夜の世界
「おや、ネオさん。これからミンデンに?」
ハーメルン市の北門をくぐり、右手に小麦畑の見える街道に踏み出したところで、ちょうどどこからか戻ってきたティルと鉢合わせた。まるで、そこいらへお使いに行くネオを目にしたかのように、軽い調子で挨拶をしてくる。
「はい。どれくらいかかるかわかりませんが……」
「それなんですがね」
ティルが顔を横にずらすと、その向こうに一人と一匹、すなわち、いかにも不愉快気な顔を浮かべている無精髭と、荷物を積み込んだロバが目に入った。
「どうやら、ネオさんに用があるっぽいですぜ? ……そいじゃ、あっしはこれで」
無精髭の不機嫌な様子に、面倒事に巻き込まれるまいとでも思ったのか、ティルは早々に退散していった。無精髭は、おそらく一時課の鐘が鳴って門が開いたときから、ずっとここで待っていたのだろう。もちろん、今のネオにとっては一番見たくない顔だ。
「納得いかねえ」
ティルが去って取り残された形のネオに、文句ともつかぬ横柄な声をかけてくるが、
「……」
羽織っていた羊革マントのフードを頭からかぶり、気が付かなかったふりをして歩き続けた。今更、ネオに言えることなど、なにもない。イルゼにしたことは本当に申し訳ないと思っている。しかし、一日経ってつくづく思う。あの二発の鉄拳は強烈だった。まだ顔には青あざが残っていて、触ると飛び上がるほど痛い。そのことを今は思い出したくもないのに、それをした張本人が待ち伏せしていたのだ。
なにも言わずに素通りするが、あたかも当然といわんばかりに、無精髭もロバを引いて歩きはじめる。振り返らずに言った。
「なんで、ついて来るんですか」
「だから、俺も納得いかねえっての。だけどよ、アマラのやつが、きちんと教えなかった俺にも半分は責任がある~、とかなんとか言いやがってよぅ。んなこと言われてもしょうがねえだろ。なあ?」
ネオに同意を求めているのかと思いきや、隣のロバに話しかけていた。ロバは目を細め、耳をパタパタさせながらシュタイナウの方に歯を剥き出し、「ぃあ~~」などと間の抜けた声で答えていた。まさか、会話が成立しているのだろうか? 頭を振って、馬鹿な考えを追い払う。その横で、シュタイナウは勝手に喋っていた。
「まあ、なんだ、昨日は俺もカッとしちまってな。ちっとばかしやりすぎた。律院に飛び込んだときには、さすがに肝ぉ冷やしたが、訴えなかったのは……その、まあ、なんだ……感謝してるぜ」
なるほど、あのときにネオが取った行動は、放浪者の目にはそう映るものなのか。ティルが後をつけてきて盗み聞きまでしていた理由も、なんとなく理解できた。確かに、エーリッヒ神父もそう言っていた。もしもネオが、シュタイナウによる暴行を市参事会に訴えていれば、死刑とまではいくまいが「財産を没収のうえ追放」くらいの処分は下っていたかもしれない。
再び、頭をぶんぶんと振る。それこそ、まさかだ。そもそもイルゼに笑って欲しいと願った結果、犯した失敗だったのだ。そのイルゼをこれ以上苦しめてどうする。なによりも、それでは完全に逆恨みではないか。
「悪いのは……僕ですから」
「わかってんじゃねえか。なあ? アレクサンデル」
再び「ぃあ~~」と合いの手が入る。なんだ、このやりとりは。旅する者たちの間では、ロバと会話するのが当たり前なのか。それに、アレクサンデルとは、ロバにしてはやたらに偉そうな名前だが、これも普通なのだろうか。わけがわからない。
「で、なんだ。いじけたついでにミンデンまで行くんだって? 街の中ですくすく育ったお坊ちゃんにしちゃ、ずいぶんとまた思い切ったじゃねえか」
「放っておいてください。別にいじけて行くわけじゃないです。大切な用事なんです。……それよりも、どこまでついて来る気ですか」
