交換条件
それは、本当だった。
ネオが懐かしい工房に戻ると、そこには木の札がぶら下がっていた。いわく、ツンフト規約に違反したかどにより叔父の店に多額の罰金が課せられたそうだ。それを払えない叔父は親方株を売り払う羽目になり、その日限りで職を失ったらしい。そして、職人組合より貸与されていたネオの工房は、一ヶ月以内に引き払うようにと通達されていた。即時の退去を求められないのは、市参事会の用事で旅に出ていたネオへの、せめてもの温情とも言える措置なのだろう。
今度こそ、呆然とした。旅から無事に帰ってきたのは良いものの、今度はネオは家を失うことになってしまったのだ。
「ネオさん、ごめんなさい……。私が止めてれば……」
ネオの傍らでは、まるで全部自分の責任だと言わんばかりに、申し訳なさそうな様子のイルゼがしょげかえっていた。アマラがそれをたしなめる。
「だからイルゼ、あんたの責任じゃないっての。全部あの馬鹿がやったことなんだから、」
「ええホント、返す言葉もございやせん。まったくもってその通り、イルゼ嬢が謝る筋合いは、これっぽっちもないわけでして、はい」
いつの間にか、この結果を作り出した張本人が、悪びれもせずにヘラヘラしながら背後に立っていた。
「…………」
怒るべきか。それとも、なにをしたのかと問いただすべきか。そういえば、相談したいことがあったはずなのだが、それどころではなくなってしまった。頭の中がめまぐるしく回り、結局ティルのほうが聞かれもしないうちに弁解をはじめた。
「いやね、ネオさんがいない間、靴職人が足りないってんで、これ幸いとばかりにあっしが滑り込んだんでさ。……それにしても、本当にいけすかない親父でやしたねえ。態度ばっかり偉そうで、腕の方はからっきし。人に仕事させといて、自分は昼間っからぶらぶらしてやがる。職人の風上にもおけねえやい」
「……それは、まあ、そうですけど」
「んでね、あっしは親方の言うとおりにしてるのに、いちいち文句をつけやがるんで。しまいには、革靴はもういいから、クチバシ靴を市場で売ってこいとか抜かしやがってね。でも、靴なんてどこにもねえでやんの。あるのは妙ちくりんな靴下ばっかりでさ」
確かに、叔父の作るクチバシ靴はすべて布製で、しかもブーツのように長いため、知らぬ人が見れば奇妙な靴下に見えるかも知れない。しかし、遍歴職人のティルがそれを知らぬはずがなかろう。明らかに、わかっていてわざと言っているのだ。
「そんなだから、あっしは市場でおおいに売りまくってやったんでさ。『あったかい靴下はいらんかね~! 夏が近いとはいえ、まだまだ夜は冷えるよ~!』ってね。いやあ、売れたこと売れたこと。親父もホクホクしてやがったんですがね、その日の夜に裁縫職人の親方が怒鳴りこんできたんでさ。……ま、そこらへんで、あっしはおいとましたわけでやすが、二、三日も経ったころには、ご覧の有様でして」
ああ、やっぱりそうなったか。そうでなくとも、叔父の店はネオが作る革靴によって、かろうじて靴屋としての体裁を保っていたのだ。今までは布製の靴と一緒にネオの作る革製の靴が並んでいたために、かろうじて大目に見られていたのだ。そのネオが旅に出て、革靴の在庫もなくなり、いよいよ店先には布製の靴しか並んでいないとなれば、裁縫職人のツンフトもこれ以上は黙って見ているわけにはいかなくなるのは当然というものだ。
しかし、それにしても、随分と手際が良いというか、あっさりとつぶれたものである。普通は、こういった揉めごとが起きたときには、土曜日に聖ボニファティウス律院で催される裁判を待ち、そこで判決が下されるのだ。これではまるで、
「なんでも、以前から裁縫屋を差し置いて布の靴ばかり作ってるってぇことで、律院には苦情が重なってたとか……。普通ならとっくにつぶれてるところを、ずっとお目こぼしされてたっぽいですなぁ」
なるほど、事情はすべて理解できた。土曜日の裁判など待つまでもなく、結果は最初から決まっていたというわけか。
それにしても、街の子供たちがネオを呼ぶ「こびとさん」という愛称ひとつでネオの技量やその待遇をすべて正確に見抜いていたティルである。この結果が予想できないはずがない。つまりティルは、布製のクチバシ靴しか作ることのできないネオの叔父をおちょくった挙句に、以前から火種となっていた裁縫職人の領分へと踏み込んで見せて、わざわざ揉めごとを巻き起こしたのだ。それが、ティルの仕出かした「悪戯」ということか。
