見知らぬ街
「はじめての野宿で夢魔に襲われねえとは、まったく、運の強い野郎だぜ」
悪態ともつかぬシュタイナウのそんな言葉とともにはじまったのは、恐らく生涯忘れないであろう、驚愕の一日だった。
太陽が真南に登り、そろそろ六時課の鐘が鳴っているころかと思いながら歩いていたところに、遠くで鐘の音が聞こえ、はっとした。思わず、いつのまにか反対方向に歩いてハーメルン市に帰ってきてしまったような気がしたが、もちろん、そうではない。そもそも鐘の音からして違う。ハーメルン市のものに比べ、こちらは複数の鐘をがらんごろんと交互に鳴らしているらしく、異なる二つの音が交じり合って響いている。
横を歩いているシュタイナウの顔を見上げると、
「メレンベック尼僧院だな。もうすぐリンテルンの街が見えてくるぜ」
「……っ」
嫌が上にも、胸が高鳴った。リンテルン市。そこを通り抜けるようにとエーリッヒが言っていたところだ。ネオが生まれてはじめて訪れる、ハーメルン以外の街。ここまで延々と森と丘と草原と川と道が続いて、そろそろ風景にも飽きはじめたところに飛び込んできた新鮮な音だった。
いよいよ、遠くへきたという実感が湧きあがり、歩む足も自然に速まっていく。そして、見えた。ネオの左手で曲がりくねりながら、いつしか西に向かっていたヴェーゼル川。その向かう先に石造りの壁が見えた。外壁の様子はハーメルンと同じ程度か。しかし、決定的に違うのは街の中央に位置するであろう建築物だった。それは遠目にもわかるほどに巨大で、離れてもわかるほどの圧倒的な存在感を放っている。
「あれは……リンテルンの、お城?」
「城じゃねえよ。ありゃ、ただの修道院だ。さっきの鐘を鳴らしてたメレンベック尼僧院だよ。城ってのはあんなもんじゃねえ」
「あれが、ただの、修道院」
ハーメルン市で一番大きな建物は、ネオも馴染んだ聖ボニファティウス律院だ。その何倍の大きさがあるのか。建築そのものは珍しくない石造りだが、なんといっても大きさが違う。壁の外からもわかるほど背が高く、圧倒的な存在感を放っていた。
リンテルン市の東門に近づくにつれ、賑わいが伝わってくる。街の南を流れるヴェーゼル川にかかる橋の向こう側、つまり外壁の外にも多くの家が建ち、まるでリンテルンの街の一部が溢れだしたかのようだった。
更に近づくと、橋の周辺の光景が見て取れた。それはネオの常識とは異なっていた。水の周りといえば、水車小屋に皮なめし職人、そして皮剥ぎ職人と相場は決まっている。しかし、もちろんそれらの小屋も下流の方には見えるが、橋のほど近くには船着場があり、多くの商人で賑わっていたのだ。船も、ネオが知る渡し舟などではなく、船尾に三角屋根を持つ奇妙な形のものが多い。なんといっても、そのことごとくが巨大である。甲板には、十人ばかりの水夫が蟻のように蠢いている。
「ここには、ずっと北のブレーメンから海のものが運ばれてくるからな。でかい船はここまで上がってこれないが、結構珍しいもんも見れるぜ?」
こともなげに言うシュタイナウだが、はじめて見る光景の連発に、ネオは言葉を発することさえろくにできなかった。でかい船は上がってこれない? つまり、なにか? 橋の向こうに浮かんでいるあれは、でかい船ではないとでも言うのか? それに、海だって? 海の存在はもちろん、「川はいずれ海へと流れ出る」程度のことは常識として知ってはいるが、それは言葉の上での常識だった。こうして、目の前のヴェーゼル川が海に繋がっているという事実を、肌で感じたことはなかった。
ブレーメンとは海の町なのだろうか。もはや聞いたこともない、まったくの未知の世界だ。ヴェーゼル川をずっとずっと辿っていけば、いつかは海にたどり着けるのだろうか。それを確認したものは、少なくともネオの周囲には、一人もいなかった。しかし、ここに浮かんでいる巨大な船でやってきたものたちは、恐らく全員が海をその目で見ているのだ。
