トアの愛の行方
夜。執務室を出たあとも、僕はしばらく庭を歩いていた。
昼の暑さが消え、涼しい風が吹いてくる。
その風の中に、ふとヘヨンの声がよみがえった。
「トア様。ありがとうございます」
あのとき、僕は確かに、心のどこかが動いた。
王宮にいて、何かを“感謝される”という経験など、今まであっただろうか?
称賛でもなく、畏怖でもなく――たしかに、あれは「感謝」だった。
それだけで、僕は少し救われた気がした。
……だが、いけない。
彼女は“人質”だ。
この婚姻は、“戦を避けるための盾”であり、僕が情に溺れていい関係ではない。
感情は、国を弱くする。
かつて母が証明したように。
けれど――
もし、母が生きていたら、今の僕をどう見るだろうか。
この婚姻を、誰かを利用する道具にしている僕を。
「……わからないな」
そう呟いたとき、背後から誰かの足音がした。振り返ると、王妃がいた。
「夜風に当たるには、少し肌寒くなってきましたね」
王妃は優雅に微笑みながら近づいてくるが、その笑顔は決して温かくはなかった。
「王女との関係は、順調に?」
「はい。問題ありません」
形式通りに答えると、王妃は少し目を細めた。
「心の隙を見せてはなりませんよ。…王女はカルミヤの人間。どこまで信用できるかは、未知数です」
「承知しております」
けれど、その言葉を口にしながらも、僕は心のどこかで戸惑っていた。
ヘヨンの笑顔が、嘘には見えなかったから。
あの目が、誰かを欺こうとしているとは思えなかった。
むしろ、あの微笑みに救われたのは――この僕の方だった。
⸻
◆
まだ、気づいていない。
この心の揺らぎが、いずれ自分の人生を大きく変えることを。
その先にあるのは、愛か、破滅か。
それとも――赦しと再生か。
ただ、確かなのは一つ。
あのときの「ありがとう」という言葉が、僕の中で静かに、けれど確かに息づいているということだ。




