六話 腹をくくったなら決別のビンタから 下
出たときと同じようにこっそり戻るつもりだったが、なにやら使用人たちが慌ただしくしていて人目につかずに部屋に戻るのは難しそうだ。
物陰で様子を伺いながらそう思った矢先、一人と目が合って見つかってしまった。
「リリカお嬢様! いったい今までどちらに――」
ぎょっとしたメイドは問いかけもそこそこに奥へ向かって「お嬢様がいらっしゃいました!」と悲鳴のように叫んだ。その一声であちこちの部屋から使用人がひょこひょこと顔を出したと思えば、奥から一際身なりの整った男女が早足で現れた。
厳めしい顔で大股でやってきた赤髪の男性はリリカの父であるリータスで、その後ろを小走りに追いかける黒髪の美しい女性が母のシオンである。二人から遅れてリーベも走ってきた。その顔には「忠告したばかりだろう」と不満と怒りがくっきりと浮かんでいる。
「リリカ! 騒ぎを起こしたばかりのくせに私たちに許可も取らずいったいどこに行っていた!?」
怒気溢れるリータスの剣幕にシンシアがびくりと震える。茜は見つかったからにはしょうがないと堂々としていた。さすがに無視して部屋に戻るのもどうかと思い、二人がやってくるのを待ってから答えた。
「ずっと臥せっていたので気分転換に外に出ていました。ご心配なさるような騒ぎはおこしていません」
刃物男のことはわざわざ言わずともいいと判断した。周囲に人は少なかったし、二人の耳に入る可能性は低いはずだ。
(それに余計なこと言って話が長引いても面倒だし)
内心の茜の億劫さなど知らず、公爵夫妻はというと揃って娘の態度に目を剥いていた。
思わず目配せし合う姿からもその動揺が窺える。
言葉だけ見れば今までと変わらないリリカだが、その態度が問題だった。
リリカは外でいくら騒ぎを起こしたとしても、夫妻と兄の前では小さくなって従順にしている物静かな娘だった。公女らしく貴族子女らしく――となにかにつけて小言を言えばしおらしく頷くような娘だった。そのはずだ。
だが、今のリリカは違う。口ぶりこそ控えめだが、その態度はどこまでも義務的だ。当たり前だ。リリカが持ち得ていた家族への親愛が、茜にはないのだから。
夫妻に気持ちが向いていないことなど明白な冷めた態度に周囲がひっそりと衝撃を受けるなか、茜は茜で内心で訝っていた。
(リリカの小さい頃の記憶じゃこっちには無関心でろくに会話もしない様子だったけど……こんなふうに怒る人たちだったっけ)
幼少の頃からリリカは二人に声をかけられることもなければ、騒ぎをおこしてもたまに小言が飛んでくるぐらい。それか冷めた目で一瞥されるだけだ。
なによりも家門の体裁や誇りを大事にする人たちで、公爵家として人一倍貴族としての矜持も高い。そのため、こんなふうにみっともなく激昂することだって本来ならほぼあり得ない。
よくよく思い返してみると、彼らがハッキリと態度でリリカへの嫌悪や怒りを表し始めるのはいつもリリカが十六になってから――つまり繰り返し続けているこの一年のことだ。
(大人になってまで落ち着かない娘の精神性に痺れを切らしたとか……?)
どこか腑に落ちないがそうとしか考えようがない。
「とくにここ数日はお父様たちにはご迷惑をおかけしました。もうあのような騒ぎを起こすつもりはありませんのでご安心ください。私は今後はアカデミーへ通って勉学に励みたいと思います」
あくまでも口ぶりだけはしおらしく茜は話を結んだ。アカデミーの報告まで済ませられたのでラッキー、なんて考えながら夫妻どころか立ち尽くすリーベまで追い越したところでリータスが放心から戻った。離れていく娘の背中に鋭く呼びかけた。
「リリカ! なんなんだ急にその態度は……!」
「そうよ、リリカ。今までは外でばかり騒ぎを起こしていたかと思えば、今度は私たち家族にまでそんな態度をとるつもりなの?」
シオンがリータスを後押しするように諫めてくる。「家族」という言葉に茜は思わず立ち止まった。ふっと無意識に鼻で嗤った。
――彼らはいったいどの口でそんなことを言っているんだ。
自分たちの言葉で立ち止まった姿に従順な娘の影を見たのか二人は調子を取り戻したようだ。
「どうしてこうなってしまったのかしら……昔から大人しく淑女らしくと言い聞かせて育ててきたのに。最近では騒ぎばっかり」
「部屋に閉じこもったかと思えば怪しい儀式に手を染め、今度は家族にまで生意気な態度を取るとはな……公女ともあろう娘が情けない」
嘆くシオンの肩をリータスがそっと抱き寄せる。一見すれば不良娘に振り回される善良な両親の悲嘆だ。しかし、寄り添う二人の姿に茜の心はますます冷えていった。冷えた底から、今度はぐつぐつとなにかが煮え出した。それは明確な怒りだった。
(どうしてこうなった? あなたたちがそれを言うの?)
