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ジョングルール ~ハーメルンの笛吹き男~  作者: 凪茶房
第二章 靴屋のネオはミンデンへ向かう
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帰還

 朝になると、シュタイナウは昨日ネオに話したことなど冗談だったとでも言わんばかりに、なにごともなさげにいつもの調子で接してきた。ネオにしても、昨日の言葉の真偽に興味がないわけではないが、とても軽々しく聞ける話ではない。なによりも、それ以上に心を奪う事実があった。つまり、ハーメルンの街がいよいよ近づいてきたのだ。

「おいおい、そんなに急がなくってもハーメルンは逃げやしねえよ」

 苦笑混じりのそんな声が背後から聞こえるが、ネオの脚ははやるばかりである。なにしろ、ついさっき、懐かしい鐘の音が聞こえてきたのだ。

 この道を反対に向かって歩いたのは、もう一週間も前になるのか。あのときには、ほとんど決死の覚悟を決めて、文字通り暗闇の中を手探りで歩むかのような気分で歩いていた。しかし結局、なにひとつトラブルに巻き込まれることもなく、シュタイナウの言葉によれば「ありえないほどの幸運に恵まれて」帰ってきたわけだが、それでもハーメルンの鐘の音を聞いたら底知れぬほどの安堵感と安心感が身体を満たし、一刻も早く壁の内側へと入りたいという衝動が湧き上がってきたのだ。

 そして、ついに、ヴェーゼル川の中洲にずらりと並ぶ水車小屋と、その向こうに大きな橋が見えてきた。こうして他の街を見てきたあとでは、なぜこの街が「ハーメルン」なのか良くわかる。他の街では水車は三つか四つ程度だったが、ハーメルンの水車は軽く数えても十以上あるのだ。まさしくハーメレ(水車)の街と呼ぶにふさわしい。なによりも、他の街には水車や石臼を作る職人の姿がまったく見られなかった。ハーメルンでは当たり前の風景だが、余所者の目から見たら、それ自体がすでに異様な風景なのだ。もしも別の街でハーメルンを説明するとしたら、「水車(ハーメレ)の街」以外の言葉はいらないだろう。

 北門へ近づいていくと、いつかシュタイナウが待ち伏せしているのと同じ場所に誰かが立っているのが見えた。なにか胸に抱えているようだが、買い物か何かだろうか? しかし、ハーメルンの北門はリンテルンやミンデン方面の街道への出口だ。買い物にいく用事があるとは思えない。そんなことを考えながら歩いているうちに、それが知った顔だということに気づいた。なるほど、旅慣れた彼らには、シュタイナウが帰ってくる日がわかっていたのだ。それで、出迎えに来ていたのだ。

 そろそろ声も届く距離になり、遠目にもその顔がはっきりと見て取れた。向こうもとっくにこちらに気づいており、しかし、ネオと目が合った途端におろおろと落ち着きをなくし、あたふたと街の中へと入ってしまう。

「なんでえ。出迎えじゃねえのかよ」

 シュタイナウが頭をボリボリとかきながら悪態をついた先から、再び動きがあった。たった今、あわてて門の中へと消えた少女が、別の女性にぐいぐいと背中を押されて、再び門の外へと出てきたのだ。否応なしに歩かされ、道の真ん中でネオを認めたその顔は、すでに真っ赤に染まりきっていた。

 なんとなく。ネオの脳裏に、実は自分はとんでもない思い違いをしていたのではないかという予感が走った。自分は、イルゼをひどく傷つけてしまった。考えうる限り最悪の方法で、その尊厳を粉々に粉砕してしまった。どんなに恨まれても仕方のないことだと思っていた。だからこそ、イルゼに謝る言葉を探すために旅に出たのだ。

 しかし、近づきつつあるイルゼの顔は、次第にはっきりと見て取れるようになるが、そこに浮かんでいる表情には恨みや怒りなどの感情はひとかけらも見受けられない。

 いよいよ、声が届く距離にまで近づいた。イルゼの顔は依然として真っ赤に染まったままで、ネオと目を合わせられないと言わんばかりにうつむいてしまっている。そこに、イルゼを背後から強引に押し立てていたアマラが声をかけた。

「ほら、帰ってきたよ? 決めたんでしょ? きちんと言うって」

「でも、でも、あんなことになったあとじゃ」

「あんたは関係ないんだから、そんなことは放っときゃいいの。ほら!」

 なおも渋る少女に、アマラは乱暴にも背中をドンと押した。よろめきながらネオの前に押し出されてしまうイルゼ。

「道の真ん中で、なにやってんだ、おめーら」

 呆れた様子でぼやくシュタイナウをものともせず、イルゼはネオのほうを向いて、変わらぬたどたどしい口調で喋りかけていた。

「あ、あ、あの、あのあの、ねねネオさん、私、その、なんて言えばいいのか、」

「そうじゃないでしょ。帰ってきた人にいう言葉は、ひとつしかないでしょうが!」

 アマラに促されてようやく我に返ったのか、イルゼはすうっと深く息を吸い込み、そして、ゆっくりと顔を上げた。真っ赤になった顔を一生懸命にネオの方に向けて、そして、真剣そのものの顔で言った。

