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第四話 つみわすれ。

 頼みの綱はなくなった。

 自分で何とかするしかない。

 それとも、このまま身も心も朽ち果ててしまえば、この辛い気持ちも消えてなくなるのかな・・・・・・。




 ◇ ◆ ◇ ◆




 オレは酷い人間だ。

 助けを求める彼女を裏切ってしまった。

 よりにもよって、あんな形で・・・・・・。

 世界は残酷にも朝を迎えて、支度を迫られる。いつまでも夜が明けないのはオレだけだった。

「正樹」

 気付けば制服に身を包み、靴を履いていながら、手に何も持っていなかった。

「ぼんやりしちゃって。鞄忘れてどうするの」

「ありがと」

 オレは苦労を刻んだ手から鞄を受け取る。

 篠原晶子(まさこ)。それが母さんの名前だ。温厚でありながら曲がったことが嫌いな性格で、近所付き合いはまあ良い方。至って不自由一つない。ただ、唯一の失は男運のなさ・・・・・・、夫に逃げられて数年が経った。

 つまり、オレの父親はここにいない。

「そんな風に、た~りら~ってしてたら、三輪車にはねられちゃうわよ?」

 と、両腕をくねくねと波のように泳がせる。

「た~りら~、って何それ・・・・・・」

「擬態語よ、習ったでしょう」

「一般常識から離れた擬態語を習った覚えはないね」

「ひどーい」

「それと三輪車はない。絶対にない」

 母さんは目をパチパチさせた。

「そう? だって車じゃ酷すぎるし、自転車じゃ痛いでしょう? だったら三輪車しかないじゃないの」

「そうじゃなくて!」

 無意識に声が大きくなった。

「三輪車に轢かれる高校生はいないから!」

「いるわよ」

 母さんは胸を張って鼻息を荒くした。示すように拳を作って張った胸に当てて弾ませてみせる。

「わたし、高校生の時にぼーっとしてて三輪車にはねられちゃったことあるから」

「いたのかよ!」

 しかも目の前に!

「馬鹿だよ! 救いようがない!」

「えー、だってしょうがないじゃない。悩み多き年頃だったんだから。ちょっと考え事してて河川敷をぼんやり歩いてたら、向かってくる三輪車に気付かなくて、――ちょうど二歳くらいの子かな。足を轢かれたついでにすねをぶつけられて、それでも気付かずに蹴り飛ばしちゃって。その子、河川敷から転がり落ちちゃった」

「はぁ!?」

「でも怪我一つなくて良かったわ」

「いやいや良くない! 完全な加害者じゃないか!」

「そうかもね」

 くすくすと笑っていた母さんが、ふいに真剣に、でもねと続けた。

「今さっきの正樹の顔、あの頃のわたしにそっくりだったから」

 そっくり?

 意味がわからない。

 オレはそこまで抜けてるように見られていたのか。

 ・・・・・・と思った。

「轢かれるならまだしも、気付かないまま足下にあるものを蹴っちゃだめ。子どもでなくても、友達だったり物だったり、大切な人や物を知らないうちに蹴り飛ばしちゃだめ。自分が知らないうちに傷つけちゃったらだめ」

 でも、もう大丈夫ね。と言う。

「今の正樹は、さっきより顔色が良くなってるから」

「・・・・・・」

「いってらっしゃい。大丈夫、今はそんな時期なんだから。悩めよ少年っ!」

 肩を掴まれ方向転換、そして軽く背を押された。

「・・・・・・いってきます」

 玄関を出ると、庭先にいたらしい雀が飛び出していった。澄んだ空気が鼻を通って脳を目覚めさせる。

 ここは現実なんだよ、と。

 ――『大切な人や物を知らないうちに蹴り飛ばしちゃだめ。自分が知らないうちに傷つけちゃったらだめ』

 母さんは知らないだろうけど、昨日、実際にあったんだよ。オレが何も知らない彼女を、親しんでくれていた彼女を、皮肉に無惨に傷つけてしまったよ。

 母さん。他人を傷つけてはならないなんてことは、小学生でもわかるんだ。

 ただこれは特別で・・・・・・、誰にも頼れずに苦しんで、こんなオレに助けを求めてくれた彼女を逆に傷つけたんだよ。

「信じてやれなくて、ごめん」

 自転車のスタンドを蹴り上げ、押して前進させる。チェーンの擦れる音が朝の世界に反射して耳に戻ってくる。だというのに、口にした言葉だけ聞こえてこないのはどうしてだろう。吸い込まれて戻ってこないのはなぜだろう。

 ――『ひどいよ、正樹くん・・・・・・』

 この言葉は頭から離れないというのに・・・・・・。

「ごめん・・・・・・」

 名前も知らないあの子にもう一度呟いて、ようやくペダルを漕いだ。


 学校はある意味で便利だ。

 あぁ世界は何も変わらないんだとわかるから。

 無情に、無常に、無責任に。個人を見放して笑い回る世界。その中には必ず、

「やあ篠原正樹クン! 今日も浮かない顔でグッモーニン!」

 日本語の使い方をろくに知りもしないヤツもいるわけで。

「浮かないのか良い朝なのかどっちかにしてくれよ」

「いやいや~。浮かない朝であろうとも、心地よい一日にしようぞ、ホトトギス」

「頭痛い」

「何だって!? 保健室に連れてってやるよ! さあ乗れ!」

 駐輪場でかがんで背中を向け、ほいほいとする高倉は、この時点でかなりの見せ物で、目に入れると痛々しい。誰あの子、ほら二年で有名な・・・・・・、なんてお馴染みすぎて視界がクラッとする。

 いじりすぎは悪いな。

「嘘だって」

「いやいや、もしもってことがあるだろ! ここはオレの勇姿を見せつつ友情をアピールする最高のイベント! ほらほら乗れって」

 一体こいつは人を何だと思ってるんだ!

