別れの輿
「ヘヨン、気をつけて行ってくるんだよ。」
門の前、優しく微笑むトアの声が、静かな空気を割った。朝露の残る庭に、彼女は静かに頭を下げた。
「はい。ありがとうございます。トア様、いつもありがとうございます。あなた様の人柄のおかげで、今日までこの国に存在することができました。」
そう言ったヘヨンの瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
「なんだ、最後のお別れみたいだな。」
トアが冗談めかして言うと、ヘヨンは少しだけ微笑んだ。
「……いえ。なんとなく、しばらくお会いできないような気がして。だから、いつも思っていた感謝の気持ちを、お伝えしただけです。」
「そうか……気をつけて行ってくるんだよ。」
「はい。お元気でいてくださいね。」
一礼し、ヘヨンはゆっくりと振り返った。その背を見送るトアの目が、わずかに揺れていた。
「ヘヨン様、では行きましょう。」
輿のそばに立つ刺客の男が、恭しく頭を下げる。
だが、ヘヨンの足は止まったままだった。
「……ジェヒョンはどこにいるの?」
「ジェヒョン様は、後ほど来られます。」
「私は……ジェヒョンが側にいないと不安なの。ジェヒョンが来るまでは、輿には乗らないわ。」
「……かしこまりました。ジェヒョン様が来られるまで、お待ちしましょう。」
数刻後、駆ける足音が近づいてきた。
「ヘヨン様! お待たせしました。では出発しましょう。」
「ジェヒョン……どこに行ってたの? 心配したじゃない。あなたは一緒に帰らないのかって……私、あなたに騙されたのかって、不安になったのよ。」
「申し訳ございません。少し、用事がありまして……。では、参りましょう。」
二人は並んで輿へと乗り込む。揺れる簾の向こう、ヘヨンはそっとジェヒョンの袖を握った。
一方、遠ざかる輿を見送る宮の一角。
「ヘヨン様、行かれてしまいましたね……」
世話係のジーヤがそっとつぶやいた。
「……やはり彼女が愛していたのは、彼だったんだな。」
トアはまっすぐ、空を見つめていた。
「いきなりどうされたのですか?」
「さっきの彼女の様子を見ただろ。あんなに感情的になった彼女を、僕は初めて見た。僕の前では、いつも穏やかで冷静だったのに。」
トアはそっと手を握り締めた。
「彼女は、僕なしでも輿に乗れる。でも……彼なしでは、乗れない。それが答えだよ。」
「トア様……ヘヨン様は皇太子妃です。また戻ってこられますよ。」
「戻ってこないさ。」
「そんなことありませんよ……」
「いや。きっと、もう戻らない。あんなにも静かな彼女が、僕に感謝の言葉を伝えてきた。まるで最後の挨拶のように。」
風が静かに吹き抜ける。
「でも……いいんだ。これで僕も、本来の姿を取り戻せる。この国の未来、領土の拡大だけを考えられるようになる。しばらくは……辛いかもしれないが。」
「トア様……お辛い時は、この私に、何でもお申し付けくださいませ。」
「ありがとう、ジーヤ。」
その頃——
玉座の間では、静かに陰謀が動いていた。
「陛下、あの計画ですが、ヘヨン様が帰省中に決行いたしますか?」
左大臣の低い声に、王は眉をひそめた。
「……そうだな。ヘヨンがいない今が、絶好の好機だ。しかし、うまくいきすぎている気もする……」
王はしばらく沈黙したのち、視線を鋭く上げる。
「なぜ、彼女はこのタイミングで一時帰省をすることになった? ……我々の計画が漏れているのではないか。詳しく調べろ。」
「はっ。かしこまりました。」
王の声は低く、だが確かに、何かを疑っていた。
そして、静かに戦の幕が上がろうとしていた。




