ミンデン
ついに到着した。野宿した場所は、本当にミンデンの目と鼻の先だった。ミンデン市で鳴り響く一時課の鐘で飛び起き、少し歩いたらすぐに外壁が見えてきたのだ。旅慣れたものなら、三日程度。まさしく、旅慣れたシュタイナウに導かれ、三日の行程で到着した。
驚きにはすでに慣れていたが、さすがに圧倒される。まだ壁の外なのに、リンテルン市と同程度の修道院らしき巨大な建築物が、そんなものは珍しくもないと言わんばかりに、街の壁を越えていくつもそびえているのが見て取れるのだ。そんな中で、なによりも目を引いたのは、
「ネオ、あれが城ってもんだ」
シュタイナウが指差すそれは、はるか西のはずれにそびえるひときわ大きな石造りの建築物だった。城とは、あのようなものか。まるで、石で組み上げた巨大な箱。
「と言っても、あれは城壁だがな。あの壁の中に城主の家やら、主塔なんかもあるはずだが、さすがにここからじゃ見えねえな」
箱のそれぞれの隅から柱を思わせる塔が伸びている。屋根はことごとく凹凸状の胸壁になっており、そのたたずまいは否応なく不穏な気配を感じさせた。
「なんだか、怖いですね。あれじゃまるで……」
「お、わかるか?」
その様子は、外敵よりもむしろミンデンの市民を威圧して見下ろしているかのようだった。自らの支配力を周囲に誇示するための、権力の象徴なのだろうか。
「ミンデンも一枚岩じゃないらしくてな。教会勢力と市参事会が派手にやりあって、街の南側、こっち半分は市参事会が、教会が北側の半分を治めてるんだ。北の外れにももうひとつ、教会側の城があるんだぜ?」
「……シュタイナウさんは、なんでも知ってるんですね」
リンテルンの街でもそうだった。まるで案内をする調子でミンデンの情勢にまで言及するシュタイナウに、素直に感嘆するネオ。シュタイナウはおしゃべりがすぎたとでも言うように、ばつが悪そうにボリボリと頭を掻いた。
「う、む。まあ……なんだ、ミンデンに来たのも一度や二度じゃねえからな。この辺り一帯は、庭みたいなもんだ」
ヴェーゼル川から引かれた水堀を渡り、例によって通行証を見せて南門から街の内部へと足を踏み入れた。いままでののどかな空気が突然、街の喧騒へと変わった。
ハーメルンとは規模が違う。リンテルンでもメレンベック尼僧院の大きさに圧倒されたが、それよりも遥かに違う。建物がいちいち大きく、道もことごとくが広い。巨大な街並みと雑踏の中で、少し、呆然とした。ゆっくり、じわじわと実感が追いついてくる。無事、目的地に辿り着いたのだ。自分にも、外の世界を渡り切ることができたのだ。
手紙を届けるべき市参事会館は、ミンデン市の北のはずれにあった。迷うことはなかった。街の門番に通行証を見せたときに市参事会館の場所を丁寧に教えてくれたからだ。
ハーメルン市の使いと聞くと、受け取った役人は若干緊張した面持ちを見せたが、しかし予想に反して、淡々と事務的にことは進んだ。エーリッヒの言葉から、ハーメルンの街から来たというだけで根掘り葉掘り問いただされたり、場合によっては勝手にハーメルンの代表として扱われて、無茶な要求を突きつけられたりするかも知れない、そんな不安が拭えなかったのだ。
もちろん、そうならないためのネオという人選だったのだが、しかしそんな心配は最初から必要なかったかのように、話はスムーズに進んだ。明日には返事の手紙を用意しておくので取りに来るようにと言われ、早々に市参事会館を後にした。
ひと仕事が終わり、改めて街を見る。珍しい光景があまりにも多すぎて、「どれを見よう」などという考えさえ浮かばなかった。驚愕に慣れてしまったというのもあるだろう。しかし、なによりも重大なことが頭の中をぐるぐると巡っていたのだ。