「お、おかえりなさい。……ネオさん」

「イルゼ、さん。帰りを……待っててくれたんだ」

「……は……はい……ご迷惑、だったでしょうか……」

 まさか。迷惑だなんて、とんでもない。それどころか、自分は。言葉が矢継ぎ早に浮かぶが、どれも口から出てこない。予想外の出来事にぐるぐると頭が回り、どの言葉を選べばいいのか見当もつかない。なにも言えずに呆然とするネオの代わりに、アマラがたたみ込んでいた。

「迷惑なわけないでしょうが。毎日、朝いちばんにここに来て旅の安全をお祈りしてたくせに、今更なに言ってんだか」

 お祈り。毎日。いったい、なにを。決まってる。旅の安全をだ。誰の? もちろん、シュタイナウに決まってる。しかし、顔を真っ赤に染めたイルゼが話しかけているのは、退屈そうに頭をボリボリかきながらやり取りを見物しているシュタイナウではなく、目の前にいるネオである。突然、シュタイナウの言葉が胸に蘇った。

 ――お前さん、運がいいな。案外、外の世界を歩くのに向いてるかも知れねえぞ――

 運がいい。実際に、そう思いかけていた。だが、とんでもない思い違いだった。別に、ネオの運が良いわけではなかったのだ。

 頭が真っ白になりかけるところに、更にアマラが追い打ちをかけた。

「それだって、一日中手放さないで、ベッドの中でも抱いて寝ちゃうくらいに大切にしてたじゃない。誰のことを思ってかは知らないけどねー」

 アマラの声に誘われ、イルゼが抱えているものを見た。それは、ネオの贈った靴の片方だった。もう片方は? 考えるまでもない。さっきから、スカートの裾からちらりと覗いている。健康な左足ではきちんと使ってくれていたのだ。

 そして、今のアマラの言葉を裏付けるように、ただでさえ赤くなっていたイルゼの顔が、うなじから頭のてっぺんまで見事に染まった。

「あ、あまま、アマラさんっ! そんなわたし、わたしは、そんなことっ!」

「へえ? 違うんだ?」

「ち、ちが……わない、ですけど……でも、でも、こんな、目の前で……っ!」

 それだけで、イルゼがこの一週間なにを思って過ごしていたのか、すべて理解できた。彼女は、ただただひたすらに、一心に、ネオの旅の無事を祈っていたのだ。

 ――よほど頑丈な男でも、旅に出た最初の晩ってのは、夢魔に取り憑かれて熱出して寝こむもんだ――

 ――テメエこの野郎、結局、なにひとつ起きないまま一週間経ちやがって! 人狼どころか、盗賊の気配すらねえ。雨のひとつさえ降りゃしねえ!――

 守られていた。もちろん、ネオの幸運も多少はあったろう。しかし、そんなものだけでは決して及ばぬ、強力で温かいなにかに守られていたのだ。

 最初の晩。確かに、あの夜は身体が熱っぽかった。まめがつぶれた感触が痛みの代わりに熱となって、足の裏から膝へ、そして全身へと昇ってくるのを感じていた。しかし、それ以上のことにはならなかった。むしろ、じんじんとした痺れをともなった熱は心地よくネオを包み込み、なにも考えずに眠るのを手伝っていた。

 本当に、包まれていた。ネオの贈った靴を眠るときにもしかと胸に抱き、彼女はその心で確かにネオを包んでいたのだ。これほど強力な加護は、他に考えられなかった。これほど強く思われているのに、ネオが健康を害したり、旅の途中で盗賊や人外に襲われるなど、起きるはずがなかった。

