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ジョングルール ~ハーメルンの笛吹き男~  作者: 凪茶房
第二章 靴屋のネオはミンデンへ向かう
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兆候

「君のことだ、無事に役目を果たしてくれるだろうと思ってはいたが……しかし、随分とまた順調な旅だったようだね。あと三日はかかるものと踏んでいたのだが……君には旅をするものの資質があるのかも知れないな」

 ミンデン市参事会からの返事の手紙を渡した際に、最初に言われた言葉がそれだった。もはやシュタイナウに何度も言われて慣れてはいたものの、改めてエーリッヒにまで言われると、恥ずかしいやら遠慮したいやら、複雑な気持ちになってくる。

「頼んでおきながらなんだが……、いや、実は私も心配しておってな。なんでも、ミンデンに向かう行商に同行してもらえたと聞いておるが……」

 そういえば、エーリッヒもまた、ネオを心配してティルに警護の依頼をしていたという話だった。

「はい。僕ひとりじゃ、絶対に無理でした。神父さまも警護を手配してくださったそうで、ありがとうございました。偶然、ミンデンまで……用事のある人と一緒になって……。親切に助けてもらえたので、どうにか無事に務めを果たせたんです」

「まさしく神の導きか。素晴らしい幸運だ。それこそ、もっとも大切なものだ。大事にするといい」

 あえて行商という言葉を否定しないのは、シュタイナウがそうするよう強く言っていたからだった。人なつこいティルと違い、確かにシュタイナウの風体や態度は、他人の信用を得るのに向いているとはいえない。場合によっては手紙の内容が第三者に渡ってしまったのではないかなどと、あらぬ誤解を招きかねない。とにかく良い印象にはならないから、どんな人間に助けられたかは誤魔化しておけと口酸っぱく言われていた。

 ――しかし、奇妙な話だよな――

 不意に、頭のなかでシュタイナウの言葉がよみがえった。思いがけず、なにかが引っかかった。

「…………?」

 なにかが奇妙だ。しかし、なにが奇妙なのか、自分でもわからない。自分がミンデンに行くことになったこと。シュタイナウが同行してくれたこと。そこで、外の世界で生きていくために必要な知識をたくさん教えてもらったこと。もしも、シュタイナウが同行しなくても、ティルが警護についてくれていたであろうこと。

 なんだろう。奇妙といえば、ジョングルールと出会ってから現在に至るまで、なにからなにまでもが奇妙なめぐり合わせだとは思う。しかし、その奇妙な一連の出来事の中に紛れて、なにかの引っかかりがある。なにかがおかしい。胸の奥で、そんなざわめきを感じていた。

「ふうむ……やはり、ミンデンもか……これは、悪い予想が当たりそうだな」

 エーリッヒのつぶやきが、ネオを現実に引き戻した。そういえば、こちらもこちらで厄介な問題を抱えていると言っていたのだ。だからこそ、ネオがミンデンまで行くことになった。そして、今のハーメルン市において、悪い予感と言われて思い浮かぶことは、およそひとつしかない。

「まさか、噂の……」

 二十四年ごとにこの街で起きるという、子供たちの失踪事件。それに関わる内容だったのだろうか。しかし、それとミンデンと、なんの関係があるのか?

「うむ……まったく関係ないとは言わぬ。だが、そうと決まったわけでもない。……ともあれ、黙って見ているわけにはいかないことになりそうだ」

「なにか、起きるんですか?」

「うむ……。そうだな、君には世話になったからな。話しておいても良かろう。いずれにせよ、すぐにわかってしまうことだ。街の中でも、勘の良い連中は気がつきはじめるころだろう」

「……」

 ごくりと唾を飲みこんで、エーリッヒの話に聞き入った。

「君に頼んだ手紙の内容は、ユダヤ教徒の動きに関することだ」

「ユダヤ教徒……?」

「うむ。毎年、流れ者の中にはある程度紛れていたものだが、今年はいつになく多い。周辺の街はもちろん、ミンデンでもその傾向が強いそうだ。それがなにを意味するかわかるかね?」