もうハーメルンの壁も遠くなりつつある。これ以上街から離れたら、法律の及ばぬ世界だ。なのに、そんなことは意にも介さないのか、シュタイナウとロバは並んで歩いている。
「いや、だからよ、アマラのやつに『半分はアンタの責任だから、ネオくんが無茶しないように、ミンデンまで付いて行きなさい』とか言われちまってよぅ」
アマラが喋ったという部分を、わざわざ女っぽく声色を変えて説明してくる。冗談じゃないという気持ちが六割。心強いという気持ちが四割。しかし、最初に橋の上で出会ったときに感じた不審感はなくなっていた。自分でも奇妙に思うが、イルゼを傷つけたネオに対して本気で怒った態度が、横柄で無遠慮な印象を帳消しにしていたらしい。なによりも、旅慣れたシュタイナウが一緒ならば、生きて帰ってこれる可能性はぐんと高くなるだろう。
「断られたらどうすんだって聞いたらよ、『ミンデンまで用事ができたから、同じ道を歩いてるだけでこれは偶然だ、って言えばいいのよ』とか言ってたぜ。だから……うん、これは偶然だ。なんか文句あっか?」
「……そこまで言わなくていいです」
馬鹿正直なのか、馬鹿なのか。どちらにせよ、ネオには断るという選択肢はないらしい。逃げたところで、それこそ逃げきれるものではないだろう。
「いいんですか? 見世物とか……。それに、他の皆さんは……?」
「まあ、俺ひとりいなくても、今更あいつらに手ぇ出そうってやつぁいねえさ。祭りまではしばらくあるし、ティルもそこいらで職人仕事を探すってよ。……それに、イルゼがあの様子じゃ、ハーディ・ガーディの演奏も期待できねえしな。あれで、結構こたえてたっぽいぜ?」
意地悪っぽい言い方に、ずしんと罪悪感がのしかかる。しかし、当然だ。ただでさえ、片脚がない辛さは尋常なものではないだろう。そればかりか、そのありもしない脚ではく靴をプレゼントされたのだ。これ以上の屈辱はありえまい。ショックを受けるなという方が無理な相談だ。
「……ふん、その分じゃ、ちっともわかってねえんだろうな。……ともかく、ミンデンまでよろしく頼むぜ? 相棒」
今度はロバではなく、こっちに振ったらしい。しかし、相変わらずアレクサンデルは歯を剥き出し、「ぃあ~~」などと返事をしていた。
あっという間だった。左手にヴェーゼル川を、右手に小麦畑を眺めながら歩き続け、だんだん森の占める割合が多くなってきたころ。ハーメルンの街が視界から完全に消えてから、それほど経っていないはずだ。太陽の高さからして、街ではまだ六時課の鐘すら鳴っていないだろう。なのに、足の裏はまめだらけで、涙が出そうなほど痛かった。
ザクセン地方は高い山が少ない。森と、なだらかな丘と、森と、草原と、森と、街道と、森と、川。他に見えるものは、森の切れ目からたまに覗くはるか西の山と、空と、雲。それが、この辺りのすべてである。街道は小石を取り除かれた上に踏み固められ、思っていたよりもずっと歩きやすかった。この分ならミンデンに行くのもそう無茶な話ではないかも。などと思いはじめた矢先に、足の裏をジクジクとした異変が襲ってきたのだ。一歩を踏み出すごとに、焼きごてを押し付けられているとしか思えない激痛が、足の裏を跳ねまわる。痛みに耐えかね、ぶるぶると震え、ついに立ち止まってしまった。
冗談じゃない。いったいこれがどれくらい続くのか見当もつかない。ミンデンどころじゃない。やはり、無理だったのだ。足の裏から脳天まで突き抜ける痛みに涙をにじませながら、己の無力さを改めて痛感する。そんなネオに、先を歩いていたシュタイナウが引き返してきた。
「仕方ねえな、見せてみろ」