ハンザ同盟。ザクセン地方のみならず遠い異国を行ったり来たりする行商人によって結成された、行商人の集合体。互いを守り合うことで道中の安全を確保し、それによってあちこちの街に異国の品物や風聞などを行き渡らせているのだ。そのハンザ同盟の、この辺りでは最大規模の支部が、ここミンデンにある。いまや、エーリッヒに書いてもらった紹介状は宝物となっていた。
ハンザ同盟はどうやらハーメルン市もその傘下に加えたいと考えているそうで、市参事会に何度も接触してきているらしい。ネオの立場は、そんな市参事会からハンザ同盟に定期的に送られる視察ということになっている。
更に、ハンザ同盟の客人という扱いで、ご丁寧なことに旅籠と食事まで手配してもらえるらしい。さっさと旅籠の奥に陣取り酒を飲みはじめたシュタイナウを置いて、ネオはハンザの商館へと案内してもらっていた。
「腰の重たいハーメルンの皆さんも、そろそろウチらに加わる気にならないもんかね? まあ、ゆっくりしてってくれ。ウチらがどんだけ世間を渡り歩いて、どんだけスゲエ品物を集めてるのか、ちゃんと市参事会に伝えてくれな?」
目当ては、もちろん靴だ。ミンデンの街にも、もちろん靴職人のツンフトがある。そして、ハンザ同盟はツンフトそのものと提携を結び、必ず一定量の靴を売ってもらえることになっているそうだ。引き換えに、ハンザ同盟が各地で仕入れた珍しい靴のサンプルや知識をツンフトに提供するというわけだ。きっと、クチバシ靴の流行などの奇妙な現象も、彼らのような行商人が遠くの街から運んできたものなのだろう。当然ながら、ミンデンのツンフトにはそういった品物を保管しておく倉庫がある。ネオが通されたのもそうしたもののひとつだった。
まるで、靴の展覧会が目の前で開催されているような光景に、ネオは息を飲んだ。遠い異国の靴や、いまや苦い思い出にさえなりつつある駱駝革。見たことのないものが、沢山ある。ふたたび胸の中をどきどきで充満させて、倉庫を見て回った。
ザクセン語で簡単な説明が書いてある。あちこちを回るハンザ同盟の中では、言葉をザクセン語に統一しなければ混乱に陥ってしまうのだろうか。普段、ネオが目にするザクセン語は、せいぜいが店の看板などといったものだ。珍しく目にするザクセン語の長文に、そして、それをすらすらと読める自分に、少し驚いた。生まれてはじめて文字の知識をありがたいと感じた。決して、ツンフトの中で立場を悪くするだけの無意味な重荷ではなかったのだ。そのことが、なんだかとてつもなく嬉しいことに感じられる。ハーメルンに帰ったら、父への感謝も込めて、もう一度ザクセン語をおさらいし、この先役に立つかも知れないラテン語を見直すため、じっくりと聖書を読もうと思った。
だが、今はそれよりも靴である。簡素なモカシンや、数枚の革を縫いあげたブーツ。駱駝革の靴もあったが、ただし、それはネオが考えていたそれではなく、サンダル状のごく簡単なものだった。どうやら、駱駝が住む場所は、想像もつかぬほど暑い地方らしい。
叔父がもっぱらとしているクチバシ靴も沢山あった。職人や農民はクチバシ靴を馬鹿にしているが、しかしこの様子を見ると、どうやら本当に世界中で大流行しているらしい。説明によれば、フランス王国などでは、クチバシの尖り具合を競うあまり、伸ばしすぎたクチバシがぺろりと垂れてしまい、仕方なく膝から糸を伸ばし爪先を吊るすような馬鹿馬鹿しいスタイルまで登場しているとある。叔父の顔が頭をちらつき、なんとも複雑な気分になってしまった。
そんな中で、なにやら見覚えのあるブーツを見つけた。そして、それがそうだと気づき、思わず呆気にとられた。見慣れないものに囲まれた中で、それはあまりにも唐突な出会いだった。その意外性に、しばらくの間、ぽかんと口を開けてしまった。
