第五話:か弱き令嬢の護身術
「おい、そこの姉ちゃん。ちょっとツラ貸しな」
下品な声が、わたくしの鼓膜を揺らしました。
場所は王都の下町。
メインストリートから一本外れた、少し薄暗い路地裏です。
わたくし、マリアンヌは今、完璧な変装をしてお忍びショッピングを楽しんでおりました。
公爵令嬢だとバレないよう、分厚い眼鏡をかけ、フード付きのローブを深々と被っています。
ローブの下には、片方十キロのリストウェイトとアンクルウェイトを装着済み。
ただ歩くだけで、全身に負荷がかかる仕組みです。
目的は、鍛冶屋街での特注ダンベルの発注。
既製品では軽すぎて、もうウォーミングアップにもなりませんから。
そんな充実した休日の邪魔をしてきたのが、目の前に立ち塞がる五人の男たちでした。
見るからに治安の悪そうな風貌。
無精髭に、濁った目つき。
手にはナイフや棍棒を持っています。
「聞こえてんのか? 黙って俺たちについて来いよ」
リーダー格らしい男が、ニヤニヤしながらナイフをちらつかせました。
なるほど。
これが噂に聞く「カツアゲ」というものでしょうか。
それとも、どこかの貴族のご子息(例えば元婚約者の方)からの差し金でしょうか。
どちらにせよ、迷惑な話です。
筋肉のゴールデンタイムを、こんな非生産的な会話で消費したくありません。
「ごきげんよう。急いでおりますので、失礼いたしますわ」
わたくしは会釈だけして、横を通り過ぎようとしました。
関わらないのが一番です。
彼らの貧弱な上腕二頭筋を見ていると、トレーニング不足への怒りでストレスホルモン(コルチゾール)が分泌されてしまいそうですから。
「無視してんじゃねえ!」
男の一人が、わたくしの肩を掴もうと手を伸ばしてきました。
遅い。
あくびが出るほど遅いです。
わたくしは反射的に肩を少し揺らしました。
僧帽筋によるタックル返し。
「ぐえっ!?」
男の手首が、わたくしの肩の筋肉に弾かれ、あらぬ方向に曲がりました。
彼は悲鳴を上げて地面に転がります。
「な、なんだコリャ!?」
「鉄板でも入れてんのか!」
残りの四人が動揺して後退りました。
鉄板ではありません。
日々の懸垂とシュラッグで鍛え上げた、天然の鎧です。
「……痛い目を見ないと分からないようだな」
リーダーの男が顔を赤くし、ナイフを構えて突っ込んできました。
殺気立っています。
一般女性なら、恐怖で足がすくむ場面でしょう。
ですが、わたくしの思考は冷静でした。
(右からの突き。角度三十度。重心が高い。踏み込みが甘い)
これなら、避けるまでもありません。
ちょうど指先のトレーニングをしたいと思っていたところです。
わたくしは立ち止まったまま、迫り来るナイフの刃を待ちました。
そして、目の前に刃先が来た瞬間。
デコピン。
わたくしの中指が、弾かれたバネのように唸りを上げました。
狙うのはナイフの腹。
パァンッ!!
破裂音が路地裏に響き渡りました。
ナイフは粉々に砕け散り、金属片となってキラキラと舞い散ります。
その衝撃波だけで、男は دم球のように吹き飛び、背後のゴミ箱に頭から突っ込みました。
「え?」
「兄貴!?」
残りの三人が、目を剥いて固まっています。
あら、少し力が入りすぎましたわ。
ナイフだけを弾くつもりが、空気の層まで弾いてしまったようです。
これでは「か弱き令嬢」の設定が台無しです。
「ひ、ひいいっ!」
「化け物だ! 逃げろ!」
男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出そうとしました。
逃がしません。
トレーニング(戦闘)は、最後のワンセットまでやり切るのが流儀です。
わたくしは足元の小石を三つ拾い上げました。
そして、逃げる背中に向かって、軽くスナップを利かせて投げます。
ヒュン、ヒュン、ヒュン!