言うがままにシュタイナウの前に座り込み、ブーツを脱がされた。痛くて、とても自分では脱げなくなっていた。悲鳴をあげながらブーツを脱がされ、自分で自分の足の裏を見て、ぎょっとした。危うく、気絶しそうになった。まめ、なんてものじゃない。親指の倍ほどもある巨大な水泡が、三つも四つも浮き上がっていた。これが自分の足だなんて、信じられない。
「おーやおや、生っちろいあんよしやがって。どれ、ちっと我慢しろよ」
シュタイナウがぎらりとナイフを抜く。身を固めるネオに構わず、すっと足の裏に筋を入れた。巨大な水泡がぱっくりと開き、中に詰まっていた液体がどろりと流れた。
「っ!」
一瞬だけ鋭い痛みが走るが、しかし、じくじくと苛む感覚はやわらいだ気がする。巨大な水泡に水が溜まってパンパンに張っているほうが、はるかに痛いのだ。
「これでよし。リンネルはあるか? ない? しょうがねえな」
ふるふると頭を振るネオをよそに、ロバの背中の荷物をごそごそと探り、リンネルの包帯を引っ張りだした。何度も使っては洗ったのだろう、うす茶色の染みが残っている。
「これを使うのはイルゼ以来だな……。まあ、誰もが通る道ってやつよ」
かつてはシュタイナウもそうだったのだろうか。ふと、シュタイナウの足を見て絶句した。ブーツどころか、ぼろぼろにすり切れたモカシンではないか。ほとんど裸足と変わらない。いったいこの男の足は、いや、放浪楽師の足とは、どうなっているのか。魔法の力で足を守られているとでも言うのか。驚きに言葉も出ないネオに構わず、シュタイナウは両足をきつく巻いていった。
ぐるぐる巻きにされた足を、そのままブーツの中に押し込む。きつくなった分、ブーツの中で足が動かず、痛みは減っていた。しかし、
「安心すんじゃねえ。これからが本番だかんな」
その言葉は本当だった。
「行くぞ。今日のうちに、これまでと同じくらいは進んじまったほうがいいからな」
「!?」
これまでと同じくらい? この足で? まさか。冗談だろう? 試しに、一歩踏み出す。おそるおそる体重を乗せる。
「――っ!」
水泡がパンパンに張り詰めた痛みはなくなったものの、今度は皮膚が一枚めくられた激痛が脊髄を駆け巡った。まさか、この足で。歩けない。歩けるはずがない。
「もう投げ出すか? ふん、言わないに越したこたねえと思ってたんだが……それじゃ、魔法の言葉を唱えてやる。一発で歩けるようになる、魔法の言葉をよぅ」
「……?」
そんなものがあるのか? やはり、外の世界を旅する放浪者には、街の人間が想像もつかない魔法の力があるのか? この際、なんでもいいから縋りたい気分だった。しかし、シュタイナウはネオの胸ぐらを掴んで、顔を引き寄せた。そして、吐きつけるように言った。
「てめえがイルゼに味あわせた苦しみは、こんなもんじゃねえだろうが!」
「…………っ!」
掴んだ手を離され、ドサリと地面に尻餅をつく。頭に、血が上った。唇を痛いほどに噛んだ。涙をにじませて、しかし、両足で立った。悲鳴を上げる足を無視して、踏み出した。
その通りだ。シュタイナウの言うとおりだ。自分がイルゼにしてしまった仕打ちを考えたら、この程度の痛みでも、まだ足りない。そもそも、罰を受けるつもりでこの旅を引き受けたんじゃなかったのか。その罰から逃げてどうする。ぎり、と歯を食いしばり、シュタイナウを睨みつけた。
「ふん、ちったぁ骨のある目付きになったか? そんじゃ、いくぞ」
全身を脂汗が流れる中、しかし、耐えた。一歩ごとに雷が落ちる。その痛みをすべて受け止めた。これが罰だというのなら、なにがなんでも耐えてみせる。このまま足が一生使えなくなってもいい。それくらいの気持ちで痛みに耐えた。途中、風景に畑が混じりはじめ、右手にどこかの街の壁が見えた。しかし、そんなことを気に留めている余裕はなかった。迂闊に脚を止めては、またすぐに歩けなくなってしまいそうだったからだ。
