永和宮の囚われ女官②
さすがに皇帝による夜のご訪問となると、下女達の出番はない。卓が広げられた徳妃の寝室には最低限の給仕に携わる侍女が二人と、柏、そして徳妃と白狼だけが残された。残りはみな部屋へ下がったり門や通路の番をしたりと、緊急の呼び出しがない限りは正房へはやってこないらしい。
部屋に焚かれた香は徳妃の乳香よりもっと鼻をつんっと刺すとげとげさが加わったもののようだった。妓楼街に漂うにおいによく似ている。そこで使われているものよりうんと上等な香なのだろうが鼻について仕方ない。くしゃみが出そうなのを必死にこらえていると、表に控えていた侍女が皇帝の来訪を告げた。
「ようこそおいでくださいました、陛下」
扉が開きうやうやしく徳妃が頭を下げると、柏も、残っていた侍女も拱手で平伏した。もちろん白狼もである。ああ、という声とともに固い靴の音とさらさらという衣擦れの音が室内に入ってくる。それと同時に鼻先を甘い香り、いや、部屋に充満するそれよりもっと甘ったるい香りが掠めた。
どこかで嗅いだことがある。どこだっけ、と記憶を掘り起こしているうちに足音が部屋の中央まで差し掛かった。気だるげな声で楽にせよ、と言われ頭を上げるとそこには白っぽい着物に濃い紫の上着を羽織っただけの随分と楽な恰好をしている皇帝がいた。
侍女の一人にすすめられた椅子に腰かけているその顔を見た瞬間に香の記憶が蘇る。ああ、このおっさんの香だった。中秋節の準備をしているときに至近距離で嗅いだ香だ。うわあ、と白狼はその時の記憶を呼び起すのを止めた。あんなおぞましい記憶は封印したままにしておくに限る。
そして首を振りかけた白狼がふと皇帝の後ろを見ると、そこには白い着物をきた宦官が一人立っていた。
お付きの者だろうか。主席宦官の昌建ではない。いい加減年季の入った宦官である昌建はその体つきも他の宦官の例にもれず丸みを帯びている。今夜ついてきたやつはどちらかと言えば柏のようにひょろりとした体つきだ。そして顔色が悪くひどいクマが目立つ。
こんな奴いたっけ、と白狼がまた乾清宮の面子の顔を記憶からひっぱり出そうとしていると、皇帝は鷹揚に頷いて立ったままの徳妃を手招きした。
「急に徳妃の顔を見たくなったのでな」
「ありがたきお言葉にございます」
「体の具合はいかがじゃ。健やかに育っておるか?」
はい、と徳妃は微笑む。そして招きに応じて皇帝の隣の椅子へと腰かけた。腹が重いのか、動きは緩慢だがそれを見守る皇帝の目はいつになく優しい。皇后の前でびくびくと怯えていたり、銀月の宮で頼りない顔をしていたりする姿しか見ていない白狼にとって、これはやや意外なことだった。
まあ、乾清宮で仕事をしているときは普通のおっさんだったっけ。とは思うが。
和やかに皇帝と徳妃が話を始めたのを見て、給仕の侍女が卓にいくつか夜食と酒を並べ、また小皿にごく少量ずつとりわけ始めた。促された白狼は徳妃の後ろに設けられた小さな卓でそれらを口に運ぶ。
ごくごく私的な「会食」ではあるが一応は毒見をしなければならない。こんなところで皇帝に毒を盛ったりしたら、宮の者はもちろん一族郎党とんでもねえことになることは分かってるだろうに、とは思うがこれも仕事である。
これみよがしにもぐもぐと食べて見せると、皇帝はそれを合図に自分の前の酒杯に手を伸ばした。杯に近づけた鼻をひくつかせ一口飲む。するとその顔が綻んだ。
「ずいぶん香りのよい酒だが、これはどこの物かな」
「郷の方から贈られたものにございます。今年は大層出来がよかったそうで、ぜひ陛下にもと文がついておりましたわ」
「そうか。良いものをありがたい」
「どうぞご存分にお楽しみください」
徳妃自ら酌をすると、皇帝はそれを片手に傍らに控えた柏を振り返った。
「せっかくの良い酒を一人で飲むのはつまらぬ。柏。そなたも付き合ってくれんか?」
「いえ、滅相もない」
「たまには良いではないか。もうこんな夜更けじゃ。そうだ、碁でもやらんか」
のう、と皇帝が空の杯を柏に押し付ける。徳妃が頷くのを見た侍女の一人は窓際に片づけてあった碁盤と碁笥を、もう一人はそれを置く卓を素早く用意し始めた。柏は困ったように、しかし人の好い笑顔を絶やすことなく、勧められるままに卓に付く。どうやら本当に碁を打つらしい。
碁笥の蓋が開くと、白と黒の碁石が燭台の灯りをまろやかに反射した。ぷっくりと艶のあるそれらを見て、白狼は白石を打つ銀月の指先を思い出した。
「皆はもう下がってよいぞ。帰る際にはまた呼ぶ」
「陛下、今夜は随分とご機嫌がよろしくていらっしゃる」
「久しぶりに仕事が片付いた上、今夜は皇后がおらぬからなぁ」
「まあ……」
ほほほと口元を隠しながら徳妃が小さく笑った。
皇后が居ないとはいったいどういう事だろう。
しかし現金なものだ、妻が不在だからといって妾の家に意気揚々とやってくる助平爺か。しかもそれを声高に言うなど、市井でやったら奥方にぶち殺されるだろうに。
白狼は白々しい気持ちを押し殺し、拱手した。柏も仕方なさそうに手を振り、白狼と侍女に下がるように合図を出す。なんだかんだ言いつつも皇帝に付き合うらしい。
まあ、仕事が終わったんなら部屋に帰ろう。どうせ隣だ。何かあれば呼ばれるだろうし、どこでなにをするわけでもない。寝ちまうか、と白狼は徳妃の寝室から退出した。
二人の侍女も部屋から出され、皇帝に従って付いてきた宦官も一礼して退出をする。みんなが部屋からでて扉を閉めると、侍女たちはやれやれと言った風に首を回しながら去っていった。とはいえ正房の一室で待機はするのだろう。夜食でも食って時間を潰すに違いない。
廊下の向こうに消えていく彼女たちの背中を見送りながら、そういえばお付きの宦官はどうするのだろうと白狼は振り返った。妃嬪の宮で休むわけにもいくまい。一旦帰ったりするのかな、と。
そう振り返ったはずだった。――はずだったのに視界が塞がれた。同時に身体をぎゅうっと拘束される。
頭ごと抱きすくめられていると気が付いたのは、顔の周りが覚えのある花の香に包まれてからだ。
濃密な妓楼のような甘ったるにおいではない。衣に鼻を近づけないと分からないほどほのかに焚かれた、柔らかく、涼やかな花の香だ。
それが分かった途端、振りほどこうとする腕から力が抜ける。
「静かに……」
白狼、と耳元で呼ぶ声に心臓が跳ねた。




