二話 声に呼ばれて
夕暮れの道で、仕事帰りの伊多茜は道ばたの植え込みの中から雑貨店の小さな包装紙を見つけて躍り上がった。
「あ、あった! ありました! ありましたよー!」
寒さで震えた口許からは喜びの声と共に白い息がしきりに零れた。
近くで同じように道ばたを覗き込んでいた腰の曲がった女性のもとに、飛び跳ねるように駆け寄ってその包装紙を見せた。
「まあまあ。ああ、良かった。これで孫も喜ぶわ」
包装紙を受け取った女性は目尻の皺を深くして「ありがとう」と何度も頭を下げた。
お礼をと食い下がる女性を家で待っているという孫の元へと急がせる。ただでさえ捜索時間でずいぶん冷えこんでしまったのだ。このままじゃ風邪をひいてしまう。それに冬はすぐに陽が沈んでしまう。早く帰らなければ真っ暗になってしまうだろう。
しきりに振り返っては律儀にぺこぺこと頭を下げる女性を、茜は手を振って見送った。
少しずつ深まる夜の気配に女性の影が溶け込むように見えなくなった。ようやく一仕事を終えたと茜はひと息つき、自分も帰ろうとしたところでちらりと見えた腕時計に「あっ」となる。
「あ~……この時間じゃタイムセールの卵は残ってないかな」
高校卒業と同時に就職した会社は残業もほぼなく快適だが、給料はそう多いものじゃなかった。節約はするにこしたことはない。
でも、卵を惜しんだのは一瞬だ。さっきの女性の笑顔と声の名残が胸の風通しをよくしてくれる。
夕飯の買い出しがてら駄目元で売り場を覗いてみたが、やはり安売りの卵は残っていなかった。必要なものを手早く取って会計を済ませ、少し離れた所にあるアパートの一室に帰宅した。
「ただいま~」
冷蔵庫に食材をしまい込んでから茜は奥のリビングに移動する。戸棚の前で膝をつき、並んだ写真の前で合掌した。
「ただいま。お母さん、お父さん。おばあちゃん」
若い男女が寄り添う写真と、一人の年配女性が朗らかに微笑む写真へ笑いかけた。
この帰宅後の挨拶は両親と死別した十六年前からの習慣である。そこに祖母が加わったのは三年前。ちょうど高校卒業の年で、あと一ヶ月もせずに社会人となって育ててくれた恩返しが出来ると胸を膨らませていた春先のことだった。
「今日はね、帰ってくるときに孫のプレゼントなくしちゃって困ってるおばあちゃんがいてさ。それ探してたらちょっと遅くなっちゃった。でも無事に見つかったからよかったよ」
家事はずっと祖母の手伝いばかりだった。しかし、三年もあればある程度の料理は身につく。用意した食事を食べながらその日のことをつらつらと話すのも茜の日課だ。
(あ〜この煮物おばあちゃんの好きな味だなあ)
たまたまネットで見かけて作った煮物は唐辛子がアクセントになってピリリとしつつもうまみが広がる。
祖母はピリ辛料理が好きだった。もちろん三人にも供えてある。
「――あ、でもおばあちゃんの言葉はちゃんと覚えてるからね」
祖父母はお見合い結婚だったという。茜は会ったことはないが、祖父はたいそう女遊びも金遣いも荒い人で祖母はずいぶんと苦労したそうだ。そのせいか茜や母は幼少期から祖母に懇々と言い聞かされたことがある。
――いいかい茜。人助けするのは立派なことだ。でもね、まずは自分の家族を愛して大事にできなきゃいけないよ。
それなりに世話焼きな性分の茜を、祖母は褒めると同時にいつも言っていた。家族は一番身近な人だから、家族を大事にできなきゃいくらよその人を助けられる人でもクズなんだって。
「まあ私はもう家族もいないからこうして人助けに尽力できるんだけどね……あ、もちろんみんなのことは変わらず大好きだよ」
――ねえ、パパ。ぎゅーってして。
――茜は甘えん坊だなあ。ほら、ぎゅーだぞ!
――あ、二人だけそうやってずるい。ママも反対側からぎゅーってしちゃう!