見たこともない海に思いを馳せて、呆然となっていたが、
「おい、ネオ、出番だぜ。まさか、なくしちゃいねぇだろうな?」
「?」
突然話を振られ、なんのことだかわからないが、街の門のほうを見て思い出した。
陸路である東門から市内に入ろうとしているものはネオの他にも大勢いる。見れば、ネオたちと大して変わらない風体の――ハーメルンとは別の街から来たのであろう――旅人をはじめ、商人や聖職者らしい姿も見受けられる。
番兵はネオとシュタイナウの似合わない組み合わせをジロリと見たが、書状には人数についてはなにも書かれていなかったらしい。すんなりと通ることができた。
「便利なもんだぜ。普通だったらこうは行かねえ。ロバに積んだ荷物で商売するつもりだろう、なんて言われて足止め食らったりな」
興奮も冷めやらず、シュタイナウの言葉を聞くのもそこそこ、街の風景に再び呆然とする。ハーメルンも定時市場が開催されるときには、人通りも多くなるものだが、ここは規模が違う。荷車が目まぐるしく走り回り、厩を持つ旅籠もずらりと並んでいる。
「とりあえず、腹ごしらえといこうぜ。クーヘンばかりじゃ、さすがに飽きちまうからな」
近くの旅籠へと入っていくシュタイナウに、なにも言い返せずにこくこくと頷き、ふらふらと付いて行った。食事の料金をどうするのか、考える余裕さえなかった。
「どうした? 胸のどきどきに取り憑かれたかい?」
目の前に並べられた見たことのない魚料理を前に、シュタイナウが言う。胸のどきどきに取り憑かれる。まさに、それだった。まるで、ネオの心を覗きこまれているかのように、的確な言葉だ。取り憑かれている。このどきどきがなくなることが想像できない。目の前の魚料理もそうだ。ハーメルンの横のヴェーゼル川で釣れる魚に比べて、目玉がギョロリと剥き出して、色も真っ赤だ。
「ここは海からきた船の終点みたいな街だからな。こっからハーメルンまでは陸路で運ぶことになるから、あっちでは坊さんしか食わねえ高級品だ。だがうまいことに、腐りそうな魚はここで捌かなきゃなんねえ。おまけに、メレンベック尼僧院は男子禁制ときてる。こういった旅籠は坊さん連中も相手にせにゃならんから、俺達も珍しい食いもんにありつけるってわけさ」
「…………」
シュタイナウの言うこともろくに耳に入らず、ただただハーメルンとはなにもかもが違う、異国の常識に圧倒されていた。そんなネオを、シュタイナウは楽しそうに見ていた。ふふん、と嬉しそうな笑みがこぼれていた。
「たまにそうやって、胸のどきどきに取り憑かれるやつがいるんだ。それが収まらないと、そいつは狭いところでは爆発しそうになって、どこかに飛び出しちまうのさ。……お前さんは、どっちかねえ?」
いいながら、料理を食べるよう薦めてくる。自分は、どっちだろう。この胸のどきどきは、燃え続けるのだろうか。それとも、いつしか霧散してしまうのだろうか。なにか、とてつもない宝物を胸の中に手に入れた気分で、不思議に暖かかった。
食事の料金は、クーヘンで帳消しということだった。
第二の驚愕は、程なくネオの目の前に広がった。
腹ごしらえをしたのち、シュタイナウいわく「足が街に馴染んじまう」前に、街の西の門をくぐり、再び外の世界の住人となっていた。それから、リンテルンの街から響く九時課の鐘〔午後三時ごろ〕を背後に聞きながら、道は山に入る。今までに見てきたような緩やかな丘ではなく、山である。木々に囲まれた長い勾配を登る経験も、もちろんはじめてだ。木が少なくなり、岩肌がごつごつしはじめ、そして道が峠に差しかかったとき、ネオは眼下に広がる世界に絶句した。
どこまでも、どこまでも平らに広がるザクセンの大地。この高さから見ると、ゆるやかな丘など、平面と区別がつかない。ヴェーゼル川は、間近で見るよりも、はるかに複雑に曲がりくねっている。注意深く探せば、たどった先にハーメルンも見えるのかも知れない。しかし、風景への感動を吹き飛ばすほどに想像を絶するものが、平らな大地とは反対側、ネオのすぐ下に広がっていたのだ。
