四話 夢みたいな現実 下
「うわあ……すごい」
市街の通りに出た茜は思わず感嘆してしまった。
吸い込まれるような青空の下に広がるのは赤やクリーム色が特徴的なレンガ造りの建造物だ。装飾の施された窓や突き出た煙突たち。通りには街馬車が駆けているし、女性は丈の長いスカートを、男性はかしこまったようにベストやボトムスを纏っていた。
(昔の海外ってこういう感じなのかな……)
口を開けて圧倒されてる茜自身も、シンシアに着替えさせてもらって藍色のワンピースドレスに着替えていた。パンツスタイルばっかりだったものだからくるぶしを隠すような丈の長さは気になるが、思っていたよりは動きやすくて安心したものだ。
「リリカお嬢様、今日は陽差しが強いんですから日傘はちゃんとさしてください。だから私が持つって言いましたのに」
「ああ。ごめんね、シンシア」
つい手元が疎かになっていた。傘を抱え直し、行く当てもなくのんびりと歩き出す。
シンシア曰く、今は秋もようやく深まり始めたころだという。本来は穏やかな日が続く時分のようだが、数日前の季節外れのひどい嵐が来た反動か陽差しも強く夏のように空が澄んでいるのだとか。
身体の緊張を解くように深く呼吸をしてみる。心なしか空気が違う気がした。
(本当に異世界なんだなあ……)
こうして目で見て、肌で感じると夢じゃないんだって思い知らされる。
歩く茜の脳裏には、部屋で見た日記が思い返されていた。いやでも実感が深まっていくと同時に、茜の中で少しずつ覚悟も定まっていった。
と、後ろを着いてきていたシンシアが不意に訊ねた。
「あの……リリカお嬢様、今日はなんだかいつもと雰囲気が違いますね?」
ドキリと冷たく心臓が跳ねた。
曖昧な問いかけだ。戸惑いつつも瞳は真っ直ぐにリリカを見ている。茜はそれに答えず――いや、答えられずに振り向いてシンシアをひたと見た。
「ねえシンシア。私これからあなたから見ればリリカらしくないってことたくさんすると思うの。それでも、信じてついてきてくれる?」
シンシアはリリカの人生において唯一の味方であり理解者だ。
家族から疎まれ、神経質な性格のリリカのことも恐れずそばに居続けてくれた人。リリカが処刑されるときには最後までマグノロス家の面々に抗議し、何度かは共犯という冤罪で一緒に処刑されたこともある。
そんな彼女が、今リリカとして立っているのが別人だと知ればどう思うだろう。
それこそ大騒ぎになるはずだ。なんせ慕うお嬢様に知らない他人が乗り移っているのだ。騒がない方がおかしい。
だからこそバレるわけにはいかない。距離を取るのが一番手っ取り早い。彼女を除けば好き好んでリリカに近づく者はいないし、きっと茜に気づく人なんていない。
けれど、リリカの記憶を持つが故に二人のことを引き離すのは気が咎めた。だから、この手しかないのだ。
毅然と答えを待つ茜だが、内心では極度の緊張で息もままならないほどだった。
対するシンシアはひどく困惑していた。意図のつかめない質問だ。当然である。
だが、茜の様子からなにか感じ取ったようで、彼女は生真面目な顔になると強い眼差しでしっかりと頷いたのだ。
「私はなにがあってもお嬢様の味方です」
「……ありがとう」
その瞬間の安堵といったら……今まで感じたことのないほどの開放感だ。
背中を向け、声もなく身体中の空気を吐き出すように安堵の息をついた。そして次の瞬間にはキリッとした腹の据わった顔で胸を張った。
そうと決まったら早く公爵家へ帰ろう。リリカは目立つ容姿もあってずいぶん人目を惹くようだから。
(いや、この場合は大体の店でリリカが暴れたことがあるから……かな)
リリカが前を通る度に店員が緊迫した顔で息を飲んでいるのは気のせいじゃない。誰も彼もがどうか何事もなく通り過ぎてくれ――そんな切実な願いが容易に想像出来る顔をしている。
ぼんやりと記憶を辿ってみる。家ではピリピリしつつも口数も少なく静かだったリリカだが、外では真逆のトラブルメーカーだった。
少しでも気に食わないことがあれば大袈裟に騒ぎ立て、公女であることを笠に着て相手を威圧する。行く先々でそんなことをしでかしては両親が尻拭いとばかりに金で解決していた。
ちなみに閉店に追い込まれたショップも数多くある。閉店にならずとも苦い思いをした店はさらに多いので、ときどき嫌な視線を感じるのは過去の被害者たちだろう。ちくちくと刺すような視線はどうしたって居心地を悪くさせる。
「シンシア、そろそろ帰りましょうか」