だが、しばらく経ったころ、シュタイナウの言葉は本当だったことを悟った。さっきのあれは、本当に魔法の言葉だった。我慢して歩くうちに、足の痛みが痺れはじめ、ついにはほとんど感じなくなったのだ。足の周りはふわふわとした熱気に包まれ、歩くことにまったく苦痛を感じなくなっている。それでいて、悪化しているという嫌な感覚もない。いつしか、風景に目をやる余裕すら戻っていた。自分の身体とは思えない、不思議な体験だった。
「ネオ、見えるか。あの丘の下。川っぺりまで行くぞ。今日はあの辺りで野宿だ」
言われてはじめて、夕暮れが迫っていることに気づいた。見れば、太陽は大きく傾き、その輝きを失いはじめている。そういえば、鐘の音を随分と長いこと聞いていない。鐘に合わせて生活するのが当たり前だったネオにとって、今がどの時刻かわからないという事実は、それだけで大きな不安を掻きたてた。なぜなら、終課の鐘が鳴ったら人間の世界が終わるからだ。それまでに、いったいどれくらいの時間が残されているのか、見当もつかないのだ。
「…………っ」
ずしん、と心に重いものを感じた。今の今まで忘れていたが、ネオはこれから工房に帰ってベッドで眠るわけではないのだ。この見たこともない土地で、二人と一匹で夜を明かさねばならない。忘れていた巨大な恐怖が、とてつもない重さを持ってのしかかってきた。
「しゅ、シュタイナウさん。もう少し、進みませんか」
「お? どうした? 気合入れるのは結構だが、休まねえと身体が持たねえぞ」
「いや、そうではなくて。……もう少し歩けば、家の一軒くらい、」
「ねえよ」
にべもなく否定された。シュタイナウもネオの真意がわかり、呆れ半分、からかい半分といった表情になっている。
「だいたい、こんなところに家がポツンとあってみろ。そっちのほうが、ずっとおっかねえじゃねえか。街でも村でもない、豚飼いすらいやしねえ。こんなところに住んでるのが、まともなやつのはずねえだろ。人間だったらまだマシってもんだ」
確かに、そういった話はありふれている。道に迷って迷い込んだ一軒家が、実は幽霊の家だったとか、悪魔に食われそうになって逃げ出したら、家だと思っていたのは大昔の廃墟だったとか。なかば与太話として伝わっているような噂でも、強固な外壁に守られていない街の外では、冗談では済まされない重みをともなってくる。
そうしている間にも、空の色は刻々と変わっていく。いったい、いったい、どうすればいいんだろう。背筋が瞬く間に冷たくなり、そわそわと辺りを見回す。どこか、どこでもいいから、建物に入りたい。人間の気配のするところで夜を明かしたい。しかし、どうしようもない。
シュタイナウが指し示していた川べりにまでたどり着いたころには、風景はオレンジ色に変化していた。
「よし、この辺りだな。これから薪を拾ってくるから、ネオはここでアレクサンデルの荷物を降ろしてろ。あとは……そうだな。これ持ってろ。捨てるなよ」
押し付けられたのは、一握りのしなびた草だった。すうっとした臭いが鼻腔をつく。ハッカかなにかだろうか。
「…………」
これになんの意味があるのかを聞く余裕すらもなく、顔面蒼白のままシュタイナウを見送る。着いて行きたいところだが、シュタイナウが向かっているのは森のほうなのだ。街の近くの森ならば豚飼いや炭焼き――粉挽きと同じく、彼らもまた心許せるとは言い難い人種なのだが――もいるのだろうが、この辺りの森はどこの領主の土地なのかすら定かではない、完全に人の手の及ばぬ領域なのだ。とてもじゃないが、そんなところにまで着いて行く勇気はない。
恐怖を紛らすため、手を動かした。言われた通り、アレクサンデルの背中に積まれた荷物を降ろす。荷台を兼ねた鞍に縛り付けてある紐を解き、荷物をひとつずつ外していく。最後に鞍を外してやると、痒さに耐えていたのだろう、ようやく身軽になったアレクサンデルが犬のようにごろごろと転がり、草むらに背中をこすりつけはじめた。
