婚礼前夜
月が静かに夜空を照らしていた。
ジェヒョンは、穏やかな歌を口ずさみながら、王宮の石畳を歩いていた。胸の奥で何かが疼く。だがそれを言葉にすれば、すべてが壊れてしまいそうで、声にはできなかった。
屋敷へ戻ると、玄関前にはユナが立っていた。
「ジェヒョン様、お帰りでしたか。ヘヨン様は、お部屋に戻られております。どうぞお入りくださいませ。」
「ありがとうございます。」
ジェヒョンは、静かにヘヨンの部屋の扉を叩いた。
「ヘヨン様、ジェヒョンです。お入りしてもよろしいでしょうか。」
「どうぞ。」
室内に入ると、ヘヨンは窓辺に佇み、遠くを見つめていた。
「この部屋の向かい側にある屋敷が、私の部屋だそうです。」
ヘヨンは振り返り、ふっと微笑む。
「当然のことだけど、カルミヤ王国の時と違って、あなたと過ごせる時間が減ってしまうのね。」
「この地に私も来られただけでも、不幸中の幸いでございました。それに皇太子であるトア様は、本当にお優しい方でございます。ヘヨン様のことも、きっと幸せにしてくださるでしょう。」
「……そうね。でも王妃様は、私たちのことを良く思っていないようだった。大丈夫かしら?」
「王妃様は非常に厳しい方との噂でございます。特にトア様へのご愛情が深いゆえに、今後もヘヨン様へのご当たりが強くなるやもしれません。お気をつけくださいませ。」
「明日から王妃による皇太子妃教育も始まるそうだわ。私、異国の地でやっていけるのかしら…」
「大丈夫でございます。ヘヨン様はこれまで、カルミヤ王国の王女としてのご教育をしっかりと受けてこられました。どうかご自身をお信じくださいませ。」
しばしの沈黙が流れたあと、ヘヨンがぽつりと呟いた。
「ジェヒョン、婚礼式前に最後のお願いを聞いてくれる?」
「何でございましょう?」
「……私を抱きしめて。」
ジェヒョンの表情が固まる。
「何をおっしゃるのですか。明日からあなた様は、トア様の妻になられるお方です。」
「だからよ。明日からは、あの方の妻として生きていかなくちゃいけない。だから、今日だけは、本当に愛してる人と一緒にいたいの。お願い…こんなこと、今日しか言えないから…」
ジェヒョンは苦しそうに目を閉じる。そして、ゆっくりとヘヨンを抱きしめた。小さな体が、震えていた。
「ジェヒョン……愛しているわ。あなたのことを。この世で一番。」
だが、ジェヒョンは何も言わなかった。ただその腕に力を込め、沈黙を貫いた。
「……あなたは、やはり何も言ってくれないのね。」
ヘヨンが呟く。その声には、切なさと諦めが混ざっていた。
ジェヒョンは、俯いたまま苦しげに唇を噛む。だが、次の瞬間――
そっと顔を上げ、ヘヨンを見つめ、何も言わぬまま、その唇にそっと口づけを落とした。
驚くヘヨン。だが彼女は、目を閉じ、受け入れた。
2人は、静かに夜を迎えた。誰にも知られることのない、たった一夜の真実。
――この時の私たちは、気付いてはいなかった。
あんなことが起きるということを。