十三話 裏側の話
神殿はグリオッサのみならず、大陸のいたるところに存在する。
とくに各国の首都には必ず大規模の神殿が存在し、便宜上「大神殿」と呼ばれるそこには大司教が必ず所属している。
グリオッサの大司教フェルノーはすでに老いの見え始めた五十手前の男性だった。
シャリテと変わらぬ小柄な背丈で体格には恵まれなかったが、幼少のころより神の声を聞くことができた彼は己が特別であるとよくよく理解していた。
大神殿には一般の市民や神官が自由に出入り出来る祈祷室はもちろんだが、高位神官のみの入室が許可された区域も存在し、そのさらに奥には大司教であるフェルノーのみが入室できる特別な部屋が存在した。
そこに家具や調度品などは存在しない。
円形の部屋には祭壇だけが置かれており、その背後に位置するガラスのない窓からは真っ直ぐに白い月光が差し込んでいた。
フェルノーは今日も祭壇の前に膝をつき、月光に照らされながら自らの信じる神へと祈っていた。
昼間は公開されている祈祷室で祈り、就寝前にはこうして一人静かに神へと語りかけるのはフェルノーの日課である。
静かに頭を垂れていたフェルノーだったが、不意に弾かれたように顔をあげた。見開かれた瞳は姿の見えぬ神を見据えるように瞬きも宙へと向けられていた。
「ああ……神よ! 新たなお言葉に感謝します。必ずや御心の望むままに人々に救いを与えてみせましょう」
使命感にかられた高揚の声が上がった。
より強く握り合った手を額に押し当てて深く頭を下げてから、フェルノーは丈の長い真っ白な祭服を翻して足早に部屋を出た。
◇
神官は神殿敷地内の居住スペースに住まう者も少なくはない。まだ学生ながらサチェルもその一人だった。
とっぷりと日が暮れて暗くなった回廊を等間隔に置かれた照明が照らしている。といっても夜の静けさを邪魔しないような光量を絞った灯りは足元をかろうじて見せる程度だ。
(フェルノー様がこんな夜半に呼び出すなんて珍しいこともある)
足早に進むサチェルは訝しく思っていた。
フェルノーは慈愛を絵に描いたような穏やかな顔立ちと人柄で、いくら神学科に通う生徒であってもまだ子どもだからと夜に呼び出すことはない。よく寝てよく食べなさいというのが彼の口癖だった。
そんなフェルノーからの就寝前の急な呼び出しだ。きっとそれほど火急な用件。自然とサチェルの足も速くなるもの。
駆け込むように大司教室を訪れた。
応答したフェルノーは興奮の名残のような上擦った声だった。彼が感情を表に出すのは珍しい。それだけの非常事態なのかと緊張気味に入ると、フェルノーはさっそくとばかりに本題に入った。
「サチェル。申し訳ないのだが魔術科へ転科して欲しいんだ」
「なぜですか。例え聖力がなくても神官になれるとおっしゃってくださったのはフェルノー様です」
「ああ。すまない。言葉が足りなかったね。大丈夫。神殿はきみのことを拒んだりはしないよ」
執務机の上の燭台が温かな色でフェルノーの顔を照らし出す。いつもどおりの柔和な顔つきにサチェルは束の間胸を撫で下ろした。
「ならばどうして転科など……」
「あくまで一時的なことだ。きみに内密であたって欲しいことがあるんだ」
「それが魔術科に関係があると?」
頷いたフェルノーは静かに続けた。
「――さきほど神託が届いたんだ」
「本当ですか!? 今度はいったいどんな救済活動を――」
手の平を向けられ、サチェルは従順に口を閉じた。フェルノーは笑みを消し、深刻そうに重たく口を開いた。
「今回は救済では……いや、ある種の救済へと通じることだろうか。いつもとは毛色の違う神託でね」
「そうなのですか?」
「ああ。我々への忠告のようだった……神はどうやらある人物を危険視しているようなんだ」
「わざわざ神託で伝えるほどに、ですか?」
