プロローグ
夏の午後は、天気が不安定になりやすい。
今回もまた、例にもれずバケツをひっくり返したかのような夕立があり、避難しそびれてずぶ濡れになった人たちが、悪態をついているだろう。
でも、私は知っていた。
今日、この時間に豪雨が来る事も、一時間後にはきれいな晴天になることも。
この後の夕焼けがとても綺麗な事も知っている。
そして、突然に「それ」が訪れる事も。
ひとり、校庭に佇んで、校舎を見上げる。
一礼。
これが、見納めかもしれない。
――違うな。
見納めにしないといけない風景だ。
それを、心に刻んでおきたかったのは、ただの感傷。そんなことは、解っている。
「いつかまた、戻って来る」「今度こそ、繰り返さない」そう、自分に言って聞かせていた。
本当の所を言えば、心の中にあったのは、絶大な敗北感。
そんな敗北感とも、お別れだ。
私は、決めていた。決めてしまっていた。
「一九九九年、七の月」
背後からかけられた声に、振り返る。当たり前のような顔をして、彼が立っていた。
「空から、恐怖の大王が降り立つであろう」
ここ数年の間に、何度聞いたか解らないその台詞を、今、此処で口にする彼に、
「不謹慎」
私は、軽くたしなめた。
肩をすくめ、隣に立って同じように校舎を眺める。
同級生の中では少し大人びて見える。彼はいつも私を支えてくれた。支えようとしてくれた。
そんな彼と対立して、「消えてしまえ」なんて思った事だってある。それほどに、悩んだ。
決めたのは、自分だ。自分で選んだ。
彼は、少し悲しそうな顔をして私の髪をかき回す。
「何?」
「君が、泣きそうな顔してるから」
「いや、それはあんただ、あんた」
「ツッコミ」文化のない奴だったが、それにも慣れたようだ。
彼が苦笑する。
「センチメンタリスト。あなたって、実は水曜日生まれでしょう?」
彼は不思議そうに首をかしげ、ふと、何かに思い当たったように頷いた。
「マザーグース?」
「あ、読んでたんだ」
正直、驚いた。そういうものを読むようには思えなかったから。
「前に読んだ推理小説に使われていたから」
「ふぅん。私は、言葉遊びが好きだった。ま、どうでも良いんだけど」
楽しい事が好きで、一度興味を持ったら、興味がなくなるまで追求しちゃうタイプ。だから、飽きやすい。
「私は、木曜日生まれだと思っていたんだけど、実は月曜日だった」
「なんだそれ。自慢?」
軽く笑って、彼が、私の肩を抱く。
「私たち、間違ってないよね?」
気づいていた。
さっきから、震えが止まらない。そんな私の肩を抱いた彼の手もまた、震えている事に。
「間違っていても、別にかまわないと思うんだけど?」
私は、笑った。表情に出す事は出来なかったけど。
「やっぱり、あなたは、水曜日生まれね」
マザーグースは、1800年代のイングランドで編纂された童謡集。
なぞなぞや、言葉遊びが多い。
月曜日の子どもは お顔がきれい
火曜日の子どもは お上品
水曜日の子どもは 悲しくて
木曜日の子どもは 道遠く
金曜日の子どもは 惚れっぽい
土曜日の子どもは 苦労する
お休みの日に生まれた子どもは とても幸せ!
次に生まれた曜日が日曜日なら良いな。
私の肩を抱きながら、彼が告げた。だから、私は答えた。
「ならないよ」
だって、私たちは、今から本当の意味での罪人になるのだから。
「今を含む時間は、常に未来を睨みつけている。振り返ると、それは『過去』になる」
「何?」
「どんなに見るのが怖くても、未来は、消しちゃダメだよね。未来が消えると、振り返る事すら出来なくなるから」
本当は、怖い。怖くて怖くて、でも、いつまでも逃げてはいられない。
明日は来ないと、ずっと思っていた。
そうじゃない。明日を、呼び寄せなければいけない。彼が一緒に居てくれたら、きっと出来る。
沈む夕日が、とても綺麗だった。
それだけが、とても残念だ。
こんなに静かに、明日を信じて、この世界は幕を閉じる。
荒天の中、絶望で終わる方が、終結には相応しいのだけど。それが望めない事は、知っている。
願わくば、この安らぎの中で――痛みを感じる事もなく、終わりますように。
――それは、一九九九年七月。