつかないほどの距離にまで離れていることになる。エーフェルシュタイン家の影響が及ぶ範囲を守り通してしまえば、もはや手を出すこともできまいというわけだ。そして、同時にそれは絶対に道に迷う心配がないということでもある。
引き換えにいくつかの条件があったが、それを差し引いてもこの提案は魅力的なものだった。ブラウンシュヴァイク公国の兵士が護衛に付いての東方植民。それは言ってみれば、少なくとも、盗賊や人さらいに襲われる危険や、道に迷って野垂れ死ぬ危険がまったくない安全な旅を約束されているようなものだ。植民が失敗する最大の要因が最初から排除されている以上、この植民計画は成功を約束されていると言っても過言ではないのだ。
今のところネオには実感が薄いが、そもそもエーフェルシュタインの悪魔などがいようがいまいが関係なく、旅とは危険なものだ。旅の大半を安全に過ごせること。それは、植民を望むものにとってはこれ以上のない破格の待遇といえる。その魅力が、住民の抱える不安を上回っていた。
もちろん、エーフェルシュタインの悪魔は恐ろしい。しかし悪魔の暗躍があるがゆえに、ヴェルフェン家が本腰を入れて守ってくれることになった。むしろエーフェルシュタインの悪魔に感謝の念さえ――もちろん大声では言わないが――覚えるものまであらわれる始末だった。
広場の喧騒を離れて工房へと戻ると、嫌でもくだんの木の札が目に入ってくる。叔父の店がつぶれたことと、突然巻き起こった飢饉と東方植民の話。それらが頭の中をぐるぐると回っていた。
なんといっても、ミンデンから帰ってきたのが昨日なのだ。一ヶ月後にはここを引き払わなければならないという事実が、自分の居場所がなくなってしまうという事実が、まだ実感として感じられない。
東方植民。それに参加すれば、あるいは自分にも居場所が見つかるのだろうか。だが、エーリッヒはそれを勧めることはして来なかった。てっきりそのつもりで話を持ちかけてくるのかと思ったが、そうではなかった。むしろ、その逆のことを言われたのだ。
思わずため息をつくと、まるでそれを見かねたらしく、
「気持ちはわからんでもないですが……、東に向かうなんてのは、とてもお勧めできない次第でして、はい」
いつもの調子で青年が声をかけてきた。
「だいたいですね。ネオさんの腕なら、わざわざ森を切り開くような苦労をする必要はありやせんて。なんならハーメルンでなくとも、どこでもやっていけやさぁね」
「遍歴……ですか? ティルさんみたいに?」
「それもいいですけど、もっと手っ取り早いやり方がありやすぜ。たとえば……今から一ヶ月、頑張れば一〇〇揃いくらいの靴は作れやすよね?」
「……? ええ、たぶん」
突然なにを言いはじめたのかと訝しむネオに、ティルはこともなげに言った。
「それを橋向こうの三叉路で行商人に混じって売りさばけば、少なく見積もっても三グルデンくらいにはなるわけでやして」
「ふうん……。三、グルデ……えっ?」
今、ティルは三グルデンと言ったのか? グルデン銀貨など、ネオは見たこともない。いったいなにをどうしたら靴が銀貨に化けるというのか? またティルの悪戯で、ほら話にでも付き合わされているのではないかと言う気がもたげてくるが、
「そりゃまあ、ツンフトを通さずに売れば、ネオさんの靴なら一足当たり一五プェニヒは下らないでしょうからねえ。橋向こうの三叉路で行商する分にはツンフトは口出しできないし、そもそもネオさんはもうツンフトとは無関係ですからねぇ」
確かに、ツンフトは店同士の競争を避けるために、靴の値段を厳しく定めている。大量生産された質の良くない大きな工房の靴も、ネオがひとつひとつ手間暇かけて作った靴も、まったく同じものとして、同じ値段で店に並べられている。しかし、末端の価格では二つの靴の値段には大きな差が出てくるのだ。そのことは、ハンザの倉庫で最高級品に分類されていた自分の靴が証明していた。しかし、今まで自分の靴の値段なんて考えたこともなかったネオには、いささか刺激の強すぎる話だった。
プェニヒ銅貨とは、日常生活で使われる硬貨の中ではもっとも多く普及しているもので、一プェニヒあれば、パン一個の半分くらいを買える。つまり、ぎりぎり一日分の食料を買えるかどうかといったところだ。そしてこれは一シリング銅貨の一二分の一の価値を持つ。更に、一シリング銅貨は一グルデン銀貨の三〇分の一の価値がある。
ちなみにグルデン銀貨がどれほどのものかというと、たとえば旅籠の主人にグルデン銀貨を一枚握らせれば、ぜいたくさえ言わなければ、ひと冬は温かい部屋と食事を提供してもらえる、それほどのものだ。一応、ネオもこの程度のことは知ってはいるが、なにしろ巻き革を仕入れる際に持たされていた数プェニヒ以外には、ろくに貨幣に触れる機会さえなかったのだ。それが自分に関わる話だという実感すら湧いてこない。
一足が一五プェニヒ。単純に考えて一〇〇足で一五〇〇プェニヒ。計算が追いつかないが、それはグルデン銀貨にすれば三枚になるというのだろうか?
「まあ、革の仕入れと両替屋にふんだくられる分を差っ引いたら、そんなとこでしょうな。……そんで、冬の間は旅籠にでも陣取って靴を作って、暖かい間は行商して回って、三年も貯め込みゃアンタ、親方株にだって手が届いちまうってな寸法でさ」
なんだかティルの話は夢のような現実感のないものだが、しかし、ネオの胸にあった不安は随分と軽くなっていた。
少なくとも、死にはすまい。そんな鷹揚な気持ちが胸の中に宿っていた。たとえティルの話の大半がほらだとしても、受け入れてくれる街を探して旅をしながら、靴を作り続ける自分の姿が垣間見えた気がした。そして、それは決して不幸で惨めな姿ではないように思えた。
「まあ、それはおいといて……。頼まれてたもんですが、これでいいですかい?」
柔らかい革でぐるぐると巻かれたなにかが、ネオの目の前にぬっと突き出された。店をつぶしたティルを許す条件のうちのひとつだ。ティルの持つ、ある道具を貸してもらうことになっていたのだ。これを渡すために、ここでネオを待っていたというわけか。
「ええ。たぶん。まだ使ったことがないので、よくわかってないですが……」
「ま、実際に取り掛かるときには、あっしも手伝わせてもらいやさ。いつでも呼んでおくんなせえ」
「はい」
しかし、ネオの考えを実行に移す前に、避けて通ることのできないことがあった。もう二度と同じ失敗を繰り返さないために、ひとりよがりではなく、きちんとその相手と向き合うのだ。