「あ……」

 よろりと、力が抜けた。今、この瞬間、旅のすべてが報われた気がした。心のつっかえがひとつ外れてしまったらしく、がくりと膝を付いていた。不覚にも、涙が溢れていた。

「イルゼ……さん。ぼくは、ぼくは……貴方に、」

 そんな様子にイルゼは顔を真っ赤に染めたままながらも、ネオの言葉に必死に応えようとしていた。

「い、いいえ。あ、あやまるのは、私のほうです。せっかく、貴方が素敵な靴を作ってくれたのに、私は、私の脚は、こんなだから……」

 なんとなく。思い違いの根本的な部分が見えた気がした。

 つまり、イルゼとは、こういう少女なのだ。旅に出た最初の日、シュタイナウが言っていた意味深な言葉が、今更ながら頭をよぎった。

 ――ふん、その分じゃ、ちっともわかってねえんだろうな――

 本当に、ちっともわかっていなかった。あのとき、靴をプレゼントされたイルゼは、確かに傷ついた様子だった。しかし、それはネオに侮辱されたと思ったがゆえのものではなかったのだ。イルゼはネオにではなく、ネオに贈られたプレゼントをきちんと使うことのできない我が身にこそ、心を痛めていたのだ。あの涙は恥辱と悲しみの涙ではなく、ネオの好意をきちんと受け止められない自分自身を責める涙だったのだ。つまり、イルゼとは、そう考えてしまう少女なのだ。

 その考えに至り、溢れる涙をぐいと拭った。奥歯をギュッと噛み締めた。今度こそ。今度こそ、間違えない。同じことを繰り返さない。ひとりよがりではなく、イルゼと正面から向き合わなければならない。その決心を体であらわそうとばかりに、実際にイルゼと正面から向き合った。そして、震えそうになる声を奥歯で押さえ込んで、言った。

「イルゼさん、お願いがあります」

「……あ、え、は、はい……なんでしょう」

 胸に抱えた靴をひときわ強くギュッと抱きしめるイルゼ。その横で、シュタイナウがじろりと睨みつけてくるのを感じた。またイルゼを傷つける真似をしたら、すかさずぶん殴られるのだろう。しかし、恐怖はなかった。もしも、この選択が間違いだというのなら、好きなだけぶん殴ればいい。そんな勢いさえ込めて、言った。

「貴方の靴を……もう一度作らせてください。その、貴方だけの、右足の靴を……。そのために、貴方の脚を、きちんと見せて欲しいんだ」

「…………っ」

「あら、ま。大胆だこと」

 息を呑むイルゼの後ろ、アマラが驚きの声を上げた。

 確かに大胆ではある。イルゼの右脚がどのあたりで失われているのかは定かではないが、女性に素足を、場合によっては太ももまでまくって見せろと迫っているのだ。まともに考えれば、夫婦でもなければ、決して異性に見せることのないものである。しかし、自分の大胆さにも怯まない。シュタイナウも、とりあえずは殴りかかってくる様子はなかった。そして、当のイルゼは。

「…………」

 沈黙が痛い。ネオだけでなく、アマラやシュタイナウでさえも、固唾を飲んでイルゼの返事に耳を傾けていた。ロバのアレクサンデルだけが退屈そうに地面をがしがしと蹴っていた。

 そして、イルゼはただでさえ真っ赤に染まった顔を、これ以上ないくらいに真っ赤に染め上げ、長い長い沈黙の末に、

「……は、い」

 たどたどしく、しかしはっきりと答えた。その言葉を聞き、ネオは自分の旅が終わったのだと、今はじめて実感した。自分はきちんと帰ってこれたのだと。ハーメルンの街に、イルゼの元に、帰ってこれたのだと実感した。


「……で、アマラ。こいつがさっき逃げ出そうとしたのは、なんだったんだ?」

「ああ、そのことね。まあ、照れもあったんだろうけど、それよりも、」

 アマラが説明をはじめたところに、我に返ったようにイルゼが押しのけた。

「そ、そうです。ネオさん、たいへん、大変なんです。ごめんなさい、わたし、私、止めなきゃいけなかったのに! まさか、まさか、あんなことになるなんて」

 イルゼは再びあわてふためいてネオになにごとかを謝ろうとしているが、一向に要領を得ない。ネオがいない間に、なにか事件が起きていたのだろうか。シュタイナウはあくまでも落ち着き払った様子で、アマラに問いかけていた。

「なにがあった?」

「なーにもかにも。……噂はほんとうだったってとこさね」

 噂。――この街では、二十四年に一度、子供たちがいなくなる。

「まさか、ハーメルンの子供たちが……?」

 ネオが恐る恐る口にすると、アマラはかぶりを振った。

「いや、そっちじゃなくて。うちの一座のアイツの噂さね。ネオくんは聞いたことない? 生粋の悪戯者のクソガキの話をさ」

「ああ」

 その言葉で、この場にティルがいないことに気がついた。そういえば、ティルにも折り入って相談したいことがあったのだ。しかし、そのティルがなにか仕出かしたというのか? それも、イルゼがネオに謝らねばならないような、とんでもないことを。

「うん。なんていうか、ネオくん、落ち着いて聞いてね? そのー、あんたの叔父さんのお店のことなんだけど」

「……はい」

 息を飲み言葉を待つネオに、アマラはさらりと言ってのけた。

「つぶれちゃったの」


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