真実の行方①
翌朝、夜明けごろに皇帝は永和宮より乾清宮へと戻っていった。
夜半に徳妃が寝室に戻ってきた気配があったが、皇帝は客間に泊まったのだろう。基本的に徳妃について歩くことを命じられている白狼は見送りには参加せず、去っていく皇帝の後姿を自室の窓からこっそりのぞき見するに留めた。
見送りの代表は宦官の柏だ。迎えの輿に皇帝を乗せてそれが遠ざかると、大仰に肩と首を回して宮の中へと戻ってくる。相当に眠そうで、付き従っていた侍女の一人に何事か申し付けると珍しく徳妃の部屋へは立ち寄らず自室へと行ってしまったらしい。
白狼のもとへやってきた侍女は、柏が徳妃を昼前に起こし、食事をさせよという言伝をしていたと教えてくれた。
珍しく昼寝、いや朝寝を決め込むつもりなのか。いくら主が起きてこないからといっても、随分不遜なものである。
とはいえ白狼も徳妃が起きていないのでは仕事がない。侍女たちも白狼に対しては毒見以外をさせようとはしないので、結局昼近くまでごろごろすることになってしまった。
昨晩手に入れた手習いの手本と下女たちの手蹟は、中衣の奥にしまってある。
問題はこれをいつ、どうやって銀月に渡すかだ。この間の様に変装してきてくれれば一番だが、さすがにあの方法は二度、三度とやれば翠明に止められるだろう。
皇帝に託すか、とも考えるが昨夜の様子を見るに銀月は詳細を伝えていないらしい。承乾宮や乾清宮では宦官姿で顔を見られていたが、今は女官姿で化粧もしているので皇帝が白狼と気が付かなくても仕方がない。仕方ないが、腹立たしい。
――さて、どうするかな。
白狼は寝台に転がりながら天井を仰いだ。
昼前にようやく徳妃が起床した。産み月が近いせいか、起きるのも気だるげである。薄衣を着ていても腹がはちきれんばかりに大きくなっているのが分かった。これは近いだろう。お産については門外漢なので、無事に生まれることを祈るのみだ。
そして徳妃とともに朝餉とも昼餉ともつかない食事を摂っているときだった。
居間として使っている部屋の扉が開いて、柏が入ってきた。今朝の眠そうな表情などどこへやら、明るい表情を浮かべ足取りも軽い様子だ。何事かと白狼が箸を止めようとするのと、宦官が徳妃に耳打ちをするのはほぼ同時だった。
「まあ、それは本当? おめでたいことね」
耳打ちをされた徳妃は驚いたように、しかし表情をぱっと明るくさせた。
「お輿入れ先はどちらの御方になったの?」
輿入れ先、と聞いて今度こそ白狼の動きが止まった。嫌な予感にうなじが逆立つ。次の菜に箸を伸ばしかけたままの、極めて不自然な姿勢のまま徳妃を振り返った。
すると話していた徳妃と話していた宦官も振り返った。目が合った途端、それまで意気揚々といった表情をしていた柏がにやりと唇を持ち上げる。
そう。嫌な予感というのは当たるものだった。
「承乾宮の帝姫様の、正式な笄礼の儀が決まったよ。お輿入れ先も、皇后陛下の遠縁にあたる班王の若君が皇后陛下の打診に対して是非にとお申し出くださったとのこと」
「班氏といえば先々代の帝姫様もご降嫁なさっていますね。若君は、ええっと、今おいくつだったかしら……でも班王領の方々も、きっとお喜びでしょう」
「そうですなぁ。これで皇族と班王家の結びつきも強くなりますし、きっと賢妃様のご実家である瑛家も安心なさるに違いない」
詳しく教えろ、と喉まで出かかった声を白狼は無理やり飲み込んだ。卓の近くにはまだほかの侍女もいるし、下座には下女たちも何人か座っているのだ。
柏の話を聞いてぽかんとしている者、話の内容を察して無邪気に華やいだ声をあげる者など反応は様々だ。白狼一人が眉間に深い皺をよせ、険しい顔をしている。一般的にはめでたい話なのだから、その表情はよしなさいと柏から小声で指摘されるがそんなことに構っていられる余裕はなかった。
問い質したい、が話すことができない。ぐっと唇を噛んでいると、隣の徳妃がそういえばと口を開いた。
「笄礼の儀はいつ頃になるのでしょう。お輿入れの準備も入念にしなければならないでしょうし、帝姫様もお忙しくなりますね」
ああ、と柏は頷いた。
「年が明けたらすぐに笄礼の儀式を行い、春前には後宮を出られるように準備をということでしたよ。後宮全体で忙しくなることでしょう」
「それでは儀式の準備で妃嬪の打ち合わせも増えますね。わたくしはどのくらいお手伝いができるかしら」
「徳妃様のご出産は正月前になるでしょう。それまではお打ち合わせにはご自身でご出席をお願いいたします。その後はお身体の具合次第といったところでしょうかね。永和宮に割り振られた仕事の采配は、私が代わりに」
「お願いしますね。お祝いの御品もなにがいいかしら。いくつか候補を選んでおいてください」
「そうですな。豪勢にお贈りしましょう」
豪勢にというのがどういった程度なのかは分からないが、柏は輿入れに対して嬉しさを隠しきれないようだった。銀月の正体を察しているはずなのだから、自分の手を煩わせずに後宮から跡継ぎ候補を消せることが喜ばしいのかもしれない。
白狼は口の中で小さく舌打ちをした。年が明けてすぐに笄礼の儀が行われるとなると正直に言って時間がない。あと月が二回丸くなったら終わりだ。なんとかそれまでにここを抜け出し、銀月を逃がさなければと焦燥感が湧いてくる。
しかしじりじりと腰が落ち着かなくなった白狼をよそに、徳妃と柏の話は続いていた。
「あと、そういえば乳母の手配はどうなっています?」
「それはつつがなく。柏家の縁者につい先日赤子が産まれた家があるそうですので、そちらに打診をしております」
「ありがたいことですね。受けて頂いたら誠心誠意こちらでお世話をさせて頂くので、としっかりお伝えしてください」
「承知致しました」
「朱充媛のお身体は大丈夫かしら。そちらにもご懐妊の贈り物をしなければならないですね」
「それは不要でしょう」
ぴしゃりと言い放つ柏に、徳妃が首を傾げた。
朱充媛といえばついこの間の宴で懐妊を発表した紅花のことだ。
「朱家の娘の懐妊、皇帝陛下の御子ではないという噂が出回っており、近々冷宮に送られると……」
「まぁ……。でもこの間、皇帝陛下自らが充媛に召し上げるとおっしゃったばかりですのに」
「……証を持っていなかったのですよ」
白狼の胸がどきりとする。紅花の持っていた証しの宝玉は、いつぞや拝借したまま結局白狼の部屋の籠に入れっぱなしだ。
しかし皇帝と尚宮は新たに下賜するという話にしていたはずだった。それが反故にされたのだろうか。
下女や侍女に面白おかしく聞かせる話ではないせいか二人の声がやや小さくなる。おかしな雲行きに、白狼は耳をそばだてた。
「あの玉をお持ちではなかったの? ……それでも、陛下がお認めになって新たに下賜されれば……」
「宝玉を作る細工師からの献上が止まったそうです。理由は分かりません。ただ、証がなければ陛下の御種とは言えないと、皇后陛下が今朝お達しを」
「朱家と、曹家は……」
「おそらくは、連座となります。良くて官位のはく奪。悪ければ――」
徳妃の喉がごくりと鳴った。




