罰
「それで、私のところへ逃げて来たというわけかね」
「……」
エーリッヒ神父は呆れつつも、しかし、いつもと変わらぬ穏やかな様子でネオの懺悔を聞いてくれた。それがまた、辛かった。なんという馬鹿なことをしたのだと、思い切り怒鳴りつけて欲しい。そうして、ほとんど消えかけたこの心を、木っ端微塵に吹き飛ばして欲しい。心底、そう思っていた。
なにもかも、間違いだったのだ。ブーツを作ったことも。駱駝革を受け取ったことも。そもそも、イルゼの足を治したいなんて、今になって思えば、なんておこがましい。どうして、そんなことを思ってしまったのか。いや、なによりも、どうして、一度たりとも気づかなかったのか。たとえ、気づかないとしても、足の怪我が「必ず治るもの」とは限らないではないか。どうして、この可能性が、頭の片隅にちらりとさえ浮かばなかったのか。
告白を終え、なかば呆然としているネオに、エーリッヒ神父は努めて冷静に声をかけていた。
「放浪楽師に危害を加えられたとあれば、ハーメルン市の名において制裁を下すこともできるだろう。……が、その様子では、そんなつもりはなさそうだね」
エーリッヒの言う通り、ネオの顔は頬から目にかけて青く腫れ上がっている。シュタイナウに殴られたのだ。それも、二回。
――ゴギンと鈍い音とともに火花が散った次の瞬間、視界がぐるぐる回った。それが止まったと思ったら、ネオもまた馬糞まみれになって、厩の地面に転がっていた。それで、はじめて殴られたことに気づいた。やり返す気力も、抵抗する気力も、まったく湧いてこなかった。誰に殴られたのかを考える気にすらならなかった。シュタイナウが怒りもあらわに大声で罵っていた。
「このガキ! よりによって、なんてものを! なんてものを……っ! ネオ、てめえ! 昨日、イルゼの脚のこと、ちゃんとわかってるって言ってたじゃねえか!」
「だって……だって、まさか、足が、足が、」
ないなんて。脚が、まるごと一本、ないなんて。情けなく震えながらイルゼの方を見る。イルゼはすでに、スカートの中に右脚を隠していた。いや、右脚ではなく、右膝のあたりから生えていた椅子の脚のような木の棒を、ネオの目から隠していた。さっきまでほのかに紅潮していた愛らしい顔は、いまや目を伏せて羞恥に震えている。今にも泣き出しそうだった。いや、泣いていたかもしれない。それを目に入れる前に、追い打ちの鉄拳が叩きつけられた。一切の容赦がなく、再び火花が散って視界がぐるぐると回った。
「まさかもクソもあるかっ! 見りゃ、わかるだろうがっ!」
シュタイナウが吼える。拳の痛さよりも、その言葉のほうがはるかにこたえた。本当に痛かった。耐え切れないほどに、心を打ちめされた。
本当に、本当にその通りだった。見ればわかるはずだった。つまるところ自分は、イルゼのことなど、まったく見ていなかったのだ。よりによって片脚がない少女に、なにが「いちばん必要なもの」だ。いったい、どれほど陰湿で、どれほど残酷な嫌がらせだ。
ちょっとでも注意して見れば、確実に気づけたはずだったではないか。いや、そもそも、足を治してあげようなどと思ったのだ。まず本人の足がどんな状態なのかを、前もって調べておくのが筋ではないか。
――イルゼの脚のこと……わかって言ってるんだろうな?――
昨日、シュタイナウが聞いた意味をほんの少しでも考えれば、こんな事態は防ぐことができたはずだった。どうして、確かめなかったのか。ほんのわずかでも、調べようという気が起きなかったのか。
なんのことはない、ようするに自分は、イルゼの足などにはまったく興味がなかったのだ。単に自分の靴作りの腕前を発揮できる場を見つけて、そしてその相手が可愛らしい女の子とあって、一人で勝手に舞い上がっていただけだったのだ。そのことを思い知らされた。思い知らされるまで、自分自身そのことに気づかなかった。その事実が、なおさら辛辣にネオを苛み、徹底的に打ちのめした。
