5 来たるべき未来
麻依には、二人の「仲間」が居た。生徒会役員というだけではない。「訪れない夏休み」「繰り返す生涯」という記憶を持つ、仲間。
そのうちの一人、光本希未と呼ばれた女生徒が、消えた。麻依の目の前で、何かに飲み込まれるかのように肉片ひとつ残さずに消えた。
そしてもう一人は――。
自分の事を「この世界には存在しない者」であると言い、ここに在る目的は「『ナギ』に会いに来た」のだと片瀬正行は、そう告げた。
意味が、解らない。
「この際だから言っておくと」
と、正行が苦笑まじりに言う。
「もう一人、佐藤雄介もね。僕や光本さんと同じ」
「……成美の彼氏?」
悪びれもせずに頷く正行に、ついに麻依はキレた。
「それってさ、みんなして私の事騙してたって事だよね?」
成美の従兄で同居人、成美の親友、そして成美の現在の彼氏。その三人共が「本来存在しない筈の者」だと言うのなら――何らかの悪意があって、麻依と藤本成美を引き離したとしか思えない。
「私と成美が、ついに接触してしまったから。だから光本は、嫌がらせで……」
「勝手な憶測は、彼女に対して失礼だと思う」
裏切り者のくせに、全く態度を変えない正行に、苛立つ。
「もう、いいよ」
苛立ちにまかせて、告げた麻依の言葉の八〇パーセントは本心だっただろう。
「仲間だと思っていた。でも、私が間違っていた」
正行は、弁解しなかった。だから、麻依も言葉を止める事が出来ない。
「裏切り者。あんたも、とっとと消えちゃえばいいんだ」
その麻依の体が、抱き締められた。ふわりと鼻孔をかすめた、正行の髪の匂いに硬直する。汗の匂いに混じった、男の子の匂い。
「悪いけど、それは聞けない」
驚きのあまりに声も出せない麻依の耳元で、正行は告げた。
「もう、時間がないんだ。光本さんだって解っていた。だから、焦ったんだ」
「何?」
「ごめん」と言って、正行が手を放したので、慌てて麻依は三歩ほど後退した。心臓が破裂するほど高鳴っていて、とてもうるさい。
裏切り者だって解っているのに、何故か彼の告げる言葉は嘘ではないと思える。今までも、これからも。
「弁解するつもりはないけれど、僕たちは許される限りの最善の選択をしたつもりだし……今、光本さんがやった事は、君にも許された選択の一つなんだ」
思い当たる事があったので、頭を振って脳裏に浮かんだその言葉を否定する。
「私は、そんな……」
「一度ぐらいは思ってないかな? 『死にたい』って」
そんなこと、何度だって思った。十五歳の夏休みが近づくにつれ、考えた。「いっそのこと、死んでしまおうか」と。
自ら死を選ばなかったのは、死んでも同じだという諦めがあった事と、その一歩を踏み出す勇気がなかった為。
「でも、私は……」
(私は、未来を諦めろって言ったわけじゃない)
光本希未は、確かにそう言った。
「光本は、何を諦めさせようとしたの? 私は、あなたたちにとって、何なの? 何がしたいの?」
「光本さんは、多分、壊すことで終わらせたかったんだ。この、終わらない――シナリオを」
ゆっくりと、言葉を選んで告げられた正行の言葉は、やはり麻依が納得できるものではなかった。
「シナリオって! 片瀬くんまで……」
時にはゲーム感覚で生きているように見えた、光本希未。その態度や言動が、麻依は堪らなく嫌だった。正行も同じことを言い出すのかと、眉をひそめる。
「今を生きる人間の、一人一人の選択の結果、綴られたシナリオ。それを、歴史という」
まるで、雷に打たれたかの衝撃があった。
頭に上った血が、また一瞬で下がるのが解った。体全体の水分が干上がったかのように、喉がからからに乾いて、うまく声が出せない。
「歴史」
口にすると、何故か震えが止まらない。多分に、麻依は恐れていた。いや、畏れていた。
「それはとても大きな流れで、僕らには変えることなんか出来ない。ちょっとした干渉は出来ても運命は変わらない。そうだっただろう?」
そうだ。三人がかりで、足掻いた。
だが、ちょっとのほころびなど、すぐに修復されてしまう。
片瀬正行という在るはずがない存在が現れても、適当に調整されてしまうだけだった。
何故なのか、実は不思議に思っていた。未来を知っているのに、干渉出来るのに、未来は変わらない。
でもそれが、「定められた事」なら、定められた道筋に向かっての力が働くのは、当然かと思われた。
あくまで、今が「過去」と仮定するならば、だ。
そこまで考えた所で、麻依はやっと思い当たる事が出来た。「この世界には存在しない者」と告げた片瀬正行が、どこから来たのか。