フェルノーは鷹揚に頷いた。
「それは一体誰なんですか。――まさかその人物が魔術科に?」
「そうなんだ。サチェル、きみには魔術科に転科してもらってある人物の監視を頼みたい」
なるほど。そういうことならばサチェルは断わることなどしない。
居住まいを正し、胸に手を当ててサチェルは強い口調で応えて見せた。
「お任せください。神託の――神の憂慮を晴らして見せます。……して、その人物とは誰なのですか?」
警戒を滲ませてサチェルは訊ねれば、フェルノーは深い頷きとともに神託を告げた。
「『アカネ』に気をつけろ、と神はそう言っていた」
「アカネ、とは? あまり聞き馴染みはないですが……人の名前ですか?」
「きみの言うようにグリオッサで聞く人名ではないね。ある地域では「赤い色」を示す言葉のようだ」
赤が示す人物か……とサチェルは考えた。不意に脳裏に浮かぶ姿があった。
きっと彼女を知る者ならば誰もがその色を聞けば思い浮かぶだろう、代名詞とも呼ぶべき少女。
「まさか監視対象者って――」
顔を上げたサチェルに、フェルノーは子どもに満点でも言い渡すような深い笑顔で頷いた。
「そう。『アカネ』がさすとすればリリカ・マグノロスしかいないだろう」
◇
フェルノーの執務室をあとにしたサチェルは小さな灯りが落ちる石造りの廊下を険しい顔で歩いていた。
睨むような視線の先に思い浮かべるのは、この数日で二度も顔を合わせたリリカのことだ。
幼い頃から神殿に所属してシャリテの護衛を務めるサチェルにとって身近な女性などシャリテだけで、女性とはみんな彼女のように美しく、そして花が散るように繊細で儚いものだと思っていた。
しかし、そんな幻想を一目でぶち壊すほどにリリカという女は全てが鮮明で強烈だった。
視界に入れば無視せずにはいられないその派手な容貌はもちろん、誰に対しても怯むこともない強い眼差し。
繊細や儚さとは無縁な、太陽の光を正面から受けるような強烈で近づくことを躊躇わせる少女。
そういえば彼女と会った二回とも、リリカはまるで神の存在を軽視するような発言を繰り返していたと思い出す。
次いで、そんな無礼な言動よりもまずあの真っ直ぐすぎる眼差しを思い出してしまった自分にわずかなショックを受けた。
神やその信徒であるシャリテに多大な恩があるサチェルにとってそれらを軽んじる言動が許せるはずもない。
神の声を聞くことができるのは神官でも一部の者だけだ。聖力を持たない者からすれば神を心の底から信じられない者もいて、そういう者たちはときどき口さがない言葉を投げかけてくることがある。
もちろんそれらには真正面から向き合って時には改心させているが、彼らの言葉を、行いを、そのときに感じた自身の怒りを忘れたことはない。
なのに、なぜ今回はこうも別の印象に気を取られるのだろう。
「……あれほど美しい人を初めて見たからだろうか」
ふと口に出してみた。けれど釈然としない。
気づけばサチェルは暗い廊下で立ち止まっていた。
「あの目が……」
貫くという表現が比喩ではなく思えるほどに強い眼差し――あれがどうにも頭から離れない。
秋も深まった時分では夜はすっかり気温が落ちて冷え込む。石造りの廊下は視覚からもどこか寒々しい雰囲気を伝えてくるようだ。
等間隔の窓からは強い月の光が差し込んでいた。窓枠の形に切り取られた月光が点々と並ぶ廊下の奥からふと小柄な影が現れた。
「サチェル……? やっぱりサチェルね!」
「シャリテ様」
祭服を纏ったシャリテが小走りに駆け寄る。その愛らしい少女の顔には満面に喜悦の色が浮かんでいた。月明かりの下で光る白い頬がサチェルを認めてぽっと薔薇色に染まった。
「こんな時間までお祈りですか?」
「ええ。最近はとくに神さまを身近に感じるの……祈祷室に行かないと落ち着かなくて。サチェルはどうしたの? こんな遅くにこんなところで」