気がついたら、ボニファティウス律院で懺悔していた。どうやら、すべてを放り出して逃げてきたようだった。
「ネオ君、君はまだ若い。失敗を糧にするのも、若さの特権だ。……君は、今回の失敗で成長すべきなのだ。そのための試練を与えられたのだよ。……あの革をネオ君に託したことが間違いだったとは、私は決して思わんぞ。すべては、主の思し召しによるものだ」
こうして悩める者の行く道を照らすのもまた神父の役目ではあるが、さしもの神父の言葉も、ネオの心を照らすには至らなかった。あまりにも、落ち込んだ奈落が深すぎた。
「神父さま、すみません。すみません。ぼくは、ぼくは、」
「ううむ。謝る相手が違うのではないかね」
謝るばかりのネオに、ため息混じりにたしなめてくる。
わかってる。わかってる。でも、今更どうやってイルゼに会えばいいのか。今更、どうやって謝れというのか。見当もつかない。いや、なによりも、怖い。自分は、あの少女の尊厳を引き裂いて踏みにじったのだ。ずたずたに傷つけられたイルゼの姿を見るのが、とてつもなく怖い。彼女の涙を見たら、きっとそれだけで自分の魂は粉砕され、生きながらにして地獄に落ちてしまう。ゆえに、至極当然のことを言うエーリッヒにもなにも言い返せず、身じろぎすらできず、ただただ手を組んで、懺悔の姿勢で固まるのみだった。
「ネオ君、胸に手を当てて、自分自身に聞いてみたまえ。……君は今、なにをしたい?」
「……消えたいです」
情けない言葉に限って、ほとんど迷いなく出てきた。しかし、今、これ以上の言葉が見つからない。事実、消えてしまいたい。
靴屋としての喜びも、誰かの役に立てる喜びも、すべて幻だった。靴屋だの職人だの以前に、人として、もっとずっと大切な当たり前のものが、ネオには抜け落ちていた。消えてしまいたい。イルゼの記憶から消えてしまいたい。自分自身の記憶からも、消えてしまいたい。空気になりたい。心底、それが今のネオの気持ちそのものだった。
ふむ、とエーリッヒ神父が白い顎髭を撫でる。なにを思ったのか、唐突に言った。
「では、消えてみるかね」
「…………え?」
「しばらく、この街から消えてみるのも、悪くないのではないかね?」
「……」
また、その話か。こんなどん底の状態で言われても、まともに考えることすらできやしない。しかし、心がくたびれきって、なにもかもが億劫になっている今、エーリッヒの申し出を跳ね返すほどの気力も湧いてこなかった。
エーリッヒは良いアイディアだとでも思ったのか、強引に話を続けていた。
「どうやら、今の君に必要なことは、慌てて失態を取り戻そうとすることではなく、まずは気分を変えて、落ち着きを取り戻すことのようだ。そして、私はひとつ、とても良い気分転換を提案できるのだが、どうかね?」
「……はあ」
もう、煮るなり焼くなり好きにしてくれ。そんな投げやりな気持ちが湧き上がる。いっそのこと、駱駝革をだいなしにした罰としてミンデンまで行ってこいと命令してくれたほうが、ごちゃごちゃと考えなくてすむ。ああ、そうだ。これは罰なのだ。傲慢で軽率な行動の末に、駱駝革どころか一人の女の子の尊厳をずたずたに引き裂いてしまった。その罰として、ネオは街の外に放り出されるのだ。
罰を受けることができる。そう思うことで、少しだけ心の痛みが和らいだ。衝撃的な出来事を前に、街の外の世界に対する恐怖が少しだけ麻痺しているというのも、それを手伝っていた。
「では、決まりだな。……なに、心配することはない。ミンデンは近くはないが、旅慣れた者なら三日程度の距離だ」
「……はあ」
旅慣れた者で三日なら、自分だとその倍はかかるのではないだろうか。
いかにもやる気なさげなネオをよそに、エーリッヒは次々に話を進めていた。どこまで準備していたものやら、手際よく羊皮紙の束を渡してくる。