「さっき、最善の選択だって、言ったよね? それは私と、成美を引き離す事が?」
「違う。君と一緒に足掻いてみる事が。君という存在を奪って、彼女には寂しい思いをさせたと思っているよ。実際」
だからと、正行が付け加えた。
「覚悟だけは、解ってもらえないかな?」
実際、何を信じて良いのか、もう麻依には解らない。
それでも、と。
あくまで真摯な彼の言葉だけは、嘘ではないと思えた。
「だったら、どうすれば良いの? どうすれば、運命が変えられるの?」
「歴史を変える事が出来るのは、『ナギ』だけだ。だから僕は『ナギ』に会う。そう、決めたんだ」
歴史を変えたいと願っている、多分、遠い未来からの来訪者。
でも、ここは未来のない世界。そう考えると、不思議だった。
「だから、そのナギって何?」
麻依の質問に、正行は少し遠くを見るような目をした。何かを思い出したかのように、小さく首を振る。
「人間だよ。多分、誰が見ても普通の、人間。そして、ただ一人の歴史の干渉者」
「片瀬くんは、ナギに会って、どうするの?」
「訪れない『明日』なんか、ない。それを伝えたい」
胸が、痛んだ。
それは、麻依がとても切望していた言葉だったから。ずっとずっと、欲しかった言葉だったから。
不覚にも涙が湧きそうになったので、慌てて上を向く。
「ナギは、何処に居るの?」
「運命の時に、出現する」
その時がいつなのかも、麻依には解っている。
「私も、居ていいかな。そこに」
顔を正面に戻したら、正行の驚いた顔がそこにあった。
「この、現状を何とか打破したいんでしょ?」
少年が、頷いた。
だから、麻依はやっと笑う事が出来た。
ちゃんと笑顔が作れたかどうかは、解らないけれど。
「だったら、私と同じじゃない?」
麻依が差し出した右手を、正行の右手が掴む。
シェイクハンド。
そうして、麻依は決めたのだ。未来を、諦めない事を。
「さて、皆さん」
そこから始まった、物語に関する薀蓄。
国語教師の長々とした御託を綺麗に聞き流し。
チャイムの音と共に「起立」と告げる。
教師がため息をつきながら教室を後にした所で、藤本成美が麻依の元に駆け寄って来た。
「葛城さん。補習の日程なんだけど……」
「あ、そうそう。皆さん、補習の日程が掲示板に張り出してありますので、各々、チェックお願いしますね。それと、補習の後に勉強会が……って、聞いて下さい!」
いつまでもがやがやとしている教室に、麻依の怒声が響く。
「補習の後に勉強会を行っています。参加自由ですので、お気軽にご参加下さい」
今日は、一学期最後の授業。
そして、明日は終業式。
待っていた時が、訪れようとしていた。
「訪れない明日」などない。未来は、手繰り寄せなければならない。
片瀬正行は、そう言った。その言葉を、信じる事に決めたのだ。
きれいな夕日が、校舎をオレンジに染めていた。
そこに、一礼。
少しだけ、厳かな気分で。
「一九九九年、七の月」
正行の声に、振り返る。
「空から、恐怖の大王が降り立つであろう」
「不謹慎」
自分の声が「涙声」だった事に、少し驚く。
そんな麻依の髪を、彼はくしゃりと掴んだ。
「何?」
正行は、困ったように麻依を見た。
「君が、泣きそうな顔してるから」
「いや、それはあんただ、あんた」
麻依は知っている。正行はとてもセンチメンタル。
「あなたって、実は水曜日生まれでしょう?」
と、正行が不思議そうに顔を上げる。
「マザーグース?」
「あ、読んでたんだ」
1800年代に英国で編纂された童謡集を、麻依は、好んで読んだ時期があった。だから、自分は「木曜日生まれ」だと、ずっと思っていた。
道は、今でも遠い。
「私は、木曜日生まれだと思っていた。でも、実は月曜日生まれだった」
「なんだそれ。自慢?」
軽く笑って、少年が、麻依の肩を抱く。
「私たち、間違ってないよね?」
気づいていた。
さっきから、震えが止まらない。そんな麻依の肩を抱いた少年の手もまた、激しく震えている事に。
「間違っていても、別にかまわないと思うんだけど?」
笑おうとした。だが、きっと麻依の顔は泣きそうに見えただろう。
「やっぱり、あなたは、水曜日生まれね」
手をつないで、待つ。
運命の時、『ナギ』が現れる時を。
夏の夜明けに輝く、オリオン座。
冬の星座の代表格であるオリオン座は、夏のこの時間にだけ見る事が出来る。
射手であったオリオンは、真夏にサソリの棘を受けて、死んだ。
だから夏のオリオン座は、サソリから逃げるように、この時間だけ姿を見せる。
