第二話:聖剣、砕ける
銀色の刃が、わたくしの鼻先を掠めました。
「確保せよ! 逃がすな!」
騎士たちの怒号が飛び交います。
わたくしはドレスの裾を片手で摘み、最小限の動きで剣撃を回避しました。
サイドステップ。
バックステップ。
スウェー。
ボクシングのフットワークを応用した動きです。
ヒールのある靴ですが、足指の把持力(グリップ力)で地面を鷲掴みにしているため、バランスは崩れません。
右から袈裟懸けに振るわれた剣を、上半身を反らして避ける。
左から突き出された槍を、首を傾けてかわす。
彼らの動きは遅すぎます。
まるで水の中を動いているかのよう。
毎日、全速力で落下してくる滝の水を正拳突きで弾き飛ばす修行に比べれば、止まって見えますわ。
「ちょこまかと……! 当たらないぞ!」
騎士の一人が痺れを切らし、大振りの一撃を放ってきました。
隙だらけです。
わたくしは思わず溜息をつきそうになりました。
このまま避け続けるのも時間の無駄ですわね。
有酸素運動としては悪くありませんが、このコルセットの締め付けでは酸素供給が追いつきません。
早めに終わらせて、深呼吸がしたいのです。
「そこだ!」
正面から切りかかってきた騎士。
わたくしは彼の剣を避けるのではなく、あえて一歩踏み込みました。
ふわり、と。
あくまで優雅に。
舞踏会のダンスのターンを決めるように。
そして、すれ違いざまに彼の手首を「トン」と小突きました。
本当に、軽くです。
ハエが止まったのかと思うくらいの力加減でしたわ。
「ぐあっ!?」
騎士の体が、独楽のように回転しながら吹き飛びました。
彼はそのまま会場の壁まで一直線に飛んでいき、豪華なタペストリーごと壁にめり込みました。
ズドン、という鈍い音が響きます。
あら。
少し力のベクトル調整を間違えましたかしら。
手首の関節を外して無力化するつもりでしたが、遠心力が乗ってしまったようです。
「なっ……!?」
周囲の騎士たちが動きを止めました。
壁に埋まった同僚と、涼しい顔で立っているわたくしを交互に見比べています。
「あ、足が滑ったようですわね。床のワックスが効きすぎているのではなくて?」
わたくしは扇子を開き、オホホと笑って誤魔化しました。
苦しい言い訳であることは百も承知です。
「ば、化け物か……!」
「か弱き令嬢だと聞いていたが、何なんだ今の動きは!」
騎士たちがじりじりと後退り始めました。
賢明な判断です。
野生動物は本能的に、自分より食物連鎖の上位にいる存在を察知するものですから。
しかし、その空気を読まない方が約一名。
「ええい、不甲斐ない! 十人がかりで女一人捕らえられぬとは、騎士団の恥さらしめ!」
アルフレッド殿下です。
彼はリリィ様を背後に隠しながら、憤怒の形相で前に進み出てきました。
「僕がやる。王家の威光を見せてくれる!」
殿下が腰に佩いた剣の柄に手をかけました。
鞘から抜かれた刀身が、シャンという澄んだ音と共に黄金の輝きを放ちます。
あれは。
王家に代々伝わる国宝、「光の聖剣」。
選ばれし王族にしか扱えず、あらゆる悪を断つと言われる伝説の武器です。
ゲームの中では、ラスボスである魔王にトドメを刺す最強アイテムでしたわね。
「マリアンヌ! その性根、僕がこの聖剣で正してくれる!」
殿下は聖剣を頭上に構えました。
切っ先がわたくしに向けられます。
魔力を帯びた刃が、チリチリと空気を焦がしています。
さすがに聖剣。
ただの鉄塊とは違う、重厚なプレッシャーを感じます。
あれをまともに受ければ、鍛え上げた大胸筋といえども無傷では済まないかもしれません。
……擦り傷くらいはつくでしょう。
「覚悟!」
殿下が叫びと共に踏み込みました。
速い。
先ほどの騎士たちとは比べ物にならない速度です。
腐っても王太子、英才教育を受けているだけはあります。
わたくしは避けようとしました。
しかし、背後には料理が並べられたテーブルがあります。
避ければ、愛しのローストビーフやテリーヌたちが聖剣の餌食になってしまう。
それは重大なタンパク質の損失です。
守らねば。
筋肉の源を。
わたくしは避けるのをやめ、その場に仁王立ちしました。
そして、振り下ろされる黄金の刃に向かって、両手を合わせるように突き出します。
真剣白刃取り。
バシィッ!
