第六話:非常事態と筋肉
轟音が、大地を揺らしました。
国境にそびえる「北の砦」。
そこは今、この世の地獄と化していました。
空を覆う巨大な影。
伝説の魔獣、エンシェント・ドラゴンです。
全身を黒曜石のような硬い鱗で覆い、口からは灼熱のブレスを吐き出します。
「怯むな! 盾を構えろ!」
「ダメです! ブレスで盾が溶かされます!」
騎士たちの悲痛な叫び声。
爆発音。
焼けた鉄の臭い。
レオナルド・ヴァン・アイゼンは、瓦礫の山となった城壁の上に立ち、剣を振るっていました。
「総員、散開! 正面から受けるな!」
彼の指示は的確でしたが、戦力差は歴然でした。
魔法使いの攻撃魔法はドラゴンの鱗に弾かれ、弓矢など爪楊枝ほどの役にも立ちません。
「グルルルゥ……!」
ドラゴンが低い唸り声を上げ、レオナルドを睨みつけました。
その瞳は、人間を見下す傲慢さに満ちています。
「私がお相手しよう」
レオナルドは剣に魔力を纏わせ、単身で飛びかかりました。
彼の一撃は確かに強力です。
ドラゴンの鱗を数枚削ぎ落とし、鮮血を噴き出させました。
しかし、浅い。
致命傷には程遠い。
「ガァアアッ!」
ドラゴンの反撃。
丸太のような尻尾が、鞭のようにしなってレオナルドを襲います。
彼は剣で受け止めましたが、凄まじい衝撃に吹き飛ばされました。
「団長!」
部下たちの叫び声が遠くに聞こえます。
レオナルドは壁に叩きつけられ、口から血を吐きました。
肋骨が数本、折れたかもしれません。
(強い……)
薄れゆく意識の中で、彼は思いました。
これが伝説級の力か。
自分の鍛錬など、この圧倒的な暴力の前では無力なのか。
(マリアンヌ……)
脳裏に浮かぶのは、愛する婚約者の笑顔。
彼女は今頃、安全な王都で、あのか弱き手で刺繍でもしているだろうか。
それでいい。
彼女さえ無事なら、私はここで朽ち果てても――。
その時でした。
「なんか、来ます!」
見張りの騎士が、裏返った声で叫びました。
ドラゴンの方向ではありません。
街道の彼方、王都の方角からです。
「援軍か!?」
「いえ、あれは……土煙?」
地平線の向こうから、一本の巨大な土煙が、猛スピードでこちらへ迫ってきていました。
まるで竜巻が横倒しになって突進してくるような、異常な光景。
一方、その土煙の中心。
わたくし、マリアンヌは少し焦っておりました。
(予定より三分遅れていますわ)
街道を走るわたくしの足元は、もはや残像しか見えません。
舗装されていない砂利道ですが、関係ありません。
足の指で地面を掴み、蹴り出す。
その反動で体を弾丸のように前方へ射出する。
その繰り返しです。
時速は体感で八十キロほどでしょうか。
風圧で前髪がオールバックになっていますが、気にしている余裕はありません。
道中、何台かの乗合馬車を追い抜きました。
窓から顔を出した子供が「お母さん、人間が馬より速く走ってるー!」と叫んでいましたが、見間違いだと思ってもらえると助かります。
わたくしが急いでいる理由は、ただ一つ。
背中のリュックサックに入れた、クッキーの賞味期限です。
焼き上げてから時間が経つと、風味が落ちるだけではありません。
サクサク感が失われるのは、トレーニーのメンタルヘルスによくないのです。
「待っていてくださいませ、レオナルド様」
わたくしは呼吸のリズムを整えました。
吸って、吸って、吐く。
心拍数は安定しています。
乳酸もまだ溜まっていません。
これなら、あと百キロはノンストップで行けます。
前方に、関所が見えてきました。
本来なら通行手形を見せて通らなければならない場所です。
しかし、今の速度で急停止すれば、慣性の法則でリュックの中のクッキーが粉砕されてしまいます。
クッキーはプロテインパウダーではありません。
固形物として摂取してこそ、咀嚼による満腹感が得られるのです。
止まるわけにはいきません。
「通りますわー!」
わたくしは叫びながら、関所の遮断機(太い木の棒)に向かって突っ込みました。
飛び越える?
いいえ、リュックが揺れます。
潜る?
姿勢が崩れます。
ならば、突破するのみ。
バキィッ!!
木の棒がマッチ棒のように砕け散りました。
驚愕する兵士たちの顔が一瞬スローモーションで見えましたが、次の瞬間にはもう後方へ飛び去っていました。
「後で請求書を送ってくださいませー!」
わたくしは叫び声を置き去りにして、さらに加速しました。
関所を超えれば、戦場である国境の砦はもう目と鼻の先です。
空気が変わりました。
焦げ臭い匂い。
そして、大気を震わせる獣の咆哮。
見えました。
黒い巨大な塊。
あれが、エンシェント・ドラゴンですわね。
図鑑で見たサイズより、二回りほど大きく見えます。
立派な大胸筋です。
あんな巨体を空に飛ばすのですから、翼の付け根の筋肉(小胸筋)の発達具合は凄まじいものでしょう。
解剖学的な興味が湧きますが、今はそれどころではありません。
砦の方を見ると、城壁が半壊し、火の手が上がっています。
そして、瓦礫の中で倒れている銀髪の人物。
レオナルド様!
わたくしの動体視力が、彼の苦悶の表情を捉えました。
鎧は砕け、血を流しています。
そして、その目の前には、ドラゴンの巨大な爪が振り上げられていました。
トドメを刺すつもりです。
「……させません」
わたくしの脳内で、何かが切れました。
プツン、と。
筋肉の安全装置ではありません。
理性の安全装置です。
あの方は、わたくしの最愛のパートナー。
わたくしの筋肉を肯定し、共に高みを目指すと誓った人。
そして何より、まだクッキーを食べていない人!
栄養補給もせずに死ぬなんて、トレーナーとして許しません!
「そこを! どきなさい!」
わたくしは叫びました。
同時に、地面を強く踏み込みます。
今までで一番強く。
大地が爆発したかのように陥没し、わたくしの体は砲弾となって空へ舞い上がりました。
目指すは、レオナルド様とドラゴンの間。
「グルァ?」
ドラゴンが異変に気づき、視線をこちらに向けました。
遅いですわ。
わたくしはもう、あなたの鼻先にいます。
わたくしは空中で体を捻り、リュックを庇いながら、右の掌底を突き出しました。
ターゲットは、ドラゴンの顎。
「まずは! お座りなさい!」
ドゴォオオオン!!
衝撃音が、戦場全ての音を消し去りました。