触っても平気だろうか。生きているロバに触った経験のないネオは、恐る恐る手を伸ばし、アレクサンデルの背中にそっと触れた。途端に、横たわったままぐいぐいと押し付けてくる。よほど背中が痒かったらしい。アレクサンデルの背中をかいてやりながら、シュタイナウを待った。しかし、なかなか帰ってこない。まさか、夜の森に飲み込まれてしまったのでは。
森のほうを見ると、今まさに森は夜に包まれていく最中だった。奥のほうにあった暗闇が、じわりじわりと広がっている。森の木々が奥から順に漆黒に染まり、真っ黒なひとかたまりとなって、ゆっくりと迫ってくる。まるで、一直線にネオを目指しているかのように。
文字通り、凍りついた。森が姿を変える。森は夜になると、まるで怪物が触手を這わせるかのごとく根を伸ばし、その領域を広げるという。これが、その光景なのか。息を吸うことも忘れ、見入った。金縛りにあい、動くことができなかった。すでに暗闇は森全体を包み込もうとしており、闇に溶け混然となった木々が、ネオに向かって迫ってくる。ざわざわと木の根が地を這う音さえ聞こえる気がした。
「あまり見るんじゃねえ。向こうも見てるぞ」
突然の言葉に飛び上がり、我に返る。シュタイナウが大量の焚き木を担いで戻ってきていた。さっきみたいな、からかい半分の口調ではない。真剣そのものである。もちろん、疑う余地もなかった。確かに、あの暗闇の中にはなにかがいる。人間には決して手の届かない、巨大で恐ろしいなにかがいる。森が変貌した暗闇は、そう信じさせる圧倒的な存在感を漂わせていた。それこそが、森の狩魔王なのか。
逃げないと。今すぐ、ここを離れないと。泡を食うが、シュタイナウは焚き木をドサリと放り出した。
「ここいらじゃ、どこに行っても同じだよ」
まるで、ネオの心境を見透かしているようである。見ると、落ち着き払った様子で焚き木を組んでいる。
「でも、でも、森が、狩魔王が、水の悪魔も。狼だって、」
「ま、そうだな」
あっさりと肯定するシュタイナウ。火打石と火打金をそれぞれ両手に持ち、力を込めて、ジャッ! と音を立てた。たったのひと打ちで枯れ草が煙を上げはじめる。驚くべき熟練の技ではあるが、それを賞賛している余裕はネオにはない。いったい、どうやって人外の中で夜を過ごせというのか。外の世界の住人である放浪楽師なら、どうにかなるのかもしれない。しかし、ネオは昨日まではハーメルンの工房で夜を過ごしていたのだ。
「落ち着け、ネオ。……色々とな、やりようがあるんだよ」
「や、やりようって……」
「まず、夜になったら森には一歩も近づくな。川にも、これ以上は近づくな。見るのも避けろ。音もできるだけ無視しろ。どちらも、こっちが意識してると、どんどん近寄ってくるぞ」
「……っ」
ネオの喉がごくりと鳴った。
「だが、逆に言えば、こっちが相手にしなけりゃ、向こうもこっちに興味をもたない。そういうもんだ」
手際よく焚き木をくべると、めらめらと炎が上がる。とてつもない安堵感に襲われた。夜に覆われつつある中で、これほど頼もしい光はなかった。焚き火の向こう側で、シュタイナウは夜の世界の話を続けていた。
「さっきの暗闇を見たろ? お前が森を意識すればするほど、森はああやってどんどん近づいてくるんだ。だが、意識しなければ、それ以上は近づいてこないのさ」
それを聞いて、ネオは森から顔をそむけ、反対側の川のほうを向く。しかし、
「……水も似たようなもんだ、つってんだろうが」
では、どうしろというのだ。泣きそうな顔を向けるが、
