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トアの愛の行方

夜。執務室を出たあとも、僕はしばらく庭を歩いていた。

 昼の暑さが消え、涼しい風が吹いてくる。

 その風の中に、ふとヘヨンの声がよみがえった。


「トア様。ありがとうございます」


 あのとき、僕は確かに、心のどこかが動いた。


 王宮にいて、何かを“感謝される”という経験など、今まであっただろうか?

 称賛でもなく、畏怖でもなく――たしかに、あれは「感謝」だった。


 それだけで、僕は少し救われた気がした。


 ……だが、いけない。

 彼女は“人質”だ。

 この婚姻は、“戦を避けるための盾”であり、僕が情に溺れていい関係ではない。


 感情は、国を弱くする。

 かつて母が証明したように。


 けれど――


 もし、母が生きていたら、今の僕をどう見るだろうか。

 この婚姻を、誰かを利用する道具にしている僕を。


「……わからないな」


 そう呟いたとき、背後から誰かの足音がした。振り返ると、王妃がいた。


「夜風に当たるには、少し肌寒くなってきましたね」


 王妃は優雅に微笑みながら近づいてくるが、その笑顔は決して温かくはなかった。


「王女との関係は、順調に?」


「はい。問題ありません」


 形式通りに答えると、王妃は少し目を細めた。


「心の隙を見せてはなりませんよ。…王女はカルミヤの人間。どこまで信用できるかは、未知数です」


「承知しております」


 けれど、その言葉を口にしながらも、僕は心のどこかで戸惑っていた。


 ヘヨンの笑顔が、嘘には見えなかったから。

 あの目が、誰かを欺こうとしているとは思えなかった。


 むしろ、あの微笑みに救われたのは――この僕の方だった。




 まだ、気づいていない。

 この心の揺らぎが、いずれ自分の人生を大きく変えることを。


 その先にあるのは、愛か、破滅か。

 それとも――赦しと再生か。


 ただ、確かなのは一つ。

 あのときの「ありがとう」という言葉が、僕の中で静かに、けれど確かに息づいているということだ。


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