第五話 ぜつぼうと、それから、
正樹視点でなければ、タイトルを「。」で終えないようにしました。
ストーリーは進んでいきます。
また“彼”に会った。スーパーで陳列された魚を眺めていると、背後から肩を叩かれた。一見親切そうな中年男性のようだが、わたしはこの男がとても親切とは思えない。細める目の奥に何が潜んでいるのか、警戒する。
「やあ、今日も元気がなさそうだね。どうだろう、これから食事でも?」
まるまるとした顔に笑顔を張り付けるこの男が、わたしには気味が悪くて仕方がない。素気なく断り続けると、急に男は声色を落とした。
異様に顔を接近させる男女――中年男性と、ここが地元ではない女子高生という不釣り合いな組み合わせだからか――に、買い物をしていた奥様方は遠巻きに訝った。
小さく出された声が放った内容に、わたしは驚愕した。もしこの男の言っていることが本当なら、わたしの宿望が実を結ぶ。この町に来て良かった・・・・・・。正樹くんと悶着を起こしたときはセンチメンタルになっていて、先のことにただ不安が募るばかりだったけれど、杞憂だったみたい。
どう? 話だけは聞く気になったかい? 男はにかっと笑ってみせた。あまりにも旨すぎる話だけど、この男に騙されてみようか。
――もうどうにでもなれ。
はっとなって、首を横に振った。聞く気になれないのかと言われ、そうじゃないと答えた。
自暴自棄だった。さっきのわたしは。もしかして、心が朽ち果てるとはこういうこと・・・・・・?
この男から伝えられた心の死は、刻々と終止符に向けて加速している。違う、終止符なんてない、絶望も末もない永遠へと刻む。
ふと陳列棚に目をやる。全ての黒い目玉がわたしを見据えている。吟味するかのように、見定めるように、わたしを睨む。ただ天を向いている目玉なんてないように感じられた。どちらが魚で、どちらが買手なのか、まるでわからない。
だけど少しばかりの本能で感じる。わたしは魚。パック詰めされ、生きているのか死んでいるのか、そもそも理解も感情もとうの昔に忘れ去られて、忘れたことも忘れて、時間という買手に食われる魚だと。
男もわたしをのぞき込んだ。気が滅入ってきて、視界が失せそう。心配したような面立ちで、ゆっくり座れる場所に移動しようと提案された。
おぼつかない足取りで入り口へ戻る。奥様方はきっといいように思ってないだろうな。顔は見れないけど、突き刺さる銛が視線だと直感する。
陳列棚からも突き刺さる。ひどいものだね、わたしはあなた達と同じなのに。同じ魚なのに。わたしが幸せを願いように、あなた達も海を見ているんじゃなかったの?
それとも、母なる海のことも、そこに残してきた仲間すら忘れてしまったの?
いつかこの気持ちも消えてしまう。それはとても辛い。でも、この辛さもいずれ泡沫となり消えていくのだろう。
――もう一度。
これはわたしだけの問題なのに、何を甘えているんだろうと思う。もうきみは関係ないというのに、まだわたしの中で泳ぐ目的を遂げていないようで、きみを探している自分がいた。
どうか、どうか、醜い魚の声を聞いてください。
きみは、この広い海のどこにいますか?
もしいるのなら、わたしが泳げる間に、網にかかってしまう前に、もう一度だけ会ってください。
どうか、どうか・・・・・・。
わたしは一体どこへ連れていかれたんだろう?