「だから、相手にしないのが一番なんだよ。知らんぷりするのさ。……水妖は音で人間をおびき寄せるんだ。水の音にまぎれて子供の声やら女の歌声やらが聞こえてくることがあるが、そんなときも放っといて歌でも歌ってりゃいい」
「それでも、駄目なときは……?」
「さっきの草を絶対に手離すな。理由は知らんが、ニクセはそのマルビウムが大嫌いなんだよ。別名をホレフンドつってな、それを握りしめてたら助かったって話はいっぱいあるんだ。他にも、オレガノなんかがあればいいんだが……。よく見りゃそこいらにも生えてるだろ」
「た、たくさん集めましょう」
慌てて周囲の雑草に目を凝らすネオだが、呆れた様子でシュタイナウはたしなめた。
「だから、わざわざニクセに喧嘩売ることもねえっての。怒らせてどうすんだよ」
「でも……っ」
居ても立ってもいられないといった様子のネオに、シュタイナウは面倒くさそうに頭をボリボリと掻いた。
「しょうがねえな……。昼に食ったクーヘン、まだあるな?」
「はい」
シュタイナウが言うのは、おばさんにもらったクーヘンのことだ。昨日、なにを準備すれば良いか見当もつかないネオは、クーヘンを肩かけ鞄に大量に詰め込んでいた。鞄の中を覗きこんで大笑いしたシュタイナウだったが、これでうさぎを追いかけ回す必要がなくなったなどと言いながら、一緒に食べたのだ。
「それをひとつ、川に投げ込め。怒らせるだけじゃなくて、ご機嫌も取っておくってわけさ。本当はパンがいいんだが、まあ大目にみてくれるだろ」
そういうものなのだろうか。真っ暗な水面にひとつ投げ込むと、バシャリとやたらに大きく水が弾けたような気がした。暗闇の中で様子はわからないが、水中から妖しい腕が伸び、投げ込んだクーヘンを乱暴にひったくっていく光景が脳裏をよぎった。
「これでひと安心だな」
そうなのだろうか。しかし、恐らくこれが旅をするものたちにおける常識で、人外との付き合い方なのだろう。事実、この男は今までそうして生き延びてきたのだ。信じて従うほかない。ネオとシュタイナウも焚き火を囲んでクーヘンを噛る。空腹が満たされると、少しだけ落ち着きが戻っていた。
「もう、危なくはないんですか?」
「とりあえずは、な。森も川も、こっちから余計なちょっかい出さなけりゃ、そうそう向こうから襲ってくるこたない。……むしろ厄介なのは、人狼だな」
「……っ」
その名前だけでもぞくりとする。夜の世界を徘徊するという、知らぬもののいない怪物だ。悪魔憑きだとか、獣憑きとも呼ばれている。ネオは直接見たことはないが、ハーメルン市でも何年かにいちど出現して街中が大騒ぎになる。
「森の狩魔王に捕まったやつらさ。暗闇を見つめすぎると、さっきのお前みたいに目が離せなくなってな。そのまま森に飲み込まれちまうんだ。狩魔王に魂を引っこ抜かれると、姿は人間のまま中身を狼に変えられちまうらしい」
「シュタイナウさんも、襲われたことが?」
「何度かな。……見かけはみんなそっくりだ。毛は逆立って、目ん玉をむきだして、よだれをだらだら垂らして……馬でも人間でもお構いなしに襲ってくる。しかも、こいつは厄介なことに……食いつかれたら、そこから狼の魂が乗り移ってきやがるんだ」
それも、聞いたことがあった。ハーメルンでも昔、人狼に噛み付かれた男が、数日後に突然苦しみはじめ、正気を失い人狼になるという事件があったそうだ。人狼に噛まれたものは、人狼になってしまう。だからこそ、なによりも恐れられているのだ。
「襲われたら……どうすれば?」
「簡単だ。なんでか知らんが、森の狩魔王はニクセと仲が悪いらしくてな。人狼は決して水には近づかねえ。……俺が追いかけられたときも、川に飛び込んで助かったんだ。だから俺たちも、こんな場所に陣取ってるってわけさ」
いざとなれば、ヴェーゼル川に飛び込んで人狼から逃げるというわけか。しかし、水にはニクセがいるのではないか?
