1 邂逅
「さて、みなさん」
国語教師は、一冊の本を掲げて告げた。
「この物語は、この作者が描いた幾多の物語の中でもひときわ雄大でファンタジックで、奥が深く、素晴らしい傑作です。たかが童話だろうとか思わず、夏休みの間に一冊、読み終えておいて下さい。文庫版も出ていますので、大した出費にはなりません」
ざわりと、教室の空気がどよめく。「オチ、知ってるし」とか「この時期に?」とか。
そう、この時期に、この教師は三年生に毎年同じ課題を出すのだ。
「みなさんがこの物語にどのような感想を抱くのか、とても楽しみです。では、この授業が今学期最後の授業となります。みなさんにとって多忙な夏休みとなりますが、一冊の童話を読むという心の余裕ぐらいは持って過ごしてください」
教師の言葉が途切れたと同時に鳴ったチャイムの音。葛城麻依は即座に告げた。
「起立」
クラス全員が椅子を引く、いつもの騒音。
国語教師は、小さくため息をつき、生徒たちに返礼をした。
数年前からの「世紀末」ブームは、すっかりなりを潜めてしまっている。
特別な事など、何もない。あと半年も経てば、新しい年が明けるのだと、誰もがその準備に入っている。
それは、中学三年生の麻依たちだって同じ事。「世紀末」だの「世界がおわる」だの、そんなものは受験の後で笑えば良い。
対策は、練った。弱点も克服できている。あとは、志望校に向かって、ラストスパート。
そういう時期なのだ。中学三年生の、夏休みとは。
そんなに切羽詰った時期なのに、国語教師はいつもの宿題を出すのだ。
「夏休みに読書? うちらは、小学生か!」
親友の藤本成美が、大仰に肩をすくめた。
「勇次先輩に聞いたんだけど。一ノ瀬は、いつもそうなんだって。三年生の夏休みには、『銀河鉄道の夜』。恒例行事ってやつ?」
広村勇次は去年の生徒会長で、麻依にとっては勉強を見てもらえたり、貴重な情報をもらえるとてもありがたい存在であり……ありていに言えば、現在の「彼氏」という事になる。
「らしいね。ああ、うざーい」
うん、と、伸びをしながら唸る、成美。
その一言が、ひっかかった。
「『らしいね』?」
念のために確認する。
振り返った成美は、少し変な顔をした。
「うん? 何?」
「いや、誰に聞いたのかなって思って」
今の成美の発言は、予定にないものだった。だから、麻依には検証をする必要がある。
(一ノ瀬は、いつもそうなんだって。三年生の夏休みには『銀河鉄道の夜』)
(そうなの? ああ、うざーい)
(ちなみに、冬休みには感想文を書く本を自分で選べって言われるんだって。信じられる? この時期にだよ)
そう続く筈だった、会話。
「誰って、アニキが」
「兄貴?」
ますます、訳が解らない。
成美は、一人っ子だった筈だ。
最初に、家族構成を聞いた筈――それとも、聞いていなかっただろうか? そのあたりの記憶は、曖昧だ。どこからが「今、生きている時間」なのかが、よく解らなくなって来ているから。
聞き流しても良かったのかも知れない。でも、これはもしかしたら、とても大切な事かも知れないのだ。だから、何気なさを装って、尋ねる。
「成美、いつからお兄さんができたの?」
成美は笑った。
「あ、いやアニキみたいな奴? ちょっと前から、うちで居候をしていて……うちの卒業生と知り合いで」
成美曰く、少し前までアメリカに住んでいた従弟が、一か月ほど前から成美の家で居候をしているらしい。
初めて聞いたその話に、麻依は胸の高鳴りを感じた。
その「アニキ」とやらに会いたいと、会ってみたいと思う。
「今も、その人は成美の家に居るの?」
「どうだろう? なんか、いつも何をしてるかよく解らない奴だからなぁ。って、麻依、アニキに興味あるの? 勇次先輩に言いつけるよ?」
「やだな。そんなんじゃないよ」
会ってみたい。会えば、もしかしたら――
そこまで考え、麻依は小さくため息をついた。軽く、首を振る。
会えたところで、どうなるというのだろう。
もう、遅い。時間がない。
今日は、夏休みの前の最後の授業。
そして、明日は終業式。