ふとした疑問が冷笑を誘う。悲劇のヒロイン気取りには嫌気が差しただろうに。
「大丈夫かい? 水でも飲めるかい? コーヒーか、紅茶か、それとも――」
「水でいい」
近くの喫茶店だろうか。クリーム色の薄いカーテンが張られた店内はどこかもの寂しく感じられて、茶色の箱からは頼りないジャズが小さく流れ出ている。それでも音が聞き取れる、というよりもノイズさえはっきりとわかるほどに人の話し声がしない。辺りを見回すと、客は数人しかいなくて、誰もが独り。店が薄暗いのも、そのせいなのかもしれない。
カーテンをめくって窓の外を覗くと、見慣れた町並みが広がっていた。わたしはこの喫茶店を知っている。
「この店知ってるかい? 『ねこのて』っていう喫茶店。こっちが借りたいくらいだよねぇ。――実はここのマスター、ちょっと風変わりな人でね。中川というんだが、自分の古くからの友人なんだ」
わたしは、わざとらしく目の前に置かれたコップを掴み、おもむろに水を飲んだ。腕に力が入らなくて、コップを置くはずが、落とすと言っても過言ではないほどに大きな音を立ててしまった。背中に突き刺さったものを無視して、「それで?」と言ってやった。
「おーこわいこわい。可愛らしい顔がもったいない」
「はぐらかさないで」
「いやはや申し訳ない」
男はさらに目を細める。
「で、何か思うことはないかい?」
素直に言えば疑問が一つだけある。声に出すのもしんどいけど、もったいぶる必要もないから、簡単にまとめて突き出す。
「あなたに旧友なんているわけないじゃない」
「ひどいなぁ。でもそうだね。自分に友はいない。必要もない。だから彼はどちらかと言えば“傍観者”なんだ」
「・・・・・・傍観者?」
「たとえば自分がもどかしい思いを抱えて、彼に飛びつく勢いで語っても、彼は見ているだけだし、何も言わない。少しばかりの嬉しい話を持ち込んでも、彼は決して口を開こうとしない。またある時、断腸の思いで打ち明けても、全く動じもせず、ただ自分を見る。彼はわかっているんだ」
「何を?」
頭の奥で何かが軋んだ。錆び付いた歯車が回るように、少しずつ回り出す。
頭が痛い。キリキリと絞められるのは気持ち悪かった。早く話に区切りをつけたくて、こちらから畳みかけて終わりにしてしまおう。
「ろう者でしょ? そんな憶測にかまってる暇はないって前も言ったはずだけど。それに、あなたの話にはうんざりしてるのかもよ。根拠もないことを話されたって、誰も信じない。ここのマスターも同じ。わたしたちが何をしてようが関係ないと思ってる。そうだよ、他人なんだから」
なんでだろう。
最後の一言を放ったら、息が苦しくなってきた。
まぁまぁ、と男は制する。
「確かにね、自分達はそんな間柄じゃあない。ただ愚痴を聞いてもらうだけの仲だ。でもね、自分は彼が何かを知っているように見えるんだよ。自分達の答えをね」
答え・・・・・・、とわたしは繰り返していた。
そうだ、わたしは答えを探しに来た。ずっと手がかりを求めさまよって、やっとこの町にたどり着いて、いろんなものを見て、正樹くんに出会って――そういえば、わたしが眼を交換してから、誰かと話をして楽しかったのって、正樹くんが初めてだったんだ。
最後の人にもなってしまったけれど・・・・・・。
今思えば、正樹くんと初めて話したのは神社の鳥居でだったっけ。興味本位で初めましてと話しかけたわたしに、不審そうに、でも悲しげに見つめてくる正樹くんの顔が昨日のように思えてくる・・・・・・。
同情? そんな単純な感情じゃない。正樹くんは、どこかでわたしと正樹くん自身を重ねているようだった。本人は全くその気がなかっただろうけど、そう感じられた。――わたしの妄想かもね。自分自身の存在もわからなくなって、放浪しているうちに落としてしまった心の欠片を集めて持ってきてくれた彼が、わたしにとって王子様みたいだった。顔の冴えない――っていうのは失礼かな。でもお世辞でも美男子とも言えないし――、そんな人でも、冷たい人でも構わなかった。ただ彼だけは、何か違う“繋がり”を感じた。
だからこれを絶ちたくなかった。正樹くんと仲良くしてる友達と親しくなれたら、少しはわたしに対する正樹くんの恐怖心が拭えるかなって、怖かったけど、その友達に手を振ってみたら、急に怖さが増してきて逃げてしまった。駄目だ、わたしは、わたしに向けられた興味の目に恐怖してる。それから正樹くんに頼りたい気持ちが止まらなくなった。
