第四話:デートという名の合同演習
鉄と土、そして男たちの汗の匂いが風に乗って漂ってきます。
わたくし、マリアンヌは今、人生で最も心躍る場所に立っておりました。
王宮の裏手に広がる、第一騎士団専用の演習場。
高い石壁に囲まれ、一般人はおろか、貴族でさえも立ち入りを許されない聖域です。
「どうだ、マリアンヌ嬢。気に入ってくれただろうか」
隣に立つレオナルド様が、誇らしげに腕を広げました。
今日の彼は、動きやすい革の鎧姿。
上腕二頭筋の膨らみが、革のベルトを押し上げていて大変魅力的です。
わたくしもまた、今日の日のために特注した「戦闘用ドレス」を着ています。
一見すると上品な紺色の外出着ですが、生地は伸縮性に優れた魔獣の皮を使用し、スカートの中はスパッツ仕様。
いつでもスクワットが可能です。
「ええ、素晴らしいですわ! 見てください、あの丸太の山! それに、あちらにあるのは鉄球でしょうか?」
わたくしは扇子で口元を隠しつつ、興奮で声を上擦らせました。
普通の令嬢なら「野蛮だわ」「臭いわ」と眉をひそめるところでしょう。
ですが、ここはわたくしにとって遊園地以上の楽園。
そこら中に転がっている訓練用具のすべてが、わたくしの筋肉を刺激しようと待ち構えているのですから。
「君ならそう言ってくれると思った」
レオナルド様は満足げに頷き、わたくしの手を取りました。
「今日は貸し切りにしてある。団員たちは全員、外周のランニングに出した」
「まあ、お気遣いありがとうございます。では、思う存分……」
「ああ、二人きりで楽しもう」
彼の言う「楽しむ」とは、もちろん合同トレーニングのことでしょう。
わたくしたちは見つめ合い、頷き合いました。
言葉はいりません。
筋肉と筋肉が惹かれ合っているのですから。
「まずは準備運動から行こうか」
レオナルド様が案内してくれたのは、巨大な岩がゴロゴロと置かれたエリアでした。
攻城戦を想定した、障害物撤去訓練用の岩場です。
一番小さな岩でも、大人の男性が二人掛かりでやっと動かせるサイズ。
一番大きなものは、馬車ほどの大きさがあります。
「私が手本を見せよう」
レオナルド様は手近な中くらいの岩の前に立ちました。
推定重量、二百キロ。
彼は軽く呼吸を整えると、腰を落とし、岩の下に手を差し入れます。
完璧なデッドリフトのフォーム。
「ふんッ!」
短い気合とともに、巨岩が宙に浮きました。
僧帽筋と広背筋が服の上からでも分かるほど隆起し、首筋に美しい血管が浮き上がります。
彼はそのまま岩を頭上まで持ち上げ、数秒キープしてから、ドスンと地面に置きました。
「……君の前だ、少し張り切りすぎたかな」
彼は爽やかに汗を拭いながら微笑みました。
なんて……なんて素敵なんでしょう。
無駄のない筋肉の連動性。
爆発的なパワー。
わたくし、胸の高鳴りが止まりません。
「素晴らしいですわ、レオナルド様! 脊柱起立筋の使い方が芸術的でした!」
「そうか? 君に褒められると、優勝した時より嬉しいな」
「わたくしも挑戦してよろしいでしょうか?」
「もちろんだ。だが、無理は……いや、君なら大丈夫だな。一番大きいのをやってみるか?」
彼は迷わず、一番巨大な岩を指差しました。
推定五百キロ。
普通の令嬢に対する提案ではありません。
ですが、わたくしにとっては最高の愛の言葉に聞こえます。
「君の実力を信じている」と言ってくれているのですから。
「はい、喜んで!」
わたくしはドレスの裾をまくり上げ(スパッツ着用済み)、巨大な岩の前に立ちました。
ひんやりとした岩肌の手触り。
ずっしりとした質量の予感。
足幅を肩幅より少し広めに。
腹圧を高め、体幹を固定。
(行きますわよ、大腿四頭筋!)