と、振り返ったときだった。不意に建物の影から男が一人リリカへ向かって飛び出してきた。その手にきらりと光る刃物を認めたところでもう遅い。鋭い刃先がリリカの細い腹部へと吸い込まれていく。襲い来るだろう痛みを前に、茜は硬直することしか出来なかった。痛いほどに目を瞑って覚悟した茜だが、実際に痛みに襲われることはなかった。
困惑しながら恐る恐る目を開く。そこには庇うように立つ男の背中があった。
年はリリカとそう変わらないだろう若い青年だ。銀の髪がさらさらと光を反射していて昼間なのに星をみているような錯覚を覚えた。
背丈はあるが特別筋肉質はわけでもない。だが、青年は飛び出してきた男の腕を片手で押さえつけ涼しい顔をしている。
腰に剣を携えているので騎士なのかもしれない。
スラリとした体躯なのにどれだけの腕力なのか。押さえられる男の額には脂汗が滲んでいた。そのうち痛みに耐えかねて男は刃物を取り落とした。
すぐに青年の片足が刃物を捕らえた。同時に男の腕が解放される。痛む手を庇いながらも男の血走った目はギラギラとリリカを捉えていた。しかし、チラリと青年を気にして、そうして不承不承とばかりに逃げ出した。
「おい、待て――!」
「待って!」
咄嗟に追いかけようとした青年の手をとって引き留めた。
振り向いた彼の瞳が初めてまともにリリカを見た。噂の公女を知っているのか、青年の目が驚きで見開かれる。ハッと息を飲む音がした。しかし、それはリリカも同じだった。
青年の瞳は、銀の髪の輝きにも劣らないほど深く澄んだ碧い色をしていた。
(――綺麗な人)
思わず言葉をなくして茜はそう思った。
すっきりしたシャープな輪郭や筋の通った高い鼻。この涼しげな目許に見つめられたらどんな女性もときめいてしまいそうだ。
その美貌もさながら、茜が彼から目が離せないもう一つの理由。リリカの記憶じゃない。伊多茜の中にある、遠い懐かしさ。
「私たち前に会ったことある……?」
曖昧で形はない、けれどたしかにある違和感。私、この人に会ったことある気がする。
「……公女様にお目通りしたことはないと思いますよ」
我知らず身を乗り出していた茜からさりげなく距離をとりながら青年がにこりと笑う。お手本のようなそれが茜への警戒故だといやでも察してしまった。
茜は我に返った。途端に申し訳なさが押し寄せてくる。一方でひどく困惑していた。こんな銀髪の綺麗な人が日本にいるはずもない。会ったことがあるなんてひどい思い違いのはず。それなのに、彼に否定された瞬間、たしかに茜はそれこそ刃物で突き刺されたような痛みに襲われたのだ。
「ごめんなさい。べつにナンパじゃなかったんだけど……」
「ナンパ?」
「ああ、ううん。こっちの話」
助けてもらったのだ。これ以上困らせてはいけない。内心の狼狽は表に出さず、茜は咳払い一つで気を取り直す。改めて青年に微笑んだ。
「助けてくれてありがとう。……あなたの名前を聞いても?」
「サチェル・プリストールです」
「サチェル、さっきは助けてくれてありがとう」
「いえ。こうして俺がこの場に居合わせたのも神の思し召しでしょう」
神が公女様を救ってくださったのです。と、サチェルは静かな表情の中に誇らしさを垣間見せた。
それに面白くないのは茜である。今しがた彼に送った感謝が受け取られるどころか明後日の方向に横流しされたのだから。
サチェルの手をとり、半ば意地のような気持ちで心なし強く両手で握った。ムカムカする苛立ちをひた隠し、綺麗な笑顔で真っ直ぐにサチェルを見る。
「私は神さまじゃなくて、今、私を実際に助けてくれたあなたにお礼を伝えたいの。あなたは一歩間違えば大けがをするのも厭わず助けに入ってくれたし、私はあなたがいなければ死んでいたかもしれない」
――ありがとう。
囁くように柔らかく、けれど心の底からの深い感謝をこめて告げた言葉は強い芯を持っていた。
茜は今さらになって恐怖で心臓がバクバクしていた。だが、こうして鼓動を感じていられるのもサチェルのおかげだ。
二度目のそのお礼をサチェルは受け取った。今度こそ受け取らざるを得なかったのだ。強く握られた手は指先から痺れていくようで、その鈍い痛みがサチェルに彼女の内心を推し量らせたのだ。
そして痛みもさながら、赤い瞳に浮かぶ混じり気のない感謝の念がきらきらと瞬くように見えて、サチェルはつい言葉をなくして見とれてしまったのだ。
そうして呆けるサチェルの心情など知らず、伝えるだけ伝えて満足した茜は「本当にありがとね」ともう一度言い置いて立ち去った。