そして今も、完全に忌み嫌われた今でも変わらずに・・・・・・前にも増してるかもしれないけど、この気持ちはまだ消えていない。
「気になるだろう? 自分と、きみの謎が解けるかもしれない。自分は全てを知っているわけじゃないからね、少しでも真実を知りたいんだよ。それはきみも同じだろう?」
「・・・・・・そうだね。できれば、どうしてこんなことをしたのか聞きたいくらい」
カラン、と鐘が鳴った。入口の扉に付けられたものらしい。
群青色のリボンを見せ隠し、ウェーブの髪を揺らしながら、よく見かける制服に身を包んだ女の子が現れた。
その後ろから見えた顔に、はっと、息を飲んだ。
それは向こうも同じようで、具合が悪そうに顔を蒼白にさせて固まっている。さらに続く、名前も知らない一人は、相反して目を輝かせているけれど。
「知り合いかい?」
と男が言う。
「・・・・・・いいえ」
「とんでもない!」
数歩前に出て、俯く彼の友人は口を達者に動かした。
「ほら、覚えてない? まれに出会ったよな。きみって逃げ足が速いというか、目くらましが上手いというか! 何度もしてやられた! ところできみの名前は? あ、オレの名前も知らないよな! 高倉平次っていうんだ! それでこっちが――」
「言わなくていい」
呟く彼が、小さく見えた。その代り、
「なんでここに?」
質問が突き刺さる。
きみこそ、と悠長に構えてもいられず、わたしも視線を落とした。
「・・・・・・とりあえず、何か飲んでいったら?」
相互を見て、女の子がつっかえながら口にする。
しばらくじっと黙って、息を吐きながら、彼は頷いた。頬には赤みが戻り、一定の動きで、小さく深呼吸を繰り返している。
きっと彼は苦しんでいる。
逃れたと思われた災難が、また目の前に姿を現したのだから。
で、わたしに何ができる? 元凶であるわたしが・・・・・・、彼にできること。わたしが完全な臨終を迎えれば全て片付くのだろうけど、せめて罪滅ぼしと思われない程度の細やかな恩返しを。
少年、と向かいの男が呼ぶ。
「顔色が悪いね。今日は病気でも蔓延してるのかい?」
彼の視線の先を辿って行けば誰だってわかるのに、本当に嫌らしい笑みを浮かべ、こめかみを指で掻く。男は彼の精神を抉ろうと、わざと露骨な表現を用いない特有の言葉を選ぶ。心にどれほどの傷を負わせられるかは、本人と目標にしかわからない。わたしにもさっぱりわからないけれど、こめかみを掻く男の癖は、新しい目標を見つけた時にするものだから、確実に彼を壊そうとしているのに気付くことができた。
前に何度か、この男に精神を壊された人達を見たことがある。見るに堪えない姿だった。詳しくなんて言えない。わたしの口では憚られる。
それを思い出して、憤怒の感情を抑え、せめて彼だけは餌食にならないようにしなければと、そう思えてくる。身を捨ててもいい。一瞬でも夢を見させてくれた彼のために、残された心を削ったって構わない。
指から、髪の先から流れてくる熱が、肌を通り中心へと向かって、螺旋を描いていく・・・・・・。体の隅々まで、抜かりなく浸透していく。そして辿り着いた胸で弾けて、より一層の熱量を放った。
なんだ、わたしにもまだ残っているものがあるんだ・・・・・・。
憤怒も。理性も。決意も。感謝も。愛も。そしてそれらが未だに存在することに対する喜びも。抜けかけた熱が戻ろうと、龍のようにうねっている。もし本物の龍なら、心の命が尽きるまで、わたしを守る守護神であってほしい。
「そんなことより本題は?」
「あれ、きみ、乗り気でなかったじゃあないか。どういう風の吹き回しだい?」
男は、おそらく感づいた。訝しげに眉をひそめ、こめかみを掻く指を止めた。
気分が良くなっただけと言い、できるだけこちらの思考を読まれないように目を瞑って動きを極力抑えた。
無駄に終わるだろうけれど、意地でも抵抗してやろう。思い通りになってたまるもんか。
――魚だって抵抗するんだから。
篠原正樹という存在が、汚いものに穢《けが》されないために。
渾身の力を振り絞った一泳ぎを見せてあげる。




