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月華麗君とりかへばや物語~偽りの宦官が記す後宮事件帳~  作者: 葵一樹
後宮の偽女官

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横溢の薫香④

 ところが白狼の足は手習い部屋の近くに行くにつれて重くなった。

 くしゃみが止まらないのだ。数歩進んではくしゃみ、また数歩進んではくしゃみというように、下女たちの部屋近くに来た途端、いつぞやのように激しいくしゃみが出るようになってしまった。

 これでは隠密の行動など無理だ。白狼は袖の一部で口と鼻を覆う。においはよくわからないが、この症状はこの間の朝に徳妃の部屋で起きたものと同じだろう。とするとこの辺りにあの香が焚かれているのかもしれない。

 こんなに騒いでは見つかるかもしれない、引き返すか、と白狼は辺りを伺った。しかし何かおかしい。

 その違和感の正体はすぐに分かった。

 何度も大きなくしゃみを噛んで堪えたが、それなりに音がしているに違いないというのに誰も部屋の外に出てこないのだ。

 永和宮の下女たちは幼い者が多く、夜の仕事は基本的に年長や成人している侍女たちが担う。下女たちは夕餉が終わると多くがその日の仕事を終え、さっさと就寝するのだ。だがいくら幼いといえども食事を摂ってすぐに全員が寝るわけでもあるまい。

 何人かは起きていたり、年が若いからこそおしゃべりに夢中になったりするのではないか。

 そう思っていたのに、下女たちは全員もれなく自室に帰り眠っているらしい。しかもその眠りは相当深い。壁を挟んだ屋外とはいえ何回か白狼がくしゃみをしているというのに、一向に起きてくる気配がないのだ。


「……そんなにぐっすりと、寝るもんかね……」


 同じ年ごろだったころ、白狼は既に一匹狼として町場で一人寝起きしていた。宿をとることもあれば野宿することもあった身からすれば、いくら後宮、しかも室内であっても前後不覚になるほど熟睡することなどありえないと思っている。しかも一応ここは奉公先である。

 呼ばれたらすぐ起きられるのか、と静かな建物の外で白狼は首をひねった。

 しかしそんなことでぼうっと立ち止まっているわけにはいかない。

 起きてこないならそれはそれで好都合だ。可能な限り、この宮の中で怪しいものを探ったほうが有意義だろう。

 白狼はあの夜見つけた手習い部屋の窓をそうっと開けた。

 鼻先を乾いた墨のにおいがくすぐった。中を伺っても、案の定誰もいない。みんなすっかり夢の中といったところか。耳をすませば、正房の二階からはまだにぎやかな人の声がする。ならば、と白狼は部屋の中へと忍び込んだ。


「さあて。手本はどこだ……」


 以前忍び込みに失敗したからには、柏が警戒して手本や燕の手蹟になるものなど隠してしまっていることだろう。しかし他の下女の荷物に混ざっていたりするかもしれない。それに賭けるつもりで、白狼は棚に片づけられた文箱に手を伸ばした。

 棚は木枠でできた一つ一つに下女の名前が記されている。文字が読めないうちは絵で判別できるように、小さな花や虫などの絵も描かれていた。

 いくつかの文箱を空けて中を改めていると、そのうちの一つが「当たり」だった。小さく三日月の絵が描かれた文箱の硯の下に、折りたたまれた手本が入っていたのだ。手早くそれを引き抜いて白狼は懐に突っ込んだ。

 これを銀月に渡せば、何か調べが進むかもしれない。達成感に胸を高鳴らせながら硯をもとに戻そうとすると、なぜか文箱の中で据わりが悪いことに気が付いた。あれ、と思って硯をひっくり返すと、そこにはこれまた小さく折りたたまれた紙が貼りついている。

 書き損じの紙だろうか。手本の紙とうまく折り合って、文箱の中に納まっていたのだろう。手本をどかしたので据わりが悪くなったのか。白狼はその紙も硯から取り外した。

 しかし何気なしにその紙を広げ、月灯りに照らした白狼の手が止まった。

 小月、來子、小花などと下女たちの名前が書かれている中に、燕の文字があったからだ。筆跡からそれらは一人の文字ではなく、それぞれの書き手が書いたものと分かる。燕の文字は、以前もらった手紙に書かれていたもの同様に蚯蚓が這いずった後のような筆致で書かれている。


 ――燕の字だ!


 白狼はその小さな紙を掻き抱いた。ぐっと声をあげそうになるのを堪えるが、鼻の奥がつんと熱くなるのは止められない。どこかにあるかもしれない、という期待はあったが実際に見つけてしまうと気持ちの抑えが利かなくなった。

 白狼は声を殺して泣いた。喉の奥が熱く掠れ、腹から黒く煮えたぎった塊が溢れそうな錯覚すら覚える。それが殺意なのか、怒りなのか、それとも他の何かなのかはどうでも良かった。

 柏が何と言おうと、燕が何かの陰謀に巻き込まれた挙句に自害に見せかけて殺されたも同然であることは明らかだ。どういった理由があれ、燕が死にたくて死んだわけではあるまい。追い詰められ、それしか選択ができないように操られたのだとすれば、それは白狼が一番嫌いなやり方だ。

 絶対に真相を明らかにしてやる。でなければ自分自身が納得できない。

 浮かんだ涙を乱暴に拭った白狼は、煌々とあかりが灯る正房の二階を睨みつけたのだった。



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