「あべしっ!」
「ひでぶっ!」
「たわばっ!」
三つの悲鳴が重なり、男たちは同時に前のめりに倒れました。
小石が急所(お尻の筋肉のツボ)に綺麗にヒットしたようです。
これでしばらくは、座ることもままならないでしょう。
いいスクワットの矯正になるはずです。
「ふう。準備運動にもなりませんでしたわ」
わたくしは眼鏡の位置を直し、埃を払いました。
これで買い物に戻れます。
その時でした。
路地の入り口から、聞き覚えのある声が響いたのは。
「マリアンヌ嬢! 無事か!」
レオナルド様です。
彼は剣を抜き放ち、鬼のような形相で駆け込んできました。
どうやら、わたくしの後をこっそり護衛してくださっていたようです。
(ストーカーとは言いません。愛ですわ)
「いけません、レオナルド様に見られたら……!」
わたくしは焦りました。
今、わたくしの足元には、泡を吹いて倒れている五人の男たち。
そして壁には、デコピンの風圧で少しヒビが入っています。
こんな野蛮な姿を見られたら。
「やはり君は淑女ではない」と幻滅されてしまう。
筋肉好きの彼とはいえ、限度というものがあるはずです。
「遅かったか……! 君に指一本でも触れようとした愚か者どもめ、私が八つ裂きに……ん?」
レオナルド様は、惨状を見て立ち止まりました。
彼の視線が、粉々になったナイフと、気絶している男たち、そして平然と立っているわたくしを巡ります。
終わりました。
婚約破棄、二回目決定です。
わたくしは観念して、うつむきました。
「申し訳ありません、レオナルド様。わたくし、つい……」
「……すごい」
「はい?」
「なんて鮮やかなんだ」
恐る恐る顔を上げると、そこには目をキラキラと輝かせたレオナルド様がいました。
頬を紅潮させ、感動に打ち震えています。
「複数の敵に対し、最小限の動きで制圧する。しかも、相手の命を奪わず、的確に行動不能にする技術……! まさに護身術の極みだ!」
「ご、護身術……?」
デコピンと石投げが、護身術の極み。
彼の目にはそう映ったようです。
フィルターが分厚すぎやしませんか。
「君は、私が守るまでもなく強かったのだな。だが、その強さがたまらなく愛おしい」
彼は剣を収めると、ゴミの山(元ゴロツキ)を跨いで近づいてきました。
そして、わたくしの手をそっと握りしめます。
「素晴らしい体幹だ。デコピン一つにも、全身のバネが使われているのが分かった」
「あ、ありがとうございます……?」
「だが、油断は禁物だ。君が強いことは分かったが、それでも私は心配なんだ」
レオナルド様は真剣な眼差しで、わたくしを見つめました。
「これからは、必ず私のそばにいてくれ。君の背中は、私が守りたい」
甘い言葉。
普通なら胸キュンシーンです。
でも、わたくしの脳内変換機能が作動します。
(背中は私が守る=ベンチプレスの補助をしてくれるということね!)
「はい、レオナルド様! ぜひお願いしますわ!」
「ああ、約束だ」
二人の間に、ピンク色の空気が流れます。
背景には、気絶した男たちの山がありますが、気にしてはいけません。
しかし、その甘い時間を引き裂くように、レオナルド様の懐にある通信用の魔道具が震えました。
彼は眉をひそめ、耳に当てます。
「……私だ。何事だ」
短い沈黙。
レオナルド様の表情が、瞬時に騎士団長のそれへと変わりました。
氷のような、鋭い冷たさ。
「……分かった。すぐに向かう」
彼は通信を切ると、悔しげにわたくしを見ました。
「すまない、マリアンヌ。緊急招集だ」
「何かあったのですか?」
「国境付近の山脈に、ドラゴンが現れたらしい。それも、伝説級のエンシェント・ドラゴンだ」
ドラゴン。
この世界における最強の生物。
一息で街を焼き尽くし、その鱗は鉄をも弾くという。
「騎士団総出で討伐に向かう。しばらく会えなくなるが……」
「行ってらっしゃいませ、レオナルド様。武運を祈っておりますわ」
わたくしは笑顔で送り出しました。
彼なら大丈夫でしょう。
それに、ドラゴン退治なんて、いい筋トレになりそうですし。
(お土産にドラゴンの肉、期待してもいいかしら)
レオナルド様は名残惜しそうにわたくしの手を一度だけ強く握り、風のように去っていきました。
その背中を見送りながら、わたくしはふと思い出しました。
「あ」
そういえば、彼に渡そうと思っていたものがあったのです。
昨夜、夜なべして作った「特製プロテインクッキー」。
長期遠征になるなら、カタボリック防止のために必須のアイテム。
「渡しそびれてしまいましたわ……」
これは一大事です。
愛する婚約者が、戦場で筋肉を分解させてしまうかもしれない。
そんな悲劇、見過ごすわけにはいきません。
わたくしは決意しました。
「届けに行きましょう」
戦場だろうがドラゴンだろうが関係ありません。
筋肉の栄養補給は、何よりも優先されるべきミッションなのです。
わたくしはローブを脱ぎ捨てました。
そして、足元のアンクルウェイトのベルトを外します。
ドスン、ドスン。
重りが落ち、地面が少し陥没しました。
「さて、軽いジョギングと参りましょうか」
わたくしは国境の方角を見据え、クラウチングスタートの構えを取りました。
目指すは戦場。
馬車よりも、馬よりも速く。
地面を蹴った瞬間、わたくしの姿はすでに路地裏から消えていました。
後に残されたのは、衝撃波でさらに深く壁にめり込んだゴロツキたちだけでした。