ザクセン産と書かれた箱に入っているのは、なんとネオの作ったブーツではないか。作ったときのままではなく、防腐を兼ねているのであろう、緑や青の染料で染められているものがほとんどだった。しかし、自分の作った靴を見間違えるはずがなかった。やはり、たまに大量に買い付けに来ていた商人は、ハンザだったのだ。しかも、こうしてみると、ハンザ同盟の中ではネオの靴は相当高く評価されているように見える。何段階かのランク付けとともに分類されていたが、ネオの靴はすべて最高級のものとして扱われていた。蝋引きの手間や革を叩く技術などは、素人目には決して見分けの付かない部分である。しかし、大きな工房で大量に作られた靴と、見かけはほとんど同じでも、鑑識眼の優れた行商人の目をごまかすことはできないらしい。丹念に作られたネオの靴は、作った本人が驚くほどに、極めて高く評価されていた。
決して、無駄ではないのだ。胸の奥が、じわりと熱くなった。見失いかけたものが。生まれてはじめて靴を作ったときの感動が。世界の一員として認められた喜びが、胸の中に蘇っていた。広い宇宙の中で、ネオの靴は、鍛錬を重ねたその技芸は、確実に存在を刻んでいた。
しかし、頭をぶんぶんと振る。それだけでは足りないのだ。今までの自分だけでは駄目なのだ。もっと。もっと、珍しいものを。自分の頭では考えつきもしなかった、知らない世界を。まだ見当もつかない、なにかを見つけたかった。いきおい、片っ端からザクセン語で書かれた説明を読んで回り、あらゆる靴を見る。同じ造りのブーツでも、革の裁ち方から縫い方まで様々だった。駱駝革の他にも、象だの獅子だの、街や家の紋章でしか見たことのない動物の革があった。そして、ネオの目は、とあるひとつの靴に釘付けになった。
「……これは」
低地地方産。湿地の多い低地地方ならではの、まさしくネオの思いもよらなかった靴が、ハンザ同盟の倉庫の片隅で、ひっそりと輝いていた。いや、輝いているように見えた。まるで、ネオに見つけられるのを、そこでずっと待っていたかのようだった。
上機嫌で出迎えるのは、旅籠に居座り、ハンザ持ちのただ酒ですっかり出来上がったシュタイナウである。
「それで? 収穫があったみてえじゃねえか。すっきりした顔しやがってよう」
「……はい。色々と、面白いものを見れました。たくさん……驚きました」
確かに、収穫などという簡単な言葉で済ませるのがもったいないほどの、様々な発見があった。世界は自分が思っていたよりもはるかに広く、しかし、自分が感じるよりもほんの少しだけ身近にあるものだということを知った。いまや、胸のどきどきののしかかる重さはまったくなくなっており、むしろそれは、ネオの心を広いところへと飛び立たせる軽さをもっていた。そして、なによりも、ハンザの倉庫の片隅で輝いていたあの靴。穴が空くほどそれを見つめ、作り方に思いを巡らせ、造りと形状をしっかりと覚えてきた。
「でも、」
少し、声を落とす。倉庫の片隅でネオが見つけたものは、確かに新しい光明をもたらした。しかし、そこには、前回の失敗よりもはるかに大きなリスクもまた存在しているのだ。もしかしたら、謝るどころか、より深くイルゼを傷つけてしまうかも知れない。それを試みて良いのかどうか、自分でもわからない。
そんな躊躇を見て、シュタイナウはふふんと鼻で笑った。
「なぁに企んでるのかしらねえが……。まあ、あれだ。またイルゼを泣かせるような真似しやがったら、何度でも、思いっきりぶん殴ってやるさ。だから、安心してやってみりゃいい」
無茶苦茶だが、しかし、その乱暴な言葉が嬉しかった。それに後押しされて、ネオの中で決心が固まった。やはり、自分は靴職人なのだ。イルゼには、靴を作ることで謝ろう。どうあがいたところで、自分にはそれしかないのだ。
「なに、心配はいらねえさ。お前の運なら、結局はどうにかなっちまうだろうよ」
「運……? 僕の?」
何気ないシュタイナウの言葉だが、ネオには意味がわからない。いや、昨日だったか、朝起きた時にもそんなことを言われた気もする。