「フェルノー様に呼ばれていました」
答えてからサチェルは改まった様子で「シャリテ様」と呼びかけた。
「もう私に敬称なんてつけないでって言ってるのに……どうしたの? 真剣な顔をして」
「しばらく他の者が護衛につくことになります」
ニコニコしていたシャリテは一転して曇った顔で訊ねた。
「急にどうして……? なにかあったの?」
「先ほど新たな神託が下されたようで……その件でフェルノー様に魔術科へ転科するよう言われました。俺に手伝って欲しいことがあると」
「そう……その仕事があるから護衛はできないってことなのね」
「はい」
残念そうに肩を落としたシャリテは上目遣いにおずおずとサチェルを見やる。
「……卒業までずっと魔術科にいるの? いえ、サチェルは魔術が使えるしそっちのほうがあなたのためにもいいのは分かってるんだけど、私たちってずっと一緒だったじゃない? だからかな……なんだか淋しくて」
恩あるシャリテからこうやって惜しまれるのは嬉しいものがある。サチェルは安心させるように微笑んだ。
「ありがとうございます。フェルノー様は一時的にだとおっしゃってましたので卒業までいることはないかと」
「そう、よかった……。それなら別の人に護衛を代わってもらわなくてもいいわ」
「それはダメです。もしなにかあったらどうするんですか」
「大丈夫よ。それにほかの神官たちは誰も護衛なんてついてないじゃない」
笑うシャリテにサチェルは困った。彼女は聡明で心優しい少女だが、自分の立場への認識が薄いのが欠点だ。
こういうときは上の立場の者から指示してもらうのがいい。どうせフェルノーから話がいくからと、サチェルは意固地に否定せずに苦笑で留めた。
「もう遅いですから早く部屋に戻って休みましょう」
「そうしましょうか。サチェルもあんまり夜更かししちゃダメだからね」
「シャリテ様もお祈りは大事ですが睡眠を削ってはいけませんよ」
「わかってるわ。――あ」
女性用の神官宿舎に向かいかけ、シャリテはくるりと回って振り返った。
「来週、アルカルゴ侯爵令嬢のお茶会に招待されているの。アカデミーの同級生を集めて親睦を深めるんですって。ねえ、サチェル。その日はパートナーになってくれる?」
「――ええ。もちろんです」
「よかった。楽しみにしてるわね!」
おやすみなさい、と弾むような足取りでシャリテが遠ざかる。その背中を見送りながらサチェルは少しばかり心配になった。
シャリテは自分が数多いる神官の一人だと思っているようだが世間の認識は違う。
なによりその華奢な身に宿る聖力は規格外なほどに豊富で、彼女のおかげで救われた命は数知れない。彼女自身の優しく慈悲深い性質も相まってちまたでは「聖女」という異名まで広がり始める始末だ。
(大司教様たちが意図的に注目を集めている部分もあるが……)
神殿だって組織運営にはどうしても金銭がかかる。貴族の献金や市民からの支持を受けるには神殿という組織の象徴を作り、注目や支持を集めるのが一番効率もよく手っ取り早い。実力だって兼ね備えているのだからシャリテほどの適役もいないだろう。
(それにしては神格化しすぎている気もするが……大司教様のことだからお考えがあるんだろう)
だからこそシャリテにだけは護衛をつけているのだろうし。
だが、シャリテももう少し警戒心を身につけても良いと思う。
「レイラ・アルカルゴはあなたを敵視している女なのに……」
先日だって人気のないところで絡まれていたのに、その人物からの茶会をああも楽しみにできるのだから心配だ。
一緒にあの美しい赤い髪の人物を思い出し、サチェルの静かな横顔に憂色が滲んだ。
「なにごともなければいいんだがな」
そんな些細な願いは、懸念通り叶えられることはなかった。