「まあ、ニクセのご機嫌が良いことを祈るしかねえが……。ニクセはパンひとつで手を打ってくれるかも知れんが、人狼はそうはいかねえからな。どうせなら、分の良いほうに賭けたいだろ?」
なかば投げやりなことを言うシュタイナウに、本当に大丈夫なのだろうかと不安げな視線を送るが、それを受け取ったシュタイナウはニヤリと笑い、続けた。
「だがな、ニクセも森も人狼もおっかねえが……正味のところ、俺たちが一番おっかねえと思ってるのは、むしろ人間さ」
「盗賊とか?」
ごく当たり前のことを聞き返すネオに、シュタイナウはくくっと笑い、
「豚飼いに炭焼き……それに農民ってところか」
「……?」
森に住む豚飼いや炭焼きは、ネオにもわからぬでもない。ニクセと取引している水車小屋の粉挽きと同じで、森に住む彼らもまた、エルフェや狩魔王と取引しているに違いないというのが、街に住むものとしてごく普通の考えだ。真偽はともかく、不気味で恐ろしい存在であることは間違いない。しかし、農民が危険? ネオが知る限り、もっとも無害な人種だ。わけがわからないと言ったふうのネオに、シュタイナウは薄ら笑いを浮かべて、淡々と語った。
「農村の連中ってのは、街には入れてもらえない、租税はがっぽり持ってかれる、かと言って、守ってもらえるわけでもねえ。ようするに、いちばんわりを食ってる連中だろ」
そういうものなのか。街の中の世界しか知らぬネオには、森やニクセと同様、まったく想像の及ばぬ話だ。
「守ってもらえず、搾取はされて、いつでも不満と鬱憤が溜まってる。そんな中に、放浪者がふらふらと迷い込んでみろ」
「でも、そんな」
まさか、小麦や野菜を作る農村の人がそんな悪人だとは思うことができない。ネオにクーヘンを焼いてくれるおばさんは、街の中に家を持つ豪農だが、その顔がちらりと脳裏をよぎる。
「勘違いすんなよ? 別に農民が全員悪党だなんて言っちゃいねえ。だが、たくさんある農村のうち、ひとつにでも悪党がいたら、ひとたまりもねえってことよ。身ぐるみ剥がされて、ぶちころされて、畑に埋められて、あとは全員揃って知らぬ存ぜぬ、だ」
「……」
「おまけに、今年はなにやらいつもと違う様子だ。ただでさえ余所者が多いのに、加えてユダヤ教徒の連中もやたらにうろうろしてやがる。きっと、農村もピリピリしてるだろうよ」
エーリッヒに聞いたこととまったく同じこと事を言うシュタイナウに、どういう意味か聞こうと思ったが、ぐらりと頭がかしいだ。話しているうちに緊張がほぐれ、身体のほうが勝手に休息を取ろうとしていたのだ。その様子を見たシュタイナウは、水の詰まった革袋を焚き火越しに投げてよこした。
「今のうちに飲んどけ。ヴァイデを煎じたやつだからクソ不味いけどな。夢魔を除けるまじないみたいなもんだが、わりとよく効くぜ?」
言われるままに苦い水で喉を潤すと、途端に眠気が襲ってきた。ひとまず森や川に飲み込まれる心配もないと聞き、安堵とともに巨大な疲労感がのしかかってきたのだ。
眠りこけてしまう前に、かろうじて声を絞り出す。ひとこと、言っておかねば。
「シュタイナウさん……。ありがとう、ございます。たぶん……僕ひとりじゃ、無理でした」
もしも、シュタイナウがいないままひとりで歩いていたら。まめだらけになった足を引きずって、途方に暮れて、なすすべもなく森の暗闇に飲み込まれていたに違いない。きっと、そのまま人狼の仲間入りしていただろう。改めて、自分がどれほど無茶な仕事を請け負ったのか、シュタイナウに同行するよう言ったアマラが、いかに的確な判断をしてくれたのかを思い知った。そして、文句を言いつつも導いてくれるシュタイナウに、感謝しないではいられなかった。ネオが今生きているのは、間違いなくシュタイナウのおかげなのだ。
「ふん。言ったろう? これは偶然だってよ。まったく、納得いかねえったらありゃしねえ。……余計なことはいいから、とっとと寝ちまえ」
照れているのだろうか。悪態をつきながらも、その言葉に棘は感じない。まぶたを開けているのに限界を感じ、羊皮のマントにくるまり、素直に横になる。薄れていく意識の外で、シュタイナウがぼそりと呟くのが聞こえた。ずいぶんと穏やかな声だった。
「だが、まあ、なんだ。初日にしては、上出来ってとこだな。……よくやったぞ、ネオ」
その言葉が、奇妙に嬉しかった。今日の苦労のすべてが報われた気がした。それを最後に、ことりと意識が沈んだ。