それは、巨大な城砦だった。ヴェーゼル川を渡る橋と、それを渡らせまいとするように取り囲む外壁。巨大な橋のあちら側もこちら側も厳重な外壁で防護され、橋と周辺の街を含むこの辺り一体をまるごと外壁で覆っている。外壁はそれ自体が建物になっていて、屋上の胸壁の向こうだけでなく、壁の内部が歩廊になっている。塔の上では見張り番が油断なく外を監視し、歩廊にいくつも開けられた覗き窓の周囲には矢を避ける矢来が立てられ、その奥には弩を構えた兵隊の姿が見える。この外壁は、ハーメルンやリンテルンとは根本的に違っていた。
「軍事城砦ってやつだな。シャルクスブルク砦、ミンデン司教区の砦では一番でかいやつさ。ヴェストファーレン地方の玄関口ってとこか」
軍事城砦。つまり、戦争のために作られた街だということか。
もちろん、ハーメルンにせよリンテルンにせよ、外敵から街を守る目的で街を壁で囲っている。戦争の際にその堅固さで街の守備力が決定されると言っても過言ではない。そういう意味で、軍事城砦でない都市など存在しないと言ったほうが正しい。
だが、この街はそうではない。次元が違う。戦いの際に街を守るために外壁を作ったのではなく、この場所を守るために強固な壁を建て、壁の中に街が作られたのだ。こうして山の上から見下ろせば、その理由はネオにもなんとなくわかる。
たった今登ってきた山は、壁のように東西に伸びる長い長い山脈の、ほんの一部分だった。その人を寄せ付けぬ長い山脈が、北へ向かうヴェーゼル川に分かたれて、ぷっつりと途切れている。その切れ目にこそ、巨大な城砦がそびえているのだ。つまり、この辺りで東西を移動するためにはヴェーゼル川を、南北を移動するためには山脈をどうにかして越えなければならない。山脈が途切れ、かつヴェーゼル川に橋がかけられているこの地点は、戦争の際には極めて重要な戦略拠点となるのだ。
エーリッヒの語ったハーメルンの歴史を思い出した。ハーメルン市は、かつてミンデンと戦ったという。眼下にそびえる巨大な城砦。こんなものを持つ相手と、どうやって戦ったのか。いや、どうして戦おうという気になったのか。想像すら及ばなかった。
しかし、決して外敵を寄せ付けまいとする外見の物々しさとは裏腹、エーリッヒに渡された書状を見せるだけで、あっさりと門を通過することができた。砦そのものと化している外壁だが、その内側は、思ったよりも普通の街並みである。
「ふうむ……ネオ、お前さん、運がいいな。案外、外の世界を歩くのに向いてるかも知れねえぞ」
巨大な橋に圧倒されながら向こう岸へと渡る途中、シュタイナウがとんでもないことを言い出した。自分が放浪者など、冗談じゃない。しかし、それにしても、
「運がいいって、どうしてです?」
「ふふん。この手の偉ぶってる街の連中はな、なにかと理由をつけて足止め食わせるのが好きなんだよ。やれ書状の文字が読みにくいだの、本物である証拠を見せろだの」
「そんなこと、」
「無理に決まってらぁな。要するに、袖の下をよこせってわけよ」
そういった揉めごとに巻き込まれない運の良さ。街だけではなく、森や川、狼や人狼に襲われないためにも、確かに外の世界を旅するものたちには、最も必要なものなのかもしれない。
ヴェーゼル川を渡り、街の北門を出て、再び森と山と丘の風景に囲まれたころ、やはり川の近くで野宿となった。おそらく晩課であろう、鐘が山に反響して前後左右で鳴り響き、いったいどこで鳴っているのかわからなかった。
焚き火を前に、今日一日で我が身を通り過ぎた驚愕を思い返していた。
世界が、宇宙が、こんなに巨大で、しかもこんなに近くにあるものだとは思わなかった。ハーメルン市の裏路地の工房で毎日毎日靴を作り続けるということは、いったいなんなのか。目の前のことをこなして、ただただ今日を無事に過ごし、同じ明日を待つことに、なんの意味があるのか。そんなことをしている間に、なにか、大切な物が通りすぎてしまうのではないか。