「いえ。まったく」

 ネオの持つユダヤ教徒に関する知識は、次のようなものだ。

 おなじ神さまを崇拝しているらしいが、なぜかキリストを信じない奇妙な異教徒。その全員が読み書きを習得しており、算術にも長けている異才のものたち。しかし、その信仰や排他的なゲットー意識によって、どこの街でも煙たがられている。にも関わらず、金持ち。実際、金貸しや両替商といえば、ユダヤ教徒と相場が決まっている。

 一言でいえば「得体の知れぬ裕福な異教徒」だった。

「知っての通り、ユダヤ教徒は多くの街で金貸しを営んでいる。つまり、裕福な者が多いということだ。これは知っているだろう」

「はい」

「その、金貸しで裕福な者たちが、流れ者となって余所の街へと移っていく。何故だと思うね?」

 順当に考えれば、元いた街から逃げ出したと見るべきだろう。では、元いた街で、いったいなにが起きたのか。

「結論から言おう。彼らは領主に財産を没収されたか、されそうになったかで、逃げ出してきたのだ。つまり、各地の大都市において、領主が慌てて金を掻き集める必要に迫られたということだ」

 支配者が困窮した際に、色々な難癖をつけて弱者から財産を巻き上げるのは、いつの世も変わらない。そして、大都市においてその矛先は真っ先に「煙たがられている裕福な異教徒」へと向けられるのだ。そうでなくとも、街の有力者の多くに金を貸しているのだ。彼らを守ろうとするものはまったくおらず、むしろ彼らが追放され、借金がうやむやになることを喜ぶもののほうが圧倒的に多いだろう。そうした弾圧を受けて、あるいは弾圧の気配を感じて、ユダヤ教徒は借金の取り立てを諦めて他の街へと流れていくのだ。

 では、領主がユダヤ教徒を弾圧する――つまり、急いでお金を、それも大量に必要とする出来事とは、いったいなにか?

「まさか……戦争でも起きるんでしょうか?」

「それもあるかも知れん。が、それならばユダヤ教徒よりも先に、我々に知らせが届いているはずだ。どの都市がどの陣営に付くかは、極めて重要な問題だからな」

「だとしたら……」

「飢饉、だよ」

 まったく予想していなかったその言葉が、ネオの耳に突き刺さった。

 飢饉。つまり、悪天候による作物の不作や戦争による農地の荒廃によって、確保できて当たり前のはずの食料が、確保できなくなる。それは、小さな村などあっという間に滅ぼしてしまい、大きな街でさえも死人で溢れかえる、およそ考えられる中でも最悪の天変地異と言える。

「それも、ここしばらくなかった、かなりひどい飢饉だ。領主たちはその兆候を目ざとく察して、穀物や食料を買い占めに走っているのだ。そして、そのための資金が目当てで、口実を設けてユダヤ教徒を弾圧しているのだろう」

「…………」

 彼らの姿が目立つのは世の中が乱れる凶兆であると、そんな占いじみた話も囁かれている。そこには、そんな裏付けがあったのだと、はじめて知った。確かに、事情をなにも知らぬ人間の目で見れば、ユダヤ教徒が戦争や飢饉を運んでくるようにしか見えない。彼らがどこに行っても煙たがられるのは、独特な信仰やゲットー意識だけではなく、こういった事情が背景にあったのだ。

「恐らくこのままでは、今年の暮れか、来年のはじめあたりか……大変な状況になるだろうな」

「食べ物が足りなくなるんですか?」

「うむ。まあ、簡単にいえば、そうだな。一応、帝国の法ではこういった買い占めは禁止されているのだが……」

 その神聖ローマ帝国が、まともに機能していないのだ。取り締まるものがいないとなれば、法律などなんの意味も持たない。エーリッヒが「今回の用件は過去の諍いよりも重要なもの」と言っていたのは、これのことだったのだ。