「知ってる? 片瀬くん。近いだか遠いだか解らない未来に、オリオンの左肩がなくなっちゃうんだよ」
知っているよと、片瀬正行は告げた。彼のこういう所が、実に可愛げがないと麻依は思う。
たまには譲れば良いのに、と。
「ベテルギウスが、超新星爆発をするって。何年か前の記事で読んでね。私、毎日のように観察していた。本当よ。私、この世界にちゃんと生きていたし、その記憶もあるの」
これが、現実。
地上からは、きっと星空は見えない。
「緊急避難警告」の元に、緊急避難をした麻依たちの目の前には、東の空のオリオン座が輝いている。
「ベテルギウスが超新星爆発をすると、空には二つの太陽が浮かぶと言われている。最大級の太陽光フレアが降り注ぎ、人間にも多大な影響を及ぼすと予測される」
そう告げられたから。
きっと「今」もベテルギウスはオリオンの左肩を飾っているのだろうと麻依は思った。
地上では、こんな星空なんか見えない。
だって、東京を中心に雲に覆われ、黒い雨が降り注いでいる筈だから。
これが、明日――今となっては、「今日」だ。
白い光に包まれて、街は死んだ。
大人も子供も、一瞬で命を落とした。
麻依も、そして手をつないだ正行も同じ光に包まれた筈。でも、麻依も正行も生きている。
なぜならば、麻依たちは『歪み』だから。この世界にありえない存在でありながら、『異物』と認識される事がない存在。
時間によって『排除』されない。特別な存在。
時間旅行者。
この世界に在って、この世界に在りえない。ただ、歴史を見聞することを目的に訪れた、来訪者。
「夏のオリオンを見たのは、初めて」
夜明けの薄紫色の空に浮かび上がるオリオン座は、なんだかさみしい。
「きっと、見たくなかったんだ。私」
ゆっくりと、正行の手が麻依の肩に伸びる。
「ごめん」
告げられた言葉に、麻依は首を振った。
覚悟の上だった筈だ。
でも、覚悟の上で手繰り寄せた「明日」は。麻依の覚悟を大きく超えるものだった。
そこにあるのは、残酷なまでの現実。
焼き尽くされた、都市。
首都圏に住む人間の命の多くが、一瞬で失われた。
麻依は知っている。
それが、輸送機の墜落――を装った自爆テロであった事を。
地下核実験施設を狙って放たれたそれは、首都圏に恐るべき被害をもたらし、死の灰が関東全域に降り注いだ。
混乱する情報に翻弄され、混乱を極めた一日を、後の歴史は「空白の日」と呼ぶ。
そして、大混乱の末に政府が発表したのは、実際に起こった「核実験施設の事故と、地下核実験の失敗」だった。
どの国からどのような圧力が働いたのは、様々な説があるが憶測に過ぎない。重要機関を多く置く首都を一瞬で失った政府は状況を把握しきれず、報道は入り乱れており……情報収集に時間がかかった上での「泣き寝入り」と、なった。
炎に包まれた街を眼下に置いて、麻依の脳裏に浮かび上がる光景があった。
(醜い)
初めて知った現実に、酷く心を痛めていた少女が存在した。
(真実なんて、こんなものよ)
そう答えた少女は、光本希未に良く似た顔をしていた。
(私は、認めない。何のために多くの人が死んだの? このひどい現実に、何の意味があるの?)
(それでも、この首都壊滅があったから今の日本がある。でしょ?)
そうやって、諦めるのか?
夏休みを待っていた女の子が居た。
友人と同じ学校を受験するのだと、夏休みにすべてをかけるのだと息巻いていた、女の子が。
誰もが、小さな夢と望みを抱いて、未来に向かっていた。それが全て、失われたのだ。
どうしても、許すことが出来なかった。この――過去を。
だから……少女は再びタイムマシンを起動させたのだ。
「空白の日」を、消すために。
凪。
海風が陸風に変る時、風は止む。
そう。今みたいに。
「片瀬君は、やっぱり嘘つきだね」
片瀬正行は、答えなかった。ただ、いつものようにどこか困った笑みを浮かべただけだった。
「私が、ナギなんでしょ? 私が、この世界をリセットしちゃったんでしょ?」
凪。
風が止まる。
明日は確かに訪れたのに、夜はまだ明けない。
東の空のオリオン座。
七月には、オリオン座を見ることが出来ないと聞いていたのに、今、麻依はそれを見ている。
それを彼が見せてくれたのだと、麻依は気づいていた。
「嘘つき。干渉できるんじゃない」
許される筈のない、罪。この繰り返される現実が罪に対する「罰」であったのならば。
それが終わる時がどんな時か、考えなくても解るから。
「フェイドアウトでも、良かったのに」
くすんと笑った麻依の身体を、少年が抱きしめた。
「ひとつだけ、教えて。私が望んだ未来で、あなたは幸せだった?」