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月華麗君とりかへばや物語~偽りの宦官が記す後宮事件帳~  作者: 葵一樹
後宮の偽女官

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永和宮の囚われ女官①

 徳妃の衣に焚き染めてある香は、花の香りを主とする銀月のものとは異なり濃厚な甘さの中にちょっとつんっとした刺激が混じったものだった。乳香とかいうのが混ざった大層高価なものらしい。

 惜しげもなく女官にも使わせているあたり、徳妃の実家はよほど裕福なのだろう。白狼は着せられた衣の裾をつまんで鼻を近づけてみた。嗅ぎなれないにおいにむせそうになるが、ぐっと声をこらえる。徳妃の隣に立つ柏がちらりとこちらへ目配せした。


 ――へいへい、黙ってますよ。


 心の中で舌を出しつつ、白狼は裾から手を放して椅子に腰かける。それが合図となり、戸口に立つ下女が部屋の扉を開けた。

 そろぞろと尚食局から運ばれた膳が、徳妃と白狼の前に並べられていく。今夜の夕餉は鴨の煮込みらしい。生姜が効いているらしく器の蓋を開けるとさわやかな香りが鼻腔をくすぐった。

 しかし惜しいことにやや冷めている。銀月の宮では厨房で小葉が腕を振るうためあたたかい物はむしろ熱いくらいの状態で卓に並ぶが、永和宮は尚食局から運ばれたものを食べるらしい。

 へえ、と白狼は少しだけ感心した。

 懐妊している四婦人の一人にしては用心が足りないのではとも思うが、これも「尚食局を信頼している」という姿勢を明らかにするためだろう。これも柏による作戦の一つか。

 それはそれとしてさすがに後宮の妃嬪に出される公的な食事である。冷めてもにおいは上品で美味そうだ。くんくんとにおいを追っていると、すぐに白狼の前に小皿が並べられた。どの皿にも箸でひとつまみずつ、徳妃の膳から取り分けられたものを乗せられていく。

 配膳の係になっている下女が、おずおずとそれらを白狼に進めた。

 白狼はこくりと頷いてそれらを一口ずつ箸でつまむ。においを嗅いだり、色を見たり、そして口に含んで舌の上で転がす――真似をする。毒見の作法などまるで知らない白狼が、こうするのだと教わった通りの動作を繰り返した。そしてゆっくり嚥下し、またこくりと頷いて見せる。

 これで「毒見」の完了である。部屋の中の空気がほっとしたものに変わり、数人の侍女が大きな丸い卓を出した。それを見てすぐさま下女達がきゃっきゃと笑いながら食事を分けはじめる。そして円卓にどんどん小皿が並べられ、侍女や下女達が椅子に座ると一斉に食事が始まるのだ。


 ――まだ慣れねえや。


 白狼は黙って徳妃の後ろの席に着いた。その席にも食事がとんとんと並べられる。下女にありがとうという意図で手を合わせるが声は出さない。口の利けない下女を不憫に思った徳妃が毒見の侍女として雇いあげたという設定だからだ。しゃべると白狼と気が付く者がいる、という柏の命令である。

 永和宮に人質として引き取られて十日ほど。女物の衣装を着せられ顔に満遍なく化粧を施された白狼が、承乾宮の小柄な宦官だとは誰も気が付いていないらしい。

 小さく細い体つきの白狼は、永和宮の女たちから見て本当に栄養不足のかわいそうな少女に見えるのだろう。不便はないか、食事は足りているかなどいろいろ気を使ってくれた。気を使うなとも言いたいし、礼も言いたいが白狼は徳妃の近くに侍ることを命じられ柏が目を光らせているためそれもままならない。せめて礼の気持ちだけでも、と白狼は常に下女達に手を合わせていた。


 また、あの後から承乾宮の動静は全く知らされなくなった。銀月に何を言ったのかも分からず、対する銀月がどう答えたのかもわからない。成人となる笄礼の儀がいつ行われるかも、輿入れ先がどうなるのかなどといった情報も遮断された。

 捨てられた自分が知る話ではないのだろう。しかしできれば無事でいてほしいと願うくらいはしたい。銀月の正体については、自分がおとなしくしていれば今のところ急に柏が騒ぎだてることもないだろう。それで良しとするべきだ、と思う。


 ちょっと冷めているが美味い食事を終え下女達が片づけを始めると、自室に下がる徳妃とともに白狼も広い居間を出た。現在、白狼の仕事は食事の毒見だけだ。徳妃の隣の部屋をあてがわれ、仕事のない時間はそこに閉じ込められているという、実質軟禁状態である。

 ぽっと出の女官が徳妃の隣に侍るなど、古株の侍女が怒るのではないかと思ったがそれも無い。徳妃が不憫に思っているといって皆引き取られ、柏が皆に希望を聞いて仕事の割り振りをいるため異を唱える者はいないのだという。永和宮は徳妃の人柄によって調和が取れており、そして最側近の宦官・柏によって完全に統制されていた。

 柏がどういう思惑で自分を手中にしようと思ったのかもいまいち見えなかった。承乾宮に返せば燕のことで騒ぐからそれを防ぎたい、というのは分かるが命を取らない理由まではそれで説明できない。捕らえたまま物置にでも放り込んでおけばその目的も達せられるだろうに、こうやって侍女まがいのことをさせているのはなぜだろう。


「柏さまぁ」


 徳妃、柏とともに奥へ下がる途中、下女が慌てたように駆け込んできた。翠明なら拳骨ものだが、ここではそれもない。にこにこしながら柏が下女の前に立つと、少女は息を切らせながらお遣いがきたと言った。


「お遣いの方? どちらの方かな?」

「宦官の方です。皇帝陛下の先触れだとおっしゃってました」

「陛下の? 今日はおいでになるとは伺っていないが……」


 柏が首をかしげる。徳妃もゆらゆらと視線を彷徨わせ、一瞬だけ白狼と目を合わせた。ぱち、とお互いの視線が合致し、そしてすぐ離れる。何か言いたいことがあるのか、と思うが尋ねるわけにもいかず白狼もわざとらしく首を傾げて見せた。

 あの夜以降、常に柏が引っ付いているため二人で話をすることもできないままである。夜に忍び込んで話をしてやろうかと思ったが、寝室にも柏がいたのですごすごと引き返す羽目になったのは引き取られて一日目のことだ。


「急に徳妃様のお顔を見たくなったのですって。これからじきに参りますとのことでした」

「なんと。それは大変だ。すぐお迎えの用意をするようにみんなに伝えておくれ」

「はい! お夜食もお持ちしておきますね」


 下女は元気よく返事をすると、またぱたぱたと走って表へ出ていった。それを見送りながら柏がつるりとした顎を撫でる。


「先日の荒れ模様で、ますます徳妃さまへのご寵愛が深まったということですかな」

「……そうですね。ありがたいことです」

「お夜食と御酒をご用意しましょう。徳妃様は大事なお体ですからお召し上がりにはなれませんが」

「一番良い御酒をお出ししてください」

「御意。白玲、君は毒見だ。君もおいで」


 そういうと柏は徳妃の手を取り、今来た道を引き返したのだった。


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