 食べ物が足りなくなる。なんだかんだ言って、ネオは空腹になればクーヘンをかじることができた。他にも、残飯と変わらぬ酷いものではあったが、毎日のパンとスープも一応は与えられていた。多少の空腹は知っていても、生きるか死ぬかというほどの飢餓感を味わった経験はなかった。それを想像するだけでも、薄ら寒くなる気がする。が、どういうわけか、ネオの中にはあまり切迫した気持ちは生まれていなかった。どうしてだろう? 大変なことを聞いたはずなのに、どうにも焦りが湧いてこない。

「そういえば、ネオ君。店が大変なことになっているようだね」

 そうだった。ネオにとっては、来年の飢饉よりもはるかに差し迫った問題があったのだ。このままでは飢饉まで生き延びられるかさえも怪しい。だが、それこそ慌てふためいてどうにかなる問題ではないのだ。

 落ち着き払って答えた。わずかだが笑みさえ浮かんでいた。

「仕方ないですよ。叔父はそれだけのことをしてきたんです。むしろ、色々と嫌なしがらみがなくなって、すっきりした気分です」

 実際、そうだった。これまでどおり叔父の徒弟という立場のまま飢饉を迎えたところで、酷い状況がより酷くなるというだけの話だ。食べ物の値段が上がったらパンとスープはおろか、本当に残飯すら貰えなくなるだろう。状況は農家のおばさんも同じだ。差し入れのクーヘンも期待はできまい。そうなれば、腹ぺこになった自分ははますます叔父への暗い感情を更に膨らませて、恨みつらみの中で鬱々とした人生を送ることになっていたろう。それを考えれば、そんな事態になる前に嫌なしがらみをすっぱりと断ち切れたことに、晴れ晴れとしたものさえ感じていた。

「力になれなくてすまぬな。なんとかしてやりたかったが、むしろ我々は裁縫職人の訴えを聞かねばならぬ立場なのでな。……しかし、君は大したものだ。よほど有意義な旅をしてきたと見える。正直、女の子を泣かせて逃げ込んできたときとは別人のようだ」

 エーリッヒの悪戯めいた言葉に、カッと顔が熱くなった。

「そ、そのことは言わないでください。忘れてください。もう、迷いませんから。きちんと、やるべきことを見つけましたから」

「いやはや、まったく頼もしいものだ。……では、今いちど聞いて見ようか」

 唐突に、エーリッヒはネオの目を覗きこんだ。少しだけ悪戯めいた笑みを浮かべて、

「街の外は、どうかね?」

「…………っ!」

 その言葉にどきりとした。以前も問われたこの質問。以前のこれは、ミンデンへの旅をネオに頼むための、いわば伏線だったのだ。つまり、再びエーリッヒはなにかをネオに持ちかけようとしているのか? しかし、その懸念以上に、ネオは自分の胸の中の変化を感じていた。それを、エーリッヒに伝えたいという欲求がまさった。

「もちろん、怖いですよ」

 表情を変えもせず、僅かに微笑んだまま、つとめて穏やかに言った。

「でも、怖さとの向き合い方は、覚えました。人狼や水妖(ニクセ)や狩魔王とも、どうやって付き合えば良いのか教えてもらいました。……今でも畏れてはいますが、ただ恐れるばかりじゃありません」

 頼もしそうに白鬚の中で微笑んで聞いていたエーリッヒだが、

「では、悪魔も恐れないかね?」

「……え?」

 唐突に尋ねられたその言葉に、ネオの思考が停まった。エーリッヒ神父は、今度はなにを言いだしたのだろうか? まさか、次は悪魔退治をしろなどと言ってくるつもりなのか?

 しかし、エーリッヒの話はさっきの話題に戻った。まさか、飢饉の話と悪魔の話が関係してくるとは、夢にも思わなかった。

「……実際のところ、飢饉の問題は深刻だ。食料の買い占めにともない、その価格も跳ね上がるだろう。だが、それだけではない。この街は元々が穀倉地帯の真ん中だからな。想像を絶する数の飢えた民が押し寄せるだろう。……もちろん、この街にそれを支えられるだけの蓄えがあるはずがないのは、わかるな?」

 ハーメルンはその名の通り水車(ハーメレ)の街だ。と言うことは、水車で回す石臼の街でもあり、その石臼で挽く小麦の街でもある。名前からしてパンの香りが漂ってきそうな街なのだ。飢えた難民がこぞってやってくるのは、ごく自然な話といえよう。

