優しさの余韻
王宮の奥、静けさに閉ざされた教養殿。
その扉が音を立てて閉じられた瞬間、ヘヨンはようやく息をついた。
喉の奥まで張りつめていた緊張が、音もなく崩れていく。だが、足は鉛のように重かった。
「皇太子妃は“国の顔”となる者。あなたの仕草ひとつが、王宮の品位を示すのです」
「言葉の端に“迷い”があるようでは、民の心は動かせません」
「微笑むのではなく、“安定”を示しなさい。それが王妃の器です」
王妃の声が、幾度も何度も、耳の奥に残響する。
一つひとつの言葉が鋭く、重く、心に突き刺さった。
まるで、ヘヨンという「個人」が“誰かの役割”に書き換えられていくようだった。
(どうして……こんなに苦しいの……)
ドレスの裾を握る手が、微かに震えていた。
そのまま中庭へと足を運ぶ。
緑の木々が、宮中にあるとは思えないほど静かに揺れている。
そして――彼がいた。
トア。
白い衣を纏い、庭先の花に水をやっていた彼は、彼女に気づくと、そっとジョウロを置き、駆け寄ってきた。
「皇太子妃。お疲れでは?」
その声に、張りつめていたものが一瞬でほどける。
彼だけは、問い詰めず、裁かず、ただ“気遣って”くれる。
「……大丈夫です」
そう答えたものの、声がかすれていた。
トアは、何も言わず、懐から小瓶を取り出した。
透明なガラスに、淡い花の香りが閉じ込められている。
「リシリ草と月桃の香油です。緊張を和らげ、深く眠れるはず。今夜、少しでも休まりますように」
「……ありがとうございます」
ヘヨンが受け取った瞬間、その手にトアの指先がかすかに触れた。
一瞬のことだったのに、そのぬくもりが胸の奥まで染みわたる。
「この香り……優しいですね」
「はい。でも、本当に香りが優しいのか、そう感じたのが“心の声”なのか……僕には分かりません」
「……え?」
「心が疲れているとき、人は優しさに気づきやすくなります。
それは、弱っているからではなく、“大切なもの”に目を向けられるからです」
その言葉に、ヘヨンは目を見開いた。
まるで自分の傷に、そっと蓋をかけてくれるような優しさだった。
「あなたは……いつも、そうやって誰かを救ってきたのですね」
「……いいえ。むしろ、何も救えなかったから、そうありたいと願っているだけです」
トアの瞳の奥に、言葉にされなかった過去が沈んでいた。
だが、ヘヨンはその過去を問い詰めようとは思わなかった。
ただ今は、この静かな時間が尊く、胸に優しく触れていることだけが、彼女にとっての真実だった。
「ありがとうございます。香油も……言葉も」
「僕にできることがあれば、何でもします。あなたが“ここ”で孤独を感じないように」
“あなたが――僕の婚約者だから”
そう続けられなかったのは、トアの優しさか、それとも躊躇いか。
二人の間を、花の香りを乗せた風がそっと通り過ぎていった。