全校生徒が校庭に集まり、校長の挨拶やらなんやらを聞く事になる。
いつもの顔ぶれが貧血を起こして。――そこまで考え、苦笑する。
麻依も、最初の年は貧血を起こしたのだったか。
学友の手を借りて医務室に運ばれ、「校長、死ね」とか――今にしてみれば非常に不謹慎な事を呟いた筈だ。
あれから、どれぐらいの時間が経ったのだろう。
いつまで、繰り返すのだろうと、麻依は思う。
目を閉じれば、思い出せる。記憶。
光に包まれ、終わる。
実際に、何が起こったのかもわからない。悲鳴すら、上げられず、ただ一瞬で、ジ・エンド。
きっぱりすっきり、それでおしまい。なーんにも、なくなりましたとさ。
そんな、見事すぎるほど見事な最後なのに……。
今、こうしている間にも、確実に「その時」に向かって時計は時刻を刻んでいる。
それでも。
麻依は、再び生まれ、そしてこの時を繰り返す。
もちろん、麻依だけが生まれ直しているのではない筈だ。でも、少なくとも他の人々は麻依のように「前世」の記憶を持っているわけではない。
だから、まるでコンピューターゲームのNPCのように同じことを繰り返す。
違う反応が出のは、麻依が別の選択をした時だけ。
そう。例えば――「生徒会役員」に立候補したり、勇次先輩と特別な関係になったり。
でも、運命は変わらない。
――明日。
とてもきれいな夕日の中で。
すべてが終わる。
その運命は、変えられないのだ。
「麻依、なんか暗いよ」
成美の言葉に、麻依は慌てて目頭をチェックする。
泣いていなかった事に、安堵した。
「うん。実は、成績に自信がない。この間の模試の発表が怖くて」
「うんうん。お母さん、厳しいんだったね。でも、それあんたが言うと、嫌味にしか聞こえねー!!」
麻依にしれみれば、成績トップなんか、当たり前だ。何度、同じ授業を受けていると思っているのだと、苦笑したい気分だ。
でも、そんなこと言えるわけがない。
そう、明日になれば終わってしまう、この世界に生きた、成美に。
「うち、高校は麻依と一緒の所受けるつもりだから、夏休みは補習プリーズ」
また、予定にない言葉だ。
だが、その言葉があまりにおかしくて――だからと言って、笑えるものでもなかったので、ただ軽く苦笑する。
「えらく、気合入ってるね。元々はS校希望じゃなかったっけ?」
「アニキの奴がさ、S校ごときに入学したところで、お先見えてるなんて言いやがったのだ」
また「アニキ」かと、やはり気になる。というか、成美はその「アニキ」がすっかりお気に入りのようだ。
「そのアニキに見てもらったら? 勉強」
「いや、それをすると負けを認めた事になる。おいら、あいつには絶対に負けん!」
成美は、いつも明るくて。こういう時にはとても助かる。
自然に、次の言葉を紡ぐことが出来るから。
「……それは、大変だ」
「そう、だから、我が校きっての才女にお願いしてるんよ。うちを、どうか同じ高校に合格させてって」
そんなの、意味ないよ。そう言うのは簡単だったけれど、麻依は別の言葉を吐いた。
「よっしゃ、ついて来い。死ぬ気でがんばれるか?」
「死なない程度にがんばる!」
にいっと、成美が笑う。それが、胸に痛かった。
「うち、合格するまで、死ねないからね」
成美と別れて家に戻り、自室に戻って、麻依はやっと笑った。だが、自分の耳に入るその笑い声は、まるでしゃくりあげているかのように聞こえた。
おかしい。おかしすぎ。
「何を言ってんだ。この馬鹿」。そう、言いたくなる。
「あんたも、私も、終わるんだよ。どんなに綿密に計画を練っていてもね、無駄なんだよ」って。
「明日で、すべてが終わっちゃうんだよ」って。
どんなに頑張っても、あがいても、この事実だけは変わらない。
「死にたい」
呟いたのは、本音だった。
だが、その呟きにまた、笑いがこぼれる。
おかしい。ああ、おかしい。「死にたい」だなんて――ほおっておいても、すぐに死んじゃうのにね。
ほら、もうその時は刻一刻と近づいている。
明日は、終業式。
でも、自分たちに「夏休み」は訪れない。