「ネオ、お前さん、自分ではちっともわかっちゃいないんだろうが……。旅ってのは、普通、こうもすいすいと進むもんじゃねんだぞ?」
「そうなんですか?」
「そもそも、初日からしてそうだ。ヴァイデの煎じたやつを飲んだのもあるだろうが……よほど頑丈な男でも、旅に出た最初の晩ってのは、夢魔に取り憑かれて熱出して寝こむもんだ。俺ぁ、それで、一日二日はつぶれると踏んでたんだぜ?」
「……」
確かに、あの夜は身体が熱っぽかった。まめがつぶれた感触が痛みの代わりに熱となって、足の裏から膝へ、そして全身へと昇ってくるのを感じていた。しかし、それ以上のことにはならなかった。むしろ、じんじんとした痺れをともなった熱は心地よくネオを包み込み、なにも考えずに眠るのを手伝っていたように思える。
「そんだけじゃねえ。お前、こうして盗賊にも襲われず、人狼にも追いかけられず、街の門番に足止めもされず、のこのこと歩いてきたのが当たり前だと思ってるだろう? だが、普通はこうはいかねえ。三日も歩けば、大抵はなにかしらのトラブルに出くわすもんだ。でなきゃ、街の外なんて怖くもなんともねえだろうが」
実際、そう思いかけていた。今まで自分は、街の外を知らなかっただけで、実は街の外には、考えていたような危険はまったくないのかも知れない、などという考えが頭の中に浮かびはじめていたところだった。
「行きに三日、知らねえ街で一日、これからハーメルンにトンボ帰りだ。こんだけ歩き続けて、なにひとつトラブルが起きねえなんてのは、そうあることじゃねえ。……背負った星なんてのは、死ぬときまでわからねえもんだが……今のところ、お前さんの星は、間違いなく木星か、でなけりゃ金星だろうよ」
ともに、幸運を呼ぶと言われている星だ。本当にそうならば、これ以上に嬉しいことはない。
しかし、なにしろ生まれてはじめての旅だったのだ。普段の旅がどんな様子であるかなど、ネオには知る由もない。だが、シュタイナウに言わせれば、旅とはネオが最初に想像していた通りの、危険に溢れたものらしい。
旅における不運が人外や盗賊に襲われることなら、旅における幸運とはなにも起きないことだ。地面にお金でも落ちていようものなら、むしろ、その先に盗賊が待ち構えているのではないかと疑ってしまうくらいだ。そういった意味で、旅における幸運とは、とにかく自覚しにくいものである。
もちろんネオに言わせれば、足をまめだらけにして、森の暗闇ににじり寄られて、そんな思いを重ねてミンデンくんだりまで旅をすること自体、幸運だとは言いがたい。しかし、生活を旅に委ねるものから見れば、何気ない顔で順風満帆な旅をしてのけたネオは、羨むほどの幸運の持ち主に見えるらしい。
「しかし、奇妙な話だよな」
「?」
ぽつりと言ったシュタイナウの言葉に、ネオの顔に疑問符が浮かぶ。
「ハーメルンでよ、行きがけにティルがいただろ? あいつは見世物がない間は、どこぞの親方の手伝いだの、御用聞きをして回っててな……。実はあいつ、律院の神父に依頼されたんだってよ。ネオをミンデンまで警護するように……ってな」
「神父さまが?」
「もっとも、アマラにどやされて俺が行くことになったから、あいつは用なしになっちまったがな。どうやらお前さん、思ったよりも気にかけられてるらしいな」
確かにありがたい話だ。エーリッヒもまた、ネオを夜の世界に身一つで放り出すことの危険性をよくわかっていたのだ。ネオが野盗に襲われたり、森に飲み込まれたりしないよう、影で計らってくれていたらしい。しかし、それがどうして奇妙なのだろうか?
「ふん……わかんねえならいいんだ。ハーメルンでの生活は楽しいんだろ? ……なにごとも起きねえなら、それが一番だ」
どうやら、かなり酔いが回っているらしい。それ以上のことを聞くことはできず、そのままミンデンでの夜は更けていった。