「漫画の読みすぎだろ!」

「おしい、水曜日にやってる子ども向けアニメの名シーンだ」

「おしくも何ともない」

 くすっ。

 高い息が漏れる声がした気がして、後ろを振り返った。

 群青のリボンを隠すウェーブのかかった髪のクラスメイトが、顔を背けて笑いを堪える姿がそこにあった。つり目を細めて、少し潤ませているように見える。確か、同じクラスの中川さん、だった気がする。オレは自分から女子に喋りにいかないし、女子は顔と名前が一致しないのが当たり前のようになっていた。

 (いぶか)しむオレに気づき、指先で目頭を軽く拭った。

「あ、その、いつも面白いなって思ってて」

「面白い?」

 オレは思わず聞き返した。

「みんな変だなって思ってる顔してるから笑い堪えるのに必死だったけど、わたしは面白いと思うよ。特に今日の二人は(・・・・・・)仲良さそうだから(・・・・・・・・)、いいなぁって思って」

 意外な言葉だった。

 謎の彼女によって繋がれた偽りの友情が、周りには単なる仲良しにしか見えていないと思っていたけれど。中川さんの目には何か違うものが映っているような・・・・・・。

 いや、まさかクラスメイトがそんなことに気づくわけないか。

「いいだろ、オレたちの友情は」

 高倉に背後からがばっと勢いをつけて肩を組まれ、よろけそうになった。横目を使って顔を窺うと、満足そうな笑みを浮かべていた。

「うん。すごくいいと思うよ。ただ――」

「ただ?」

 復唱したのは高倉の方だった。

「・・・・・・ううん、つい変に舌が回って、おかしなことを言っちゃっただけ。気にしないで。わたし緊張すると、思ってもないことを言っちゃうんだ」

 中川さんは見た目からすると、しっかり者の感じがする。人と話すだけで緊張しそうなほど気が小さい人には到底思えないのだけれど、本人が言うのだからそうなのだろう。人は見かけによらないと言うし。

 オレも人見知りが激しいから、中川さんに少しばかりの親しみを覚えた。

 そろそろ教室に行かないと、と中川さんは言う。

 慌てて駆け出すオレたちに、彼女はこうも言った。

「足下には要注意!」

 母親でもないんだから。だけど、似たことを母さんに言われたような・・・・・・?

 運動部の高倉は先を行き、オレは下駄箱で中川さんを待ってみることにした。小走りで入ってきてオレを確認すると少し驚いた顔を見せ、次の一歩を止めた。

「待っててくれたんだ? 何だか意外かも」

 つり目をさらに細めると瞳が見えなくなるほどだけど、不細工どころか可愛らしさを醸し出す微笑みだった。身長もそれなりの、ほっそりした体つきに小さい顔の中川さんは、今にも消えてしまいそうな儚さを持ち合わせていて、それが彼女の愛嬌をより素敵なものにしていると思わせる。

「篠原くんって、高倉くんと仲良しだよね」

「まあ、うん」

「憧れちゃうなぁ」

 あれ?

 もしかして、中川さんは高倉のファンクラブのメンバーなのか? いつも側にいるのがオレだから、嫉妬されているのだろうか。

「あいつ無神経なところがあるけど、いいヤツに変わりないから、これからもよろしくしてやってくれな」

「え? あ、うん。よろしく。えっと、その・・・・・・」

 頬を赤くしたり青ざめたりして忙しくさせながら、お辞儀の瞬間に髪が空気中を舞う。

「よろしく、篠原くん。と、いないけど高倉くんも」

 なぜだろう。何か違和感があるように感じる。高倉ファンの一員にしてはどこか雰囲気が違うような、オレに対して嫉妬どころか親切心を持ってくれている感じだ。

 早歩きで廊下を進みながら中川さんが、

「篠原くんは、これで呼んでほしいとか、そんなあだ名はある?」

 と訊ねてきた。

「別に。そのままでいいけど」

「そっか、なら篠原くんのままでいくね。わたしもね、何でもいいけど、同じクラスに中川っていう女子がもう一人いるから、違う呼び方のほうがわたしもわかりやすいかも」

 中川、もう一人いたのか。

「下の名前は?」

「美紀だよ、中川美紀」

 美紀、なんて呼んでも大丈夫なわけないよな。

 ミキティ・・・・・・ふざけすぎか。

 考え込むオレに、美紀でいいよ、と言う。さすがに遠慮したいと言うと、じゃあ他にいい呼び名があるのかと逆に訊かれた。

「今までなんて呼ばれてたんだ?」

「・・・・・・普通だよ、美紀ってみんな呼んでた。高校来てからは、中川さんって言われてるけど」

 なんだ、今の沈黙は?

 理由を問う前に教室に着きそうだったから、それでいいと口を滑らせてしまった。中川さんこと美紀はさらに目を細めていた。


 こんな風にしていていいんだろうか?

 今日もオレは日常に支配されて、自分の罪を消し去ろうとしている。いつか忘れるように時間が過ぎていって、新しい出会いで古い付き合いを隠そうとする。

 それは悪いこと。

 でも、もう少し夢を見たっていいじゃないか。

 弱い人間はそうでないと生きていけないのだから。

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