芝居がかったような夫妻の姿を茜は鼻白んだ目で睨めつけた。
リリカが死の恐怖を誰にもこぼせず一人で耐えるしかなかったのはなぜだ。騒ぎを起こすことでしか両親の関心を買えなかったのはなぜか。
ふつふつと湧く怒りの中、まるで感化されたようにリリカのある記憶がまざまざと蘇った。彼女の底深く刻まれた大きな傷。リリカが生涯で最も怒りという感情に支配された一瞬。
――ああ、聖女様。こうしてお目にかかれて本当に光栄ですこと。
――私たちにも同じ年の娘がいるんですがいささか扱いに困る者でして……ええ、本当にあなたを見習って欲しいものです。
――俺の妹も、あなたのように清い心を持ち、優しい女性であったならと何度願ったことでしょう。
その瞬間のリリカの悲しみが、絶望が、痛みが、怒りが、その感情の一欠片だって彼らにはきっと分からない。
聖女を殺してやりたいとまで追い詰めたのは、果たして誰だったのか。
脳裏を過る日記のあるページが、茜の中にめらめらと怒りの炎をくべていく。口が悪くなるのなんて当然だ。
「……外面ばっかのクソ野郎ども。家族を、娘を大事にできないクズ野郎」
口の中で含むように低く呟いた。
ようやく最後のピースがはまったように、茜はどっしりと腹をくくった。その静かな決意に――茜の異変に気づいたのはそばにいたシンシアだけだ。
「お嬢様……?」
呼びかけを置きざりに今度は自分から夫妻の元へ大股で近づいた。またも通り越されたリーベは妹のどす黒い顔に思わず悲鳴が出るところだった。
夫妻二人も急に娘が方向転換して早足にやってくるものだから驚いた。しかし驚いた矢先、勢いよく片腕を振り上げた茜が鞭のような俊敏さでリータスの頬を打ちつけたのだ。たちまち重たい乾いた音が響く。同時に声のない悲鳴が屋敷中に響き、すぐに痛いほどの静寂が支配した。
使用人たちだけでなく公爵も夫人も、後継者たる長男も、誰も彼もが息すら忘れて一人の少女を見ていた。
やがてシオンが糸の切れた操り人形のようにパタリとへたりこんだ。それを合図にしたようにリータスは引きつるような痛みを追いかけて片頬に手を添えた。
なにがなんだか分かっていない呆然とした二人の瞳は、いっそ純粋なほど綺麗なものに見えた。夢から覚めたような辿々しさで「リリカ……?」と震えた音が二つ茜を見上げてきた。
「――今まで家族扱いなんてしたこともなかったくせに」
かすかな怒りが滲む声で茜は答えた。
手のひらがじんじんと痛みや熱さを伝えてくる。その度に胸が引き裂かれんばかりに切なくなるのはリリカの身体が悲しんでいるのだろうか。
「今後あなた方に迷惑をかけるようなことはしません。もちろん家門の名に泥を塗るようなこともしません。だから、もう私に干渉してこないでください」
言うだけ言って背中を向ける。動揺した声が細く「リリカ」と呼びかけたが振り返る気にはならなかった。リーベもおずおずと手を伸ばしたが引き留められてやる義理はない。
歩みはいつの間にか駆け足じみた速さになっていて茜は自室に飛びこんだ。
唯一追いかけてきたシンシアには適当に用事を頼んで一度退室させた。
静かになった部屋で茜が思うのはリリカのことだ。寝台そばのシェルフに向かう。おもむろに取り出したのはあの隠しスペースにしまいこまれていた日記帳だ。
一ページずつ感触を確かめるようにめくっていって茜はそれに行き着いた。
「リリカ、あなたは家族を――ううん。あんな家族とも呼べないような人たちをまず捨てるべきだったんだよ」
そっと指先で触れたのは「死にたくない」の震えた文字。そのページにたった一言だけ書かれた彼女の短い願い。紙はぽつぽつと円形にふやけた跡があって、書いた当時のリリカが泣いていたのだと容易に推測出来た。
何度も何度もやり直し、心が折れるまで処刑されることを繰り返した十六歳の少女は、どれだけ強く願ってもそれを誰かに打ち明けることはできず、固く部屋に閉じこもってこうしてひっそり一人で泣きながら文字に起こすことしかできなかった。
そんなリリカの姿を、想いを想像するだけで茜は自分も泣きそうになる。
誰かに自分の人生を委ねるまで思い詰め、それほど死にたくないと願っても、彼女は一度たりとて家族を捨てる――離れる選択はしなかった。出来なかったのだ。あんな人たちでも、リリカは愛していたから。あの人たちだけを愛していたから。あの人たちだけは、大事だったから。
手のひらに残る微かな熱が、まるで責めているように感じられて茜の胸を引き絞った。
「ごめんなさい。でも、あなたと同じ道を歩んでも仕方ないと思うの。私が私らしく――リリカらしくないことをすることで運命が変えられるって信じたい。――だから頑張ってあなたの運命を、変えてみせるよ」
そしてリリカに身体を返すのだ。彼女があれだけ願った「その先」をみせてあげたい。
痛む手にひっそりと語りかけていた茜は日記帳を閉じて湿っぽい空気を霧散させた。前を見据える赤い瞳には強い意気込みが宿っている。
運命を変えよう。これも盛大な人助けだと思えば頑張れる。そのために伊多茜はしばしの間リリカ・マグノロスとして生きていくのだ。
きっと見守ってくれているだろう両親と祖母へ向け、茜――いやリリカは強く決意した。