「何の罰だよ」
祈りは、届かない。滅びを知っていても、止めることはできない。
せめて、誰かが居れば。
相談できる人が居れば。
麻依は思う。
思いもむなしく、夜は明け、終業式の日を迎える。
ため息をいくつも吐き出し、家を出た。
眠れなかったせいだろう。久しぶりに貧血を起こした。
でも、「校長、死ね」とは言わない。そんな言葉は二度と吐けない。
図書館で、成美と共に明日からの対策を練り――顔色が悪いからと、早めに切り上げようとした成美をあえて引き留めて、夕方になってから解散した。ふらつきながら、公園に向かった。
「最悪」
こんな、体調不良が最後の記憶かぁ。
自業自得を、嗤う。
と、ふいに陰った。
誰かの影だ。後ろに、誰かが立っている。
「葛城 麻依さん?」
振り返る。
逆光で顔がよく見えない。でも、男の人だということは解った。
「間に合った」
「やっと、見つけた」
そう言って、背の高い少年が手を差し出す。
夕日に映し出される、知る筈がないのに、なぜか懐かしい気がする、少年。
そして、なぜか理解できた。
やっと出会えた。そう思った。
「成美の家の、居候?」
「そう。僕は片瀬正行。よろしく、そして……」
差し出された手を、取る。
「その時」は迫っていた。
「また、会おう」
頷いた、その時。
衝撃よりも先に、光が届いた。
まばゆい光明の中で、何も見えない。聞こえない。
体は散り散りに飛ばされ、自分が死んだ事を理解する。
何が起こったのかは、今度もやはり解らなかった。
一九九九年七月二〇日 世界は消えた。
(オメデトウゴザイマス)
(オンナノコデスヨ)
(アリガトウ)
ノイズたちが、頭の中に響き渡る。とても煩い。
それ以上に煩いのは、自分の喉から出て耳に反響する泣き声だったのだが。
(オンナノコダカラ、マイ)
(麻依)
呼ばれた瞬間から、生まれたての赤ん坊は自我を得る。
そうして、葛城麻依という名の人生を歩みはじめる。
残り十五年の人生の、カウントダウン。それが、始まりだった。
朝食は、トーストとフルーツジュース。
たまに、カットトマトや目玉焼きが食卓に上がることもある。ごくたまに、だが。
同じ毎日。
普通の中学生なら、それでも毎日が新鮮だったのだろうな。そんな事を考えながらパンを齧って、ジュースで流し込む。
いつもと同じ朝のようだが、今日は違う。なんといっても、中学校の入学式なのだ。
それなのに、わくわくとすることもない自分が、少し残念だ。
どういう中学生かと、自分でも苦笑したくなる。
同じ、毎日。
変わらない、道筋。
そういえば、「前」はラストだけがちょっと違っていたっけ。
そう、今までと違っている事は、そのラストが今回はどう出るのかに期待するだけ。
前のラストが「また会おう」だったから。次は、「会いたかったかな?」
それだけを、楽しみに三年間は、有りかも知れない。そんなことを思いながら、麻依は母親と共に校門をくぐった。
初めて着た制服の胸に桜の花のコサージュをつけてもらい、入学式が始まる。
クラス別、男女別、そして、五十音順に並んだ列の隣に、彼は居た。
十三年ぶりに見た彼の面影は少し幼くて。
「どうして?」
麻依が、呟く。
ありえない。こんな再会。
「男女別で五十音順なんだから、ありえないわけじゃないと思うけど?」
新品の学生服を着て、胸に桜のコサージュを付けた片瀬正行が、おかしそうに告げる。
確かに、男女別で五十音順なら「葛城」と「片瀬」が隣に配置されるのは不思議な事ではない。だが――麻依が言いたいのは、当然そんな事ではない。
成美はかつて、彼を「アニキ」と呼んでいたがよく考えれば年上だと説明されたわけではない。同い年であっても、それも不思議ではない。
だが、その彼が、こうやって当たり前のように麻依の横に居るのが、ありえないのだ。
麻依本人が特に、何をしたわけでもないのに。
「それより、久しぶり」
驚きすぎて言葉もない麻依の手を取り、正行が告げた。
「改めまして、よろしく」
一九九七年 四月。
運命の日まで、あと二年と三か月。