 しかし、だからと言って、ハーメルンの街が小麦で溢れかえっているわけでも、食べ物が無限に湧いてくるわけでもない。そもそも、ハーメルンの周囲にある農村は、そのほとんどが付近の城に住む騎士や王侯貴族の所領だ。クーヘンをご馳走してくれるおばさんのように、ハーメルン市内に居を構えて昼間だけ農村を監督するような豪農は、ほんのひと握りなのだ。

 穀倉地帯だから食べ物も潤っている、などと言う単純な話では、決してない。しかし、飢えてなかば理性を失ったものたちが、そんなことを気にかけるはずもまた、ないのだ。あそこにいけば小麦がある。あそこに行けば飢えはすまい。なにしろ水車(ハーメレ)の街なのだから。そんな甘い考えで押し寄せた難民でハーメルンの街が溢れかえることは想像に難くなかった。

 そして、それでもやはり食べ物がなかったら、なにが起きるのか。

「現在、ハーメルン市の住民がどのくらいの数か、考えたことはあるかね?」

「いえ」

「近年増え続ける傾向だそうだが……今年の四旬節〔春祭り〕の時点では、二千五百人ほどだそうだ。そして、周囲の農村には、そのおよそ数倍以上の農民や農奴が住んでいる。彼らが自らの蓄えを食いつくしたら、施しを求めてこの街にやってくるだろう。更に余所からは、同じかそれ以上の飢民が流れてくる。両者を合わせると、軽く見積もって三万人と言ったところか」

「……っ!」

 三万人。もはや想像もつかない。広場という広場に、道という道に飢えた難民がひしめいて、それでも収まりきらないのではないだろうか。そして、年のはじめとなれば、体の芯まで凍りつくほどの厳冬の最中である。飢えて、凍えて、理性を失ったものたちが、三万人。彼らの目には映るものは、十倍以上に釣り上がった――もちろん、すべて売り切れているであろう――パンの値札と、家の中で暖かく過ごす――もちろん、実際にそうであるかは問題ではない――ハーメルン市民たちの窓に映った影である。

 なにかのきっかけで、飢民たちに一度でも火がついてしまったら、押さえ込めるものはどこにもいない。ハーメルン市など、あっという間に瓦礫の山になってしまうのは間違いなかった。

 改めて、背筋がぞっとした。飢饉とは、単に食べ物がなくなってお腹が減るというだけの話ではなかった。それは、街の存亡に直接関わってくる、恐るべき事態なのだ。

「ネオ君にミンデンに行ってもらっている間に、私は私でこの事態に対処すべく、本国のヴェルフェン家に打診していた。……本国からの返事は、ひとつの提案だ」

 ごくりと唾を飲んだ。エーリッヒの受けた提案とは。もちろん、ヴェルフェン家の本国たるブラウンシュヴァイク公国ともなれば、今までに幾度も飢饉を乗り越えてきたのだろう。いったい、どうすればいいのだろうか。

「それが上手く行けば、この危機を未然に防ぐことができるかも知れぬ。だが、提案されたことは、極めて難しい話でもあるのだ。……この年、この街においては、特にだ」

 この年。この街。それは、ひとつの事実を物語っていた。それだけで、それがなにを意味しているのかわかってしまった。その提案とは、きっとこの街のタブーに触れているのだ。だからこそ、難しいのだ。しかし、そのタブーに触れる提案とはいったいどんなものなのか? 疑問を湛えた表情を向けるネオに、エーリッヒはゆっくりと言った。

「植民だよ。はるか東方へのな」

「東方、植民……」

 それが、この年、この街において、難しい理由。それは、

「この街は、呪われているのだ。……忌まわしい、エーフェルシュタインの悪魔に、な」


 この街では、二十四年に一度、子供たちがいなくなる。

 それは、この街でささやかれる、ひとつの噂だった。

「君には世話になったからな、話しておいても良かろう。二十四年前、そして、四十八年前。この街でなにが起きたのかを」


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