――やだあ! もう二人とも苦しいよお。
はしゃぐ三人の声を追いかけて祖母が顔を出す。
――まったくお前たちそんなんじゃ小さい茜が潰れちゃうだろ。ほら茜、おばあちゃんが抱っこしてあげようねえ。
五歳で死別した両親も、一人で育ててくれた祖母も、みんな茜のことを目一杯に愛してくれた。
温かくて優しいものしか存在しなかった当時の記憶を思い返し、茜は写真の三人に笑いかけた。
「……家族かあ」
両親も祖母も亡くなった茜は天涯孤独だ。もしこれで茜が結婚でもすれば孤独ではなくなるが、茜は自分が三人以外の誰かに愛情を向ける姿が上手く思い浮かばなかった。
ようやく大人の仲間入りをして愛を返せると思ったのにその矛先を失ったものだから、三人にも返せていない愛を誰かに渡すなんてしっくりこなかった。
お腹も満たされ、今日は人助けもできた。三人との思い出まで蘇って心も体もほくほく……十分なはずなのに、胃の底が冷えるような予感を察知した茜はさっさと風呂に入って寝ることにした。
「寝る前のこれが楽しみだからねえ」
ベッドに寝転んでスマホを操作する。慣れた手つきで開いたのはある投稿サイトの小説たちだ。
今じゃスマホ一つで気軽に本が読めるからありがたい。茜はジャンルを絞らずに面白ければ手当たり次第になんでも読んだ。サイト内のランキングから探すことも多く、最近は異世界に転生したりキャラクターに憑依したりする恋愛ものやファンタジーがよく目についた。
「あ、これ面白そう」
惹かれた小説を開く。なかなか文量も多く、楽しく読み込んでいる内に眠気が出てきてしまった。
「うう……いいところなのに……」
これは明日の楽しみにしてもう寝よう。
さすがに夜更かしがすぎると仕事に差し支える。ヘッドライトを切って布団にくるまった。そうすれば茜の意識は簡単に眠りに誘われていく。
――たすけて。
眠りに落ちる寸前、ふと誰かの声がした気がした。
◇
まぶた越しに強烈な日差しを感じて茜は目が覚めた。
「まぶしい……」
ゴロリと寝返りを打って朝陽から逃げた。顔をうずめた布団がなんだかやけに柔らかい。
「……ん?」
そもそも今は冬で日の出が遅い。茜の起床時間にこれほどの日差しが入ってくることなんてあっただろうか。
――まさか寝坊した!?
冷や汗がふき出ると同時に一瞬で意識が覚醒する。飛び起きた茜だったがすぐに驚愕で思考が止まった。――どこ、ここ。
見慣れた自室じゃない。見たこともない派手な内装の部屋を前に、茜は目を疑った。
茜の住んでいたアパートが丸々入っても余りそうなほど広い部屋には重厚な机や繊細な装飾のされた調度品たち。しかも火はくべられてないが大きな暖炉まで置かれていてまず日本の家屋ではないことは明白だ。
「なにこれ……どういうこと」
おそるおそる天蓋つきのベッドから抜け出す。服も滑らかな素材のワンピースに替わっていた。
薄いカーテン越しに届く陽差しの強さに惹きつけられてふらふらと近づいてみた。カーテンをめくると強すぎる陽に目が焼かれるようだ。吸い込まれるような青空にしばし目を奪われる。
「……夏? 台風のあととかこんな感じになるよね」
我知らず扉を開けて一歩バルコニーに出た。夏の代名詞のような突き抜けるような青い空に反し、それほど暑くはない。むしろ涼しい風が気持ちいいほどだ。
バルコニーの向こうには豪勢な庭園が広がっていた。整えられた緑の植え込みとアクセントになる美しい花たち。果てがないように見える広さ。目の当たりにした現実味のない景色にくらりと目眩がした。
「なんなのこれ……どこ、ここ」
後じさって屋内へ戻った。逃げるように窓ガラスに背を向けた。よろめいた茜はとっさに手をついて口許を覆った。と、俯いて流れ落ちた髪に再びぎょっとしてしまう。
「あ、赤……? え?」
ちょうど顔を上げた先が鏡だった。
祖母が死んでから茜は腰まであった黒髪をバッサリ切って肩より長く伸ばしたことはない。少しばかり瞳が灰色がかってはいたが、それでも日本人らしい顔立ちと色合いだった。それなのにだ。――今、鏡に映る女は誰だ。
ゆるくウェーブした長い髪とつり目がちな瞳は一度見たら忘れないほどに鮮烈な赤い色を宿している。
小作りの淡く色づいた唇や高い鼻はまず日本人の顔立ちではない。
知らない。こんな女性は知らない。
知らないはずなのに、鏡の女は茜の意識と同じように顔を顰め、頬に手を当てて見せた。まるで現実を突きつけてくるように。
「失礼いたしま――お、お嬢様! 目が覚めたんですね!」
ノックとともに一人のメイド姿の女性が現れたと思えば、鏡を覗く茜を見て感極まったように顔をくしゃくしゃにした。
手にしていた替えのシーツを放り出し、メイドの若い女は茜に詰め寄った。
「リリカお嬢様はもう二日も目が覚めなかったんですよ! このままどうなることかと思ってましたが……ああ、本当によかった! 神よ。感謝します!」
「リリカ……? 二日?」
なにがなんだかもう分からなかった。
いっそもう一度寝たら治るだろうかと考えたところでズキンと激しい頭痛に襲われた。
「うっ……なにこれっ」
「お嬢様? どうされたんですか?」
頭が割れるように痛い。思わず頭を抱えてずるずると蹲ってしまう。痛みと同時に脳裏に知らない記憶が一気に流れ込んできた。
――なんなのこの本! 公女相手に無礼ではない!?
――お父様! お母様! お兄様! 助けて! もう二度と、二度とこんなことしませんから!
――私はいつまで繰り返せばいいの。どうやったら終わりにできるの。
理解する前に次々と襲いかかる情報の波にとうとう茜は耐えきれずに倒れてしまった。悲鳴を上げたメイドが真っ青になって飛び出していく。
(もしかしてこれ、憑依ってやつ……?)
そんな小説みたいなこと――と笑い飛ばそうとして、けれど痛みに耐えかねてとうとう茜は意識を手放した。