とはいえ、仮にティルがここまでの騒ぎを起こさなかったとしても、遅かれ早かれ同じ揉めごとが起きていただろう。ティルは、起こるべくして起こる結果に、ほんの少し後押ししただけにすぎない。というのも、ツンフトの規約は厳しいからだ。
そもそも職人組合とは、昔から街で営んでいる職人たちがお互いの利益を保護しあう目的で結成する組合だ。もしも叔父のやっていたことが許されるのであれば、その反対のことも――つまり裁縫職人が「革製の靴下」を作って売りさばくことも――許されることになる。そうなれば、誰も彼もが好きなものを作って売るようになって、職業間の秩序などあっという間に崩壊する。余所から流れてきた遍歴職人など、これ幸いとばかりに勝手に店を開いて居座ってしまうだろう。こういった事態を避けるためにこそ、それぞれの職業ごとにツンフトは存在しているのだ。恐らく、叔父の件は律院から何度も警告を受けており、ツンフトも頭を痛めていたというのが実情なのだろう。そこへもってきての、この騒ぎだった。
ツンフトは職人を手厚く守る代わりに、規約違反した職人への罰則は厳しい。たとえば、ネオが勝手に服を作って売りさばいた場合、一着につき九シリングという、ネオにとってはとんでもない金額の罰金を課される。うちの三シリングはツンフトへ、三シリングは仲裁役となる聖ボニファティウス律院へ、そして最後の三シリングは相手側のツンフトへの賠償にあてられるという。
いったい、ネオの叔父は靴下にしか見えない布製の靴を、これまでに何百足売りさばいたのだろうか。叔父の課された罰金がどれほどになったのか、想像すら及ばない。ともかく、叔父は罰金を支払うために、かつてネオから巻き上げた親方株を売り払うことを余儀なくされ、無一文となった上に息子ともども職も失った。遍歴しようにも、贅沢に馴染んででっぷりと太った叔父にはその体力も根性も、そもそも靴職人としての技術すらなく、要するに、親子揃って物乞いとなってしまった。そして当たり前だが、親方を失ったネオも、もはやツンフトの一員ではない。おそらくエーリッヒ神父のはからいによるものであろう一ヶ月の猶予があるとはいえ、いずれはこの工房を引き払わなければならないのだ。
イルゼが必死に謝ろうとしていたのは、これだった。ティルが市場で靴下を売りさばいているのを、止めるべきだったと自らを責めているのだ。もちろん、イルゼのせいではない。遍歴職人のティルとは違い、イルゼにはツンフトの規約やしきたりなど、知るよしもないのだ。ティルが靴下と称して布の靴を売りさばいた結果なにが起きるか、イルゼに予想できるはずがなかった。にも関わらず、ネオに合わせる顔がないというほどに責任を感じてしまっていたのだ。
一方、ネオにとって絶望的な状況を作りだした張本人は、相変わらずカラカラと笑っている。怒りは、ないでもない。しかしそれは、店をつぶされたことに対してではなかった。それどころか、慌てふためく叔父親子の姿が脳裏をちらつき、それを怒りとして形にすることがどうにも難しかった。なによりも、当のティルはまったく悪びれずに、ぺらぺらとしゃべり続けているのだ。
「いやまあ、親方の怒ること怒ること。給金も取りっぱぐれちまいやして、結局ただ働きでさぁ。……はあ、やれやれ。あっしはいつだって言われた通りにしてるのに、どうして感謝されないんでしょうかねぇ」
その言い草に、ついに、ぶふっと吹き出してしまった。この青年は、行く先々で気に入らない親方にぶつかっては、こんな馬鹿騒ぎを巻き起こして店をつぶしているのか。とんでもない悪党だ。しかし、喉の奥からくつくつと湧き上がるものは、怒りではなかった。この大馬鹿者が仕出かした悪戯と、その結果の爽快さに、たまらない笑いがこみ上げてきた。
「てぃ、ティルさん……あんた……貴方って人は、まったく、なんてことを、なんてことを……っくく、あははっ」
ここ何年にも渡る叔父への恨みつらみが、父親の親方株を奪い取られてしまった悔しさが、そして自分の運命に対する鬱屈した黒いもやもやが、ティルによってすべて吹き飛ばされてしまった。
叔父親子に対する仄暗い感情は、樽の底に貯まる澱のように、歳を重ねるごとにずっしりとのしかかっていた。いつの日か自分の人生を取り戻すために、叔父かその息子か、あるいはその両方とドロドロした争いを繰り広げることになるのではないかという予感があった。自分はそのために人生の多くの時間を浪費しなければならないのだと、あきらめにも似た覚悟があった。
