破戒の奸計①
どうする、と白狼は逡巡した。ここでいると答えれば逃げ出す好機を失うかもしれない。しかし知らんふりをするのも躊躇われた。
徳妃――明玲は姉だという可能性が高い。いや、おそらく姉であろう。捕まってからずっと柏に見張られていて、ここ数日監視が緩んだが産後で疲れ切っている徳妃とは詳細を話す暇も無かった。様々、話を聞いて確かめたいこともある。
ここで居留守を使ってやり過ごし逃げたとすると、もう話す機会はなくなるかもしれない。
ぐっと白狼は拳を握り締めた。
一刻も早く銀月に会い、脱出とその後について話さなければいけないのに、徳妃とも話をしたい。理性では逃げたほうが良いことは分かっていたが、胸の天秤は感情の側にわずかに揺れた。
「……います」
白狼は小さな声で応えた。
戸口にうつった影はそろそろとあたりを伺うように動き、そして薄く開けた扉の隙間から体を滑り込ませてきた。薄手の夜着と防寒の綿入れを羽織った徳妃だ。まだ顔色も悪く、表情も芳しくない。起き上がって、しかも歩いて大丈夫なのだろうか。
しかしそれを白狼が尋ねようとする前に、徳妃は唇にしっと指を立てた。
「良かった。行ってしまう前に話しておきたいことがあります……」
自室で気配を消していたことで察したのだろう。徳妃は白狼の行動を諫めることなく、隣に膝を付いた。
「柏様はどこに?」
「……倉庫で、泥酔してます」
正体もなくぐでぐてに酔っ払い潰れている柏の居所を告げると、徳妃はほっとしたようにやや表情を緩めた。
「よほど皇子の誕生が嬉しかったみたいだ。毎日、酒飲んで大笑いしてる」
「……そう、ですか」
「徳妃……様も、嬉しいだろ? あんたが徳妃になった経緯はよくわかんねえままだけどさ、これで国母ってやつに一歩近づいたんだし、皇帝もよろこんでたし実家の顔も立つだろうし」
白狼は小さくおめでとう、と呟いた。産後、改まって声を交わす機会もなかったので、これが初めての祝いの言葉となる。言ってから、自分の姉がこの国の皇帝の母になる可能性があるのか、と不思議な気持ちになった。田舎の底辺生まれの女が、この国で最も高貴な女になる――身分とはなんだろうと白狼は首を傾げたくなる。
しかし徳妃は祝いの言葉に顔をしかめた。いや、悲しそうに顔を歪めたのだ。そしてぼろぼろと涙をこぼし始める。
うう、と言葉にならない声が紅の塗られていない唇から漏れた。
「ど、どうしたんだよ……」
「……だめなのです」
「だめ? 何が?」
「だめなのです。あの子は、皇太子になってはいけません……」
泣き出した徳妃は顔を覆う事もせずに白狼の肩を掴んだ。
「皇太子にしてはいけません。あの子は、あの子は陛下の御子ではありません……!」
「はぁ?」
「あの子の父は、柏様なのです……!」
は、と白狼の息が止まった。
今、何と言った。
後宮において、赤子の父が皇帝ではないというのか。それだけではない。父は宦官の柏だという。宦官は男性の機能を失わせて後宮に入るはずだ。子種を持たないはずの人間が父になるとは、意味が分からない。
「ど、どういうことだよ、それ」
混乱しきった白狼が絞り出すような声で尋ねると、徳妃はまた唇を噛んで呻いた。
「あの子は柏様の御子……顔を見た瞬間分かりました。皇帝陛下もおそらく察しておられるでしょう……じきに露見するに決まってる……」
「ちょっと待ってくれ。柏って宦官だろ? 宦官が子どもなんて……!」
「……柏様、いいえ子辰様は宦官ではありません……。わたくしを養女とした孫家のご長男なのです……」
「そ、そん……? 柏って……」
「柏氏という、孫家に仕える家の出であると偽っているのです……外戚になるどころか、皇帝の父になってこの国を……」
徳妃は嗚咽を漏らしながら、しかし必死に言葉を繋いだ。
底辺の村で育った自分が、妹の失踪を機に自らも仕事の口を探そうと村を飛び出したこと。市場で仕事の口を探していると、働き口があるという口車に乗せられてしまい女衒に捕まってしまったこと。そしてその女衒から遊郭に売られそうになったところ、遊びに来ていた貴族に買い取られたこと。
その貴族が柏――孫家の長男である孫子辰という人物で、急死した妹の身代わりになれと言われ貴族の教育を叩きこまれたのだということ。
切々と語られる身の上話は、どれも白狼の胸をぎゅうっと締め付けた。
「……遊郭で助けてくれた子辰様のためになるならば、と養女となることも入宮することも受け入れました……」
涙をこぼしながらも自嘲気味に話す徳妃に白狼はかける言葉もない。ただじっと胸の痛みに耐え、耳を傾けた。
「孫家の根回しですぐに四夫人の徳妃に叙せられると知らされ慄きました……。そこにいたってようやくわたくしに課せられた使命に気が付いたのです。御子を、産まなければならないと……」
「……そりゃあ、まあ……」
「しかも絶対に男御子を産まなくてはいけなかったのです。でも陛下には現在姫君しかお生まれでなく、御種を心配した孫家のご当主が万が一に備えよといってわたくしに付けたのが子辰様です」
「……万が一って」
「子辰様はお妾の方々のところに男のお子様がいらっしゃいますから……」
ということは、である。つまり男を産ませた実績のある柏が、徳妃を皇帝に替わって孕ませるために宦官と偽って後宮に潜入したということか。
そんなことが可能なのかもわからない。白狼にしたって後宮に連れてこられた際、衣類の上からではあるが検査と称して簡単な触診をされたのだ。手術をしていないものがその検査をどう突破したのだろう。根回しのようなものがあるのか、それとも検査がザルなのか。
「……なんだよ、それ……」
「陛下がいらっしゃった日と前後して、子辰様とも同衾して懐妊を待ちました。でもいざ懐妊が分かると、なんと恐ろしいことをしていたのだろうと気が付いたのです……」
それはそうだろう。子が生まれるまで、気が気ではなかったはずだ。それなのに下々に慈愛の目を向ける徳妃として振る舞っていたのだから、実は肝の据わった大した女なのかそれとも自責の念に駆られて贖罪のつもりだったのか。
「陛下の御子であると信じて祈れば、きっと陛下の御子が生まれると思っておりました。しかし生まれてみればあれは陛下の御子ではないと分かります……。ふとした表情が、屋敷で見かけた子辰様のお子様にそっくりなのです……」
徳妃は深く息を吐いた。まだ頬には涙が流れているままだったが、瞳には覚悟の光が宿っている。ぐっと白狼の肩を掴む手に力が込められた。
「子辰様はあの子がご自身の御子であると確信されています。だからこそ、あのように喜んでおられるのです。ご自分が、皇太子の実の父に、ひいては皇帝の実の父になると……」
「……だから、前祝いって」
「すべてを察してもお優しい陛下があの子を殺めることはないと思っておられるのです。だから――」
あの子と子辰様を殺してわたくしも自害します。
徳妃は白狼の目を見てそう言い切った。