乾いた音が会場に響き渡りました。
わたくしの両手のひらの間で、聖剣がピタリと停止しています。
「な……」
殿下の目が点になっています。
わたくしの顔のすぐ目の前で、聖剣は微動だにしません。
「あ、危ないところでしたわ、殿下。料理に埃がかかってしまいます」
「き、貴様……聖剣を、素手で……!?」
殿下は顔を真っ赤にして、剣を引き抜こうとしました。
ぐぐぐ、と腕に力を込めています。
しかし、わたくしが挟んだ剣は、万力で固定したかのように動きません。
「放せ! この怪力女!」
「怪力とは失礼な。これは握力ではなく、広背筋による引き寄せの力ですわ」
「訳の分からないことを言うな! 放せと言っているんだ!」
殿下がなりふり構わず、全体重をかけて剣を引っ張りました。
わたくしは、うっかりしていました。
殿下の筋力など、赤子同然だということを。
わたくしが力を緩めない状態で、彼が無理に引っ張ればどうなるか。
支点、力点、作用点。
物理の法則が働きます。
パキン。
甲高い、硬質な音が響きました。
殿下が後ろによろめき、尻餅をつきます。
その手には、剣の柄と、半分ほどの長さになった刀身が握られていました。
そして、わたくしの手の中には。
残りの半分。
黄金に輝く刃の先端部分が、悲しく光っていました。
「あ」
わたくしの口から、間の抜けた声が漏れました。
会場が、水を打ったように静まり返ります。
音楽も止まり、騎士たちの呼吸音すら消えました。
誰もが口を開け、信じられないものを見る目で、折れた剣を見つめています。
聖剣。
国宝。
王権の象徴。
オリハルコン製で、ドラゴンが踏んでも折れないと言われる最強の剣。
それが今、わたくしの手の中で、ポッキーのように折れていました。
「……あら、脆いですわね」
わたくしは冷や汗をかきながら、精一杯の笑顔を作りました。
内心はパニックです。
これ、弁償したらいくらになりますの?
公爵家の財産を売り払っても足りないのでは?
器物損壊罪で、婚約破棄どころか投獄確定なのでは?
「う、嘘だ……」
殿下が震える声で呟きました。
彼は折れた剣を見つめ、現実逃避するように首を振っています。
「僕の聖剣が……選ばれし勇者の剣が……」
「不良品だったのかもしれませんわ。メンテナンス不足です」
わたくしはそっと、折れた刃を近くのテーブルに置きました。
証拠隠滅したいところですが、数百人の目撃者がいます。
「ば、化け物……」
リリィ様が小さく悲鳴を上げ、失神して床に倒れ込みました。
どうしましょう。
完全に「悪役」を超えて「モンスター」扱いになってしまいました。
これでは平穏なスローライフなど夢のまた夢。
指名手配されて、討伐隊を組まれてしまうかもしれません。
その時です。
凍りついた静寂を破るように、重厚な足音が近づいてきました。
カツ、カツ、カツ。
軍靴の音。
騎士たちが慌てて道を開けます。
現れたのは、長身の男性でした。
燃えるような銀髪に、氷のように冷徹な青い瞳。
漆黒の礼服の上からでも分かる、研ぎ澄まされた肉体美。
王宮騎士団長、レオナルド・ヴァン・アイゼン様。
この国で最強と謳われる男です。
彼ならば、今の騒ぎを見ていたはず。
公爵令嬢が聖剣をへし折るという、前代未聞の不敬を。
間違いなく、わたくしを捕縛しに来たのでしょう。
わたくしは覚悟を決めました。
彼相手では、手加減などしていられません。
本気で戦わなければ、負ける。
ドレスが弾け飛ぶのも辞さない構えをとろうとした、その瞬間。
レオナルド様は、わたくしの目の前で足を止めました。
そして、折れた聖剣には目もくれず、わたくしの顔をじっと見つめました。
その瞳には、侮蔑や恐怖の色はありません。
あるのは、熱気。
獲物を見つけた猛獣のような、あるいは素晴らしい芸術品に出会ったような、強烈な光。
「……美しい」
低い、けれどよく通る声が、わたくしの耳を打ちました。
はい?
今、なんと?
「無駄のない体幹。完璧な重心移動。そして聖剣をも凌駕する、圧倒的な質量」
レオナルド様は、うっとりとした表情で、わたくしの二の腕あたりを見ています。
いえ、正確には二の腕の筋肉(上腕三頭筋)を見ています。
「ずっと探していた。私の隣に立つに相応しい、強き者を」
彼はゆっくりと跪き、わたくしの手を取りました。
聖剣を折ったばかりの、その手を。
会場中が、再び別の意味で凍りつきました。