「ふっ!」
わたくしは一気に地面を蹴り上げました。
全身のバネを使い、岩を持ち上げます。
重い。
けれど、心地よい重さです。
筋肉繊維の一本一本が、「生きてる!」と叫んでいるのを感じます。
ゴゴゴゴ……
岩が持ち上がりました。
レオナルド様の頭よりも高い位置まで。
「ブラボー! 素晴らしいフォームだ、マリアンヌ!」
レオナルド様が拍手喝采しています。
彼は目を輝かせ、興奮した様子でわたくしの周りを回りました。
「重心が全くブレていない。ドレスを着たままこれほどの重量を扱えるとは……やはり君は、私の運命の人だ」
「レオナルド様こそ、的確な補助の気配、背中で感じておりましたわ!」
わたくしは岩を投げ捨てました。
ズドン!!
地面が揺れ、土煙が舞い上がります。
普通のデートなら大惨事ですが、ここではこれが祝砲です。
その後も、わたくしたちの甘い時間は続きました。
二人並んでの丸太担ぎスクワット。
鎖で繋がれた鉄球を投げ合うキャッチボール。
演習場の端から端まで、タイヤを引きずってのダッシュ競争。
「ハア、ハア……いい汗かきましたわね」
「ああ……最高だ。こんなに充実した時間は初めてだ」
夕暮れ時。
わたくしたちは芝生の上に座り込み、肩を並べて呼吸を整えていました。
体は疲労していますが、精神はこれ以上ないほど満たされています。
レオナルド様が、革の水筒を差し出してくれました。
中身はもちろん、特製プロテインです。
「ありがとう存じます」
「どういたしまして。……マリアンヌ、君の汗は美しいな」
彼はハンカチを取り出し、わたくしの額の汗を優しく拭ってくれました。
その距離が近くて、心拍数が有酸素運動時並みに跳ね上がります。
あれ?
おかしいですわね。
トレーニング後のクールダウン中なのに、どうして脈が下がらないのでしょう。
これが、噂に聞く「高強度インターバルトレーニング(HIIT)後のアフターバーン効果」でしょうか?
「また、来てくれるか?」
レオナルド様が、少し不安そうに尋ねてきます。
その表情が、捨てられた大型犬のようで、キュンとしてしまいました。
「もちろんですわ。会員登録(結婚)したのですもの、毎日でも通います」
「本当か! ……嬉しい。屋敷の改築を急がせよう」
わたくしたちは夕日の中で見つめ合い、笑い合いました。
ああ、幸せです。
筋肉を理解し、高め合えるパートナーがいるということが、これほど素晴らしいなんて。
しかし。
そんなわたくしたちの平和な時間を、どす黒い視線が見つめていることに、わたくしは気づいていませんでした。
演習場の入り口にある物陰。
そこに、貴族院の制服を着た人影がありました。
「……なんだ、あれは」
アルフレッド王太子です。
彼は双眼鏡を握りしめ、ガタガタと震えていました。
「なんなんだ、あの二人は! 岩を放り投げて笑い合っているだと!? 正気じゃない!」
彼の横には、同じく顔面蒼白のリリィ男爵令嬢がいます。
彼女は「ゴリラ……ゴリラの求愛行動ですぅ……」と譫言のように呟いています。
「許せない……僕をコケにして、あんなに楽しそうにしやがって……!」
アルフレッド殿下のプライドは、ズタズタでした。
自分が捨てた婚約者が、国一番の英雄であるレオナルドと結ばれ、しかも自分には理解できない世界で幸せそうにしている。
その敗北感が、彼の歪んだ心を刺激しました。
「見ていろ、マリアンヌ。そしてレオナルド」
殿下は双眼鏡を下ろし、暗い笑みを浮かべました。
「僕が味わった屈辱、倍にして返してやる。……そうだ、ちょうどいい『道具』があるじゃないか」
彼は懐から、一枚の羊皮紙を取り出しました。
それは、裏社会のギルドへの依頼書。
「フィジカルで勝てないなら、数で潰すまでだ。……精鋭のゴロツキどもを集めろ。マリアンヌを襲わせるんだ」
「えっ、でも殿下、あの方は……」
リリィ様が止めようとしますが、殿下は聞く耳を持ちません。
「所詮は女だ! 不意打ちで囲めばイチコロに決まっている!」
浅はかな計画。
それが、眠れる獅子ならぬ、目覚めたゴリラの鼻先を撫でる行為だとも知らずに。
わたくしとレオナルド様の「合同演習」の第二ラウンドが、街中で始まろうとしていました。




