帰省と予感
空気は春の香りを含んで、柔らかな風がカルミヤ王国の都を撫でていた。
宮殿の門が開かれ、絹の衣をまとったヘヨンが、静かに馬車を降り立つ。付き従う護衛のジェヒョンもまた、周囲に目を配りながら彼女の後に続いた。
「久しぶりの帰省ですね、ヘヨン様」
「ええ……でも、少し落ち着かないの。なんだか胸騒ぎがするのよ」
ヘヨンはそう呟き、遠くに見える王宮の尖塔を見上げた。
数年ぶりの帰省。カルミヤでは、弟・ドヒョンの皇太子就任式を間近に控え、宮殿内は慌ただしく動いていた。だがその熱気の裏で、かすかな不穏の気配が立ち込めていることに、ヘヨンは敏感に気づいていた。
一方、トリカブト王国。
夜の帳が下りる頃、皇太子トアは書斎にて地図を広げていた。老いた左大臣がそばに控えている。
「カルミヤ王国、今や国力は下降の一途……か」トアは地図の南側、カルミヤとの国境線に指を這わせた。「ヘヨンがこの国にいない今、我々にとっては最大の好機だな」
左大臣は眉をひそめる。「それを正式に動くには、陛下の許可が必要です。しかしながら……」
「許可などいらない。ただ、私の手を汚すわけにはいかないのだ」
トアは薄く笑いながら、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。それは、ウヨン宛に書かれた“偽の密書”だった。
「この弟が……信じる者を、間違えないといいがな」
そして翌日、カルミヤ王宮では、ドヒョンが王から玉座の象徴である剣を受け取る儀式の準備が進められていた。
ヘヨンは、母王妃の無表情な顔を見てうつむく。父王は政治の道具として彼女を見つめ、弟にはただの“儀式の一部”としての視線が向けられる。
そんななか、ジェヒョンが小声でささやいた。
「気になりますね、陛下の表情が。何か策を――」
「ええ。ドヒョンを早く即位させ、トリカブトとの交渉材料にしようとしているのかもしれない」
ヘヨンはそっと手を握る。
「今度こそ……私は、誰にも利用されない。国を、家族を守るために戻ってきたのだから」
ジェヒョンの目がわずかに細められた。彼女の決意を、誰よりも理解する人間として――そして、彼女を愛する者として。
その夜、星の瞬く空の下、トアのもとに一人の若き男が訪れる。
「ウヨン様、どうかお入りください」
「……兄は、今どちらに?」
「カルミヤに随行しておられます。…ヘヨン様の護衛として」
ウヨンの顔が強張った。
「……兄はこの国を、そして父を裏切ったということですか」
トアはゆっくりと頷いた。
「君が剣を持てば、この国も、父上の無念も守れるだろう。あとは、君の決意次第だ」
夜風が吹き抜ける。
その風が、まだ始まってすらいない戦の火種を、静かに、そして確かに運んでいた――。




