一話 始まりは願い
その日、グリオッサの首都は激しい雷雨に襲われた。
夜の闇のなか、強風によって木々は大きく暴れていた。雨粒は窓ガラスを叩き壊さん勢いで打ち付けた。
この天気だ。首都の人々はみな自宅に避難していた。怯えたように身を寄せ合う者も少なくない。
そんななかマグノロス公爵家の屋敷の一室では、一人の女が外の悪天候には目もくれずにいた。
灯りの落ちた部屋の中はひどいありさまである。繊細な装飾の施されたテーブルや椅子などの調度品が乱暴になぎ倒されていた。
そうして無理矢理あけたスペースは絨毯を引き剥がされて床が剥き出しだ。マグノロス家の息女リリカは床に四つん這いになって、一心不乱になにかを書き殴っていた。
公女であるはずの彼女が身支度も整えず、しかも床に素足や手をつくなどあり得ない。けれど、そんな体裁もどうでもいいほどリリカは必死だったのだ。
「はやくしないと……! はやく、はやく……!」
ひときわ大きく雷鳴が轟き、暗い部屋にリリカの赤い髪と瞳が浮かび上がった。普段は見る者を強く惹きつける彼女の美しい容姿も、今は狂乱のごとく鬼気迫る様子のせいで恐れや不気味さが勝って誰も近づけないだろう。
――お嬢様! リリカお嬢様どうされたんですか?
扉が激しく揺れると侍女の声が響いた。家具をなぎ倒した音で駆けつけたのだ。
――一体なにごとだ!
――旦那様! さきほどリリカお嬢様の部屋から大きな物音がしたのですが応答がなく……
続々と声が増えていき、扉の振動が強くなる。即席のつっかえ棒をしていたって時間稼ぎにしかならない。
「早くしなきゃ……早く、早く誰かに代わってもらわないと」
瞬きもなく常軌を逸した瞳に、ふと人間らしい感情が宿った。その感情がリリカの瞳に薄い膜を張り、目許に大きく涙を溜めた。
涙はリリカ自身も気づいていないほど滑らかに落ちて弾けてしまう。
リリカの焦燥は扉の外にいる者に感じているわけではない。彼女はもっと大きなものから逃げていた。
突然の奇行も頭が変になったわけでもなんでもない。明確な目的がある。
自分の身体よりも大きな円と文字とを書き終え、その中央で座り込んだリリカはそばに転がっていたなにかの家具のガラス片で手元を切りつけた。痛みに顔を歪めたってリリカはそんなことは細事とばかりに騒ぎもしない。冷静に――いや、一種の興奮が宿った目でべっとりと血のついた手を見下ろしてからおもむろに床の図形に触れた。リリカが囁くようになにかを唱えた途端、文字と円が意志を持つように明滅し、そのうち目も開けられないほどに発光したのだ。
「ああ、やった……! 成功した……!」
光に浮かび上がるのは大きなシルエット。人ではないその姿を前にしても、リリカの口の端は無意識に持ち上がっていた。
ギラギラした狂乱の瞳が見開かれ、歓喜の叫びが雷鳴とともに轟いた。
「お願い! こんな人生もう嫌なの!」