「ミンデン市長とハンザ同盟への手紙はすでに用意してある。あと、地図だ。もっとも、北門から街道を川沿いに進めば、よもや迷いはすまいが……リンテルン市を抜け、シャルクスブルクの砦まで行けば、もう着いたようなものだ。街の門や橋で止められるだろうが、この書状を見せればすんなり通れるから、その点は安心したまえ」
どれも、ひとつでも欠ければ身動きの取れなくなる重要なものだ。それらを、ほとんど一方的にネオに押し付け、勝手に話をまとめてしまった。
前にあれだけ頑なに断ったというのに、ハンザへの手紙まで用意されている。ということは、やはり最終的にはネオに頼むつもりで準備していたのだろう。そんなところへ、ネオは転がり込んできたのだ。これ幸いとばかりにこういった流れになるのは、当然だった。
覇気のないネオだが、しかしミンデンまでの地図には興味を惹かれた。ハーメルン市の西側をかすめて南から北へと流れるヴェーゼル川。それは曲がりくねりながら、北西へ北西へと向かっている。ヴェーゼル川に沿って、建物の絵とともにハーメルンをはじめ、リンテルン、シャルクスブルク、そしてミンデンと書き込まれていた。
見慣れたヴェーゼル川が、きわめて巨大な流れのほんの一部であることを知った。というより、今までそんなことを考えたこともなかった。改めて、ハーメルン市の外には未知の世界が広がっているのだと実感させられた。そして、そこへ放り出されるということが、たった今、決められてしまったのだ。
しかし、確かにこのまま落ち込んで腐っているよりは、いくらか心も軽くなりそうではある。問題は、無事に役目を果たし、生きて帰ってこれるかどうかだ。いや、イルゼにしてしまった仕打ちを考えたら、これは受け入れるべき罰なのだ。もしも、途中で狼にでも食われて死んでしまったなら、それも天による裁きなのだろう。キリスト教に熱心ではないネオだが、自然にそう考えることができた。拒絶する気はみるみる萎んでいった。
「いいんですかい?」
律院を出てきたネオに、壁に寄りかかっていた青年がやぶからぼうに話しかけてきた。どうやら、さっきの騒ぎのあと、逃げ出したネオについてきていたらしい。そのまま、今のエーリッヒとの会話も盗み聞いていたのだろう。
いいもなにもあるものか。さっきの無様な失態を見られたという恥ずかしさもあり、なにも言わず工房へと向かう。明日には出立するのだ。今から準備をはじめなければ。叔父には、市参事会からツンフト経由で話を通しておくそうだ。市参事会からの要請とあらば、叔父には文句の付けようもあるまい。
なんの用があるのか、ティルは後ろを付いてくる。
「まあ、止める筋合いはありやせんが……なにかと、急ぎすぎな気がしやすがねぇ。とりあえず一日頭を冷やしたら、ネオさんもイルゼ嬢も、落ち着いて話せるんじゃないかと思う次第でして、はい」
あるいはそうなのかもしれない。しかし、紐で束ねられた一連の書類が、すでにネオの手にある。エーリッヒの手際を考えれば、今頃は市参事会にも連絡が回っているだろう。今更、やっぱりやめますなどと言い出せるものではない。しかし、確かにこのまま黙って行くのでは、なにか筋が通らない気がするのもまた事実である。
不意に振り返った。
「ティルさん」
「はいな」
「さっきは、見苦しいところを……ご迷惑を、おかけしました。……イルゼさんには、必ずきちんと謝りに行くので、少しだけ時間をくださいと……そう伝えてもらえますか」
「合点でさ」
言うが早いか、ティルはすぐさま旅籠の方へと駆けていった。つむじ風のような青年だ。ともかく、ティルにことづけを頼んだことで、完全に腹が決まった。まずは、ミンデンに向かおう。無事に帰ってこれるかはわからないが、帰ってこれたら、きちんと彼女に謝ろう。なんと言って謝れば良いか、今はまだ見当もつかない。だから、そのための言葉を探すつもりで、ミンデンに向かおう。
よく晴れた空を見上げて、目を閉じた。五月の冷たい風が、いまだひりひりと痛む心に気持ちよかった。いつの間に時間が経っていたのか、今更のように六時課の鐘が鳴り響いていた。