昼間に感じていた胸のどきどきは、いつの間にか、とてつもなく重いものとなり、ずっしりと胸にのしかかっていた。あるいは、両親が無理矢理にでもネオにラテン語やザクセン語を覚えさせたのは、ハーメルンで縮こまっていないで、こういった世界を見て欲しいと願ったからなのかも知れない。
そんなネオの心を読んだかのように、シュタイナウがそのことに触れてきた。
「親父は……どうした? どうやら、生きてはいねえ様子だが」
「両親とも、四年前……流行り病です。当時はツンフトもまだできたばかりで……救済院にも入れてもらえませんでした」
ネオの知る限り、街に住む上で最も恐れられるものが病気と怪我である。裕福な者が病気を治すために全財産を失い物乞いに身を貶す、そんなことも珍しい話ではなかった。ツンフトはそうした事態に備えて、いわゆる保険に相当する制度を確立してはいたが、しかし設立したばかりとあっては、その積立金も充分ではなく、救済院にベッドを確保できる状態ではなかったのだ。しかし、シュタイナウはそれを笑い飛ばした。
「ははっ! 救済院なんぞ物乞いだらけで、それこそ病気の温床じゃねえか。むしろ入れなくて幸運ってくらいだぜ。そんで……親父の跡を継いで、靴屋のこびとさん、か」
「でも、ぼくは……」
できれば、今はそのことを忘れていたかった。イルゼに靴をプレゼントしてしまったという失態が、胸に苦く広がった。脳裏に焼き付いたイルゼの震えた様子が、泣き顔が、ひりひりと胸を締めあげた。それに加え、この二日でネオの感じる世界はガラリと姿を変えてしまったのだ。この広い世界の中では、ネオが靴屋として築いてきた時間や技芸など、なにもかも、取るに足らないものだった。まるで、生まれてはじめて靴を作ったより以前の、なにもできない子供に戻ってしまった気分だった。自分の生きてきた時間なんて、たった十数年の経験なんて、
「ちげえぞ」
ネオの胸中を鋭く察したらしく、シュタイナウがきっぱりと告げた。
「靴、見たぜ。……ありゃあ、大したもんだ。ティルの野郎も褒めちぎってやがった。あいつが他の職人を褒めるのなんて、はじめて見たぜ」
「……ティルさんが?」
「こないだ言ったろ? あいつは、今の時期は楽師が儲かるからってんで付いてきてるが、普段は遍歴職人としてあっちこっち回ってんだ。……天才ってやつかねぇ、鍛冶屋から、仕立屋から、なんでもござれだ。……もちろん、靴屋もな。バグパイプを覚えたいってぇから教えてやったら、三日でモノにしやがった。まったく、俺の立場がねえっての」
その、なんでもこなす天才のティルが、自分の靴を褒めていた。しかし、その靴でこそ、ネオはイルゼを傷つけてしまったのだ。
「だからよ、旅に出たのは、案外悪くなかったんじゃねえかって話よ。こうして広い世界で、自分の小ささを知って……そしたら、次からはまた、ひと味違う靴を作れるだろ。つうかよ、そのために街から出たんじゃねえのか?」
「…………」
考えたこともなかった。しかし、そもそもイルゼへの謝罪の言葉を探すための旅なのだ。言い換えれば、自分の知らないものを見て、新しい言葉を――新しいなにかを見つけるためにこうしているとも言える。昨日や今日のような驚愕の毎日を繰り返せば、もしかしたら、自分の知らない、考え付きもしないなにかが見つかるのかも知れない。
「まあ、なんだ、ミンデンはもう目と鼻の先だかんな。また珍しいもんが見れるだろ。そうやって胸のどきどきを積み重ねれば、その分だけ、お前の作る靴にも味が出てくるってもんさ」
言って、焚き火の向こうでごろりと横になるシュタイナウ。
広い宇宙の中で自分のちっぽけさを思い知った今、その言葉は素直に胸に響いた。重くのしかかっていた胸のどきどきは、ほんの少しだけ心地よさを取り戻していた。