一切皆苦
春、なのに冬のように冷たい風が、頬を撫でた。
「この世界は、全部、苦しみでできてるんだってさ」
僕はそう一人でに呟きながら、屋上のフェンスにもたれていた。学校のチャイムが鳴っても、誰も僕を呼びに来ない。僕は透明人間のように扱われることに慣れていた。いや、慣れたふりをしていた。
「だったら、生きる意味なんて、どこにあるのさ......」
そのときだった。
「それを探すために、生きているのよ」
誰もいないはずの屋上で、返事が返ってきた。
振り向くと、そこには見知らぬ少女がいた。セーラー服に身を包み、長い髪を風にたなびかせながら、まるでこの世のものではない光を纏っているように見えた。
「誰だよ、お前......」
「私は心。あなたと同じ、この世界に迷い込んだ者よ」
意味がわからなかった。だが、彼女の瞳に、確かに僕と同じ“空っぽ”が宿っているのを見逃さなかった。
彼女は笑った。「死にたかったの?」
僕は言葉を詰まらせた。誰も口にしなかったその感情を、彼女はあっさりと突きつけてきた。
「死にたいんじゃない。ただ、ここにいる意味が、わからないだけだ」
「そう。それが苦しみ。あなた“一切皆苦”っていう言葉知ってる?仏教の言葉よ」
「知ってる。全部の存在は、苦しみでできてるって意味だろ」
「ええ。でも、逆に考えれば、苦しみがあるから、私たちは何かを探せる。愛とか、赦しとか、希望とか」
僕は思った。こんなことを真顔で言うやつが、どこか壊れてるのか、それとも自分のほうが壊れているのか。
「君は、どうして僕の前に現れたんだ?」
「あなたの魂が、叫んでたからよ。“誰かに、見つけてほしい”って」
彼女は近づいてきて、僕の胸に手を当てた。まるで心臓の音を聞こうとするように。
「ここにまだ、音がある。なら、生きててもいいんじゃない?」
その瞬間、僕の内に押し込めていた感情が、ひとつずつ形になって、ほどけていくようだった。涙が勝手に流れた。
「馬鹿みたいだな、僕......」
「うん、馬鹿だと思う。でも、生きてる人間はみんな、そういう馬鹿ばっかり」
「じゃあ……君は?」
「私はそんな馬鹿にさえなれなかった人間。」
「え?」
心はふっと笑った。その姿は、風に溶けるように淡くなっていく。
「ありがとう。あなたが、見つけてくれたから……もう、行ける」
「待って……! 僕はまだ、君のこと、何も知らな――」
心の腕を掴もうと手を伸ばすが、そこにはもう、誰もいなかった。
屋上にただ、春の風だけが残った。
僕はフェンスに手を添え、深く息を吸った。
まだ、胸の奥で、小さな音が鳴っていた。
生きることは、確かに苦しい。
でも、それでもいい。
「ありがとう、心」
空は、少しだけ、優しい色をしていた。
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