五話 腹をくくったなら決別のビンタを 上
なにやら呆けていたサチェルを置いて帰路へつく茜を、慌てたシンシアが追いかけてきた。
「お嬢様! 神学科の生徒に向かってあんなこと言っちゃダメですよ!」
コソコソした耳打ちに首を傾げた。
「あんなこと?」
「神の導きを否定するようなことを言ったじゃないですか!」
「ああ。だって私神さまって信じてないから」
言ってからまずいと思った。
リリカ経由の知識だが、グリオッサのみならず多くの国は王権神授説――王は神によって選ばれた――が根付いていて人々と神とは密接な関係にあるのだ。
実際に一部の人々が持つ異能を神から与えられた加護として「魔術」「聖力」と尊んでいる。
そんな世界で「神を信じない」という発言は、王族の権威にも逆らうような発言ととられても仕方がない。
そもそも神の声を聞ける神官もいるような世界だ。もちろん全ての人々が心酔しているわけではないが、神の存在自体を疑う者なんて異端も異端である。
焦りと緊張からそろりとシンシアを窺い見る。案の定言葉をなくしたように栗毛の女性は唖然としていた。すぐに我に返った彼女は周囲を見渡すと真っ白な顔でピッタリとくっついてきた。
「そんなこと大声で言ったらダメですよ! 捕まって処刑でもされたらどうするんですか!? とくに今は王家と神殿とでややこしいことになってるんですから、それこそ公爵家の方がそんなこと言おうものなら槍玉に挙げられてどんな目にあうか――!」
「ごめん。本当に気をつけるよ。そういえばなんで彼が神学科だって分かったの?」
「なんでって……アカデミーの制服を着てたじゃないですか。もう、本当に今日はどうされたんですか?」
心配したように憂う眼差しから目を逸らして逃げた。
「ごめんごめん。ど忘れしてたみたい。ほら、結局私は通ってないしさ」
笑って誤魔化す茜に、シンシアは疲労感たっぷりに息を吐いた。さっきの発言はそれだけヒヤヒヤさせたらしい。申し訳なく思った茜は心の中でもう一度謝っておいた。
記憶を探るとアカデミーのことは簡単に出てきた。首都のアカデミーは十代半ばの、主に貴族の子息子女が通うための教育機関だ。
学科ごとに生徒は所属が別れていて、制服のケープの色が異なる。
さっきのサチェルが纏っていた白いケープは神学科の生徒の証しだ。卒業後は神官や聖騎士として神殿に所属する者たちである。
(それにしても記憶不便だなあ)
リリカの記憶がそのまま引き継がれてはいるが、主となる意識や記憶は茜である。彼女の記憶はあくまで情報として持っているだけなのでどうにも扱いづらい。
大まかな知識や文化は考えずとも分かるが、詳細を知りたければ頭の中で検索をかけるように意識して読み込まないと分からない。
あらかじめ必要そうなものは書き出しておいたほうがいいかもしれない。
「さっきの男性だって逃がしてしまってよかったんですか?」
「ああ……あの刃物の」
逃げた男を思い返す。反射的に恐怖がゾクリと蘇ったが、すぐに切り替えて茜は首を振った。
「いいの。リリカに恨みを持ってる人なんて探したら山ほどいるし、全員を罰していくわけにもいかないしね」
これで捕まえて厳罰に処したなんて知れたらそれこそ悪女と名高い名声がまたまた上がることだろう。
そもそもがリリカの自業自得な部分もあるのだ。
(なんだってお店を取り壊して路頭に迷わせるようなことしちゃったのかなあ)
さっきの男は地方では名の知れた菓子職人だった。念願叶って首都へ出店したのだが、リリカの一声で店は取り壊されてしまった。彼の夢は数ヶ月で打ち捨てられたわけだ。
記憶の中の姿は子綺麗に整えたシェフの姿だが、さっきの浮浪者のようなぼろ切れを纏って清潔さもない姿では公女の怒りを買ったからと仕事にはありつけていないのかもしれない。
世間体を気にするマグノロス家の両親ならば口止め料も込みでそれなりの金銭を渡していそうなものだが、使い果たしてしまったのだろうか。
路頭に迷う姿には、もちろん茜も憐れみを覚える。しかし手を差し伸べる気にはならない。頭の中に当時の記憶があるだけに、全面的にリリカが悪いとは言えないし、男へ向ける感情も同情だけに振り切れないのだ。
だからこそ今回の件のみ不問とする。それが男へ抱く中途半端な同情からの餞別だ。
しかし、それはリリカ・マグノロスとしてあまりにかけ離れた決断なのだろう。不意に後ろでシンシアが呟いた。
「本当にお嬢様はいったいどうされて……」
尻すぼみな声は困惑に満ちていた。振り返ると迷うように揺れる瞳があった。シンシアの唇は幾度も開きかけては閉じ、最後には強く引き結ばれた。彼女の葛藤が茜にはまざまざと想像出来た。そしてシンシアを茜はやっぱり申し訳なく見ているだけだった。
真実を話せないなか、かける言葉を持たなかったのだ。真相を話す以外の全ての言葉が、彼女へ向けるには不適切で不誠実に思えたからだ。
「……いえ。すみません。なんでもありません」
固く瞑った瞳が再びリリカ――茜――を認めたときには、もう迷いは消えていた。
「……ありがとう。シンシア」
感謝しつつも、茜はその目を見返すことは出来なかった。
ずっとそばにいたシンシアのことだ。これだけ様子の変わったリリカに訊きたいことも困惑もあるだろう。それでも彼女がなにも訊かずにいてくれるのはさきの茜の言葉が――いや、彼女にとってはリリカの言葉が――あるからにほかならない。
訊かない選択こそ、シンシアにとってのリリカへの忠誠と信頼の証しなのだ。
そんなリリカへの強い想いを含んだ真っ直ぐな瞳を、不可抗力とはいえ騙している自分が正面から見返すには胸にある罪悪感が邪魔をした。
「ねえシンシア、私ってまだアカデミーの所属なのかな」
話題を逸らすように訊ねる。狙い通りシンシアは人の良さそうな少女の顔に戻って答えてくれた。
「公爵様はお嬢様をアカデミーに通わせたいようなので退学させることはないかと思いますが……アカデミーに通われるのですか?」
「そのつもり。あの家にずっといるのも窮屈そうだから外にいたいし、知りたいことも知らなきゃいけないこともあるから」
といっても、学費やら諸々は公爵家のお金である。そうなると通学することをリリカの両親には伝えなくてはならないだろう。それぐらいの筋は通すべきだと思う。
(あんまり会いたくはないんだけどね)
両親ともに通わせたがっていたようだし反対はしないと思いたい。
そうして茜とシンシアは日が暮れるよりも前に屋敷に帰ってきた。