それが、つむじ風のようにあらわれた大馬鹿者の青年に、いとも簡単に吹き飛ばされてしまったのだ。それも、面白おかしく叔父親子をおちょくった挙句に、だ。馬鹿みたいだった。叔父に対する悪い感情も、自分の人生に対する憂鬱な重さも、そんなものに付き合って人生を消耗するのが、とんでもなくくだらないことに思えた。いつしか、馬鹿みたいに笑っていた。涙が出るほどに苦しくて、お腹が痛くて手で押さえるほどに笑いが止まらなかった。
「あ、あの……、ネオさん?」
心配そうに声をかけてくるのは、この状況を心底悲しんでいた優しい少女である。もしかしたら、突然家を失ったことで気がふれてしまったと思われたかもしれない。
「あ、いや、イルゼさん。……だいじょうぶ。大丈夫だから。きっと、なんとかなるよ。うん。だから、心配しないで」
笑い涙を拭いながらも、そうすんなりと言い切れるのには、もちろんこの一週間の旅の経験がある。世界は、この小さな街の中だけではないのだと知った今だからこそ、この状況を笑い飛ばすことができていた。
もちろん、だからといって、一応のけじめを付けないわけにはいかない。なにしろ、イルゼはこの件ですっかり打ちひしがれて、まいってしまっているのだ。ティルに言うべき文句があるとすれば、このことだ。ただでさえネオの靴の件で思い悩んでいたイルゼに、余計な自責の念を与えてしまった。これついてのみ、代償を求めたい。
今ならば、イルゼの気持ちは痛いほどに理解できる。イルゼはネオのプレゼントした靴を、ネオが考える以上に喜んでくれていたのだ。いや、この心優しい少女は、ネオの贈り物を見て、ネオがなにを考えていたのか、なにをどう勘違いしてイルゼに靴を贈ったのか、即座に考え至ったに違いない。そのネオの心をこそ、喜んで受け取ってくれていたのだ。そして、それを使うべき脚がないという己のふがいなさを責め、ネオがシュタイナウに殴られたのも、逃げ出してしまったのも、そしてミンデンまでの旅に出てしまったのも、すべて自分のせいだと考えていたのだ。それでも、残った左脚にそれをはいてネオを出迎え、感謝の念をこめて「おかえりなさい」の言葉を言おうとしていた。きっと彼女は、精一杯の笑顔で出迎えようとしていたに違いない。
しかし、ジョングルールの仲間である青年が、あろうことかネオが帰って来るべき店をつぶしてしまったのだ。
――恩を仇で返してしまった――
これが、彼女の正直な気持ちだったろう。なぜならば、イルゼとはそういう少女だからだ。そんな彼女の心に報いなければならない。彼女がネオのために心を痛めてくれたことに、全力で応えなければならない。そんな思いで、どうにか真顔を取り繕った。
「ティルさん。貴方のせいで、僕は一ヶ月後には宿なしです」
「いやー、まことにすまんこってす。いやはや、このとおりでして」
いったい、それのどこがすまなそうな態度だと、再び吹き出しそうになるが、それを飲み込んで、どうにか真面目顔を取り繕う。
「まったく、簡単に許せることじゃありませんよ。……そこで、この件を許すのに条件があるんですが」
「ほほう、面白そうだ。聞きやしょう」
ネオの調子からなにか企みごとがあることを悟った様子のティルは、さも面白げに首を突きだして、むしろ積極的に聞いてきた。
「その前に確認したいんですが……ティルさん、貴方は遍歴職人として、色々な仕事をこなせるとか」
「もちろんでさ。……ま、大半はもぐりですがね。でも大概のこた、やって見せやすぜ?」
ならば、話は早い。こういった状況になり、ティルに貸しを作ることができたのは都合が良いとさえ言えた。
「条件は二つです。ひとつは、ティルさんの仕事道具を貸して欲しいんですけど」
「あっしが持ってるものなら、なんでも」
「もうひとつは……あるものを作るのを、手伝ってください。僕ひとりじゃ、いきなり上手くはできないと思うので」
「そんなんでいいんですかい?」
確かに、家を失った代償としてはささやかな条件に思える。しかしこの際、家の件についてティルに対して思うことはなかった。そもそも、靴職人を自称しているくせに、最後まで革に指一本触れようとしなかった叔父親子が一番悪いのだ。いつかこんな日が来ることは、避けられなかったのだろう。それを、暗然とした後味の悪い形ではなく、スカッとするほど面白おかしい形でもたらしたティルには、感謝の念さえ禁じ得ない。
唯一、ネオがティルに対して感じた怒りは、イルゼに心を痛めさせたことだった。だから、このティルに対する貸しは、自分のためではなく、イルゼのためにこそ返してもらいたい。つまり、ティルに示した条件とは、そのことなのだ。