記憶、ログアウトしないで
その夜、深夜三時。密やかに、ナギの部屋のバイオメトリクスロックが解除された。
警報も鳴らず、パネルにはたった一つ、見覚えのないログイン名が浮かんでいた。
【YUDA_0001:アクセス完了】
目を覚ました瞬間、ナギは肌にまとわりつく冷気を感じた。わずかに下がった室温。喉が焼けるように痛い。
だが、それ以上に――何かが違う。空気の密度が狂っている。異物感が、じっとりと鎖骨の内側を這い上がってきた。
そして、部屋の隅に──男が立っていた。
赤いパーカー。色が褪せ白みがかったジーンズ。脇に抱えた小さな青のノート。
記憶にあるはずのない姿が、なぜかあり得ないほど身近で、恐ろしいほどに「既視」だった。
「こんばんは、ナギ。……俺のこと、覚えてるか?」
乾いた声だった。砂丘に突き刺さる針金のような音色。あまりに音が軽く、逆に重い。
「誰だ、お前」
反射でロックを再装する間もなく、男は勝手にソファに腰を下ろしていた。
生体スキャナに反応しなかった。つまり、これは本物の身体ではない──記憶データが仮想人格として顕現する〈アストラルシステム〉の産物だ。
しかし起動プロトコルを経ていない。誰かの意思で顕現したのではない。これは、記憶そのものが自律して現れた“異常”。
「ユダ。俺は、お前の記憶から削除された存在だ」
その言葉と同時に、耳の裏のマイクロレセプターが微かに痺れた。
ナギは「記憶削除局」、正式には〈感情的権限の再設計担当〉として勤務している。
人々の望まぬ記憶──痛みや喪失、トラウマなどを選び取り、安全に切除するのが彼の仕事だ。そして、彼自身もまた過去を切り取ってきた。
「記録ならログに残る。だが俺は“痛み”だった」
ユダの視線が刺さる。「忘れたい過去」など、抽象ではなかった。
「お前は消去した。意味ごと。けれどな――記憶には死に方がある。俺は、死ねなかっただけだ」
彼はゆっくりとノートを開いた。濃い藍色のインクで、ある一行が記されていた。
〈2027年8月14日、午後2時22分〉
〈兄の顔が、一瞬だけ、化け物に見えた〉
ナギの全身が冷たくなる。
あの日だ。陽炎のように揺れる夏の道路、兄と自転車で並走した下り坂。後続のスリップ音。突き刺す金属音。血の匂い。
ひしゃげたフレーム。その向こうに、兄の……。
「これは、記憶じゃない……」
「そう、“切り離された苦しみ”だ。削除された“意味”そのもの。形を持たぬまま漂い、記録にも存在できず、それでも残り続けたものだ。最近、同じような連中が増えてる。この世界に湧き上がってくるみたいに──なあ、知ってるか? 冷めない記憶ってのは、泡と一緒なんだ。底から、浮かび上がってくる」
ページがめくられる。老いた男の顔。名前のない少女。被写体不明の断片。次々と綴られた、その“追放された記憶たち”の名もなきリスト。
ナギの脳裏を、先週のニュースの見出しが電撃のように駆けた。
〈記録情報局・局員三名、相次ぐ変死。脳内レセプターに異常な残響信号〉
その全員が、自分の取り扱った案件に関わっていた。
記録は削除されても、痕跡は残る。神経に小さく焼きついた火種のように。
「記憶って、誰のものだと思う?」
ユダが問いかけた。あまりにも、真っ直ぐに。
「当然……持ち主のだ」
「なら、誰かがそれを“完全に忘れさせる”のは正義か?」
ナギは答えられなかった。正面から照らされたような言葉に、視線を落とした。
スキャナーはユダを“技術的非存在”と認識している。にもかかわらず、彼の言葉は熱を帯び、そこに肉の重さが明確にあった。
幻であるはずの存在が、今まさに「生きている」。
「もしこっちの世界が、誰かの記憶の中だとしたら──覚えていてくれる者がいなければ、俺たちも街も世界も消えていく。そんな世界を、生きたいか?」
そのとき、部屋の壁に微かなざらつきが走った。空間の輪郭が揺らぎはじめる。歪み。軋む音。
「待て、何が起きてる?」
ユダが微笑む。歪んだ声で囁くように言った。
「君の記憶フィールドが破綻したんだよ、ナギ」
コンソールの上に赤い文字が点滅する。
【REBOOT:DEFRAGMENTED ZONE】
「君は、棄てきれなかったんだ。消したつもりでも、思い出してる。だから、ログが壊れる。記憶の構造が、自動修復を始めている。世界全体が、再起動を始めている」
壁紙が流れ出す。ソファが崩れる。時間の織り目が、音もなく剥がれていく。
記憶の内側が崩落していく中、そこに最後まで残っていたのは、一冊のノート。
青く滲んだ紙面に、ひときわ濃く焼きついた言葉。
〈記憶とは、捨てられたものほど熱く濃い〉
*
まどろみの果て、ナギは白珪の診察台に横たわっていた。天井のライトが明滅し、見知らぬ医師が淡々と告げる。
「記憶編集プロトコルの失敗です。四日間、自己の記憶内部を仮想空間として構築し、その中で意識を喪失していたようです」
「……ユダは?」
わずかに震える声で訊ねた。医師は静かに首を振る。
「“ユダ”というエンティティは、当該記憶エリア内には確認できません。もともとの記録にも、存在していませんでした」
ナギは言葉を失った。ただ、ひとつだけ。掌に確かな“痕跡”があった。
指先に滲む、青インクの汚れ。
――ノートを閉じるとき、確かに触れた。手に移った、その感触が消えていない。
夢か現実か、どこまでが仮想か。曖昧な境界のなかで、ただ一つだけ確信していた。
“記憶は、忘れられても死なない”。
それらは静かに、しかし確実に、私たちの中に息をしている。
深く、濃く、そして容赦なく――。




