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月華麗君とりかへばや物語~偽りの宦官が記す後宮事件帳~  作者: 葵一樹
妃嬪の徴証

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追憶の面影①

 盗人として処罰されかけたあの日の夜と同じく、お待ちくださいという凛とした声が聞こえた。

 ひゅんっと風を切る音が耳をかすめる。切っ先が軌道を変え、白狼の目の前に人影が現れた。薄く軽い生地で出来ているのだろう、床に付くかどうかぎりぎりの長さの白い裳が揺れている。

 白狼の頭上で宦官の舌打ちが聞こえた。


「……このような時間まで起きておられるとは、お身体に障りますよ」


 徳妃様、という柏の声は苦々しい。それまでどこか余裕がある風だったのに、急に態度が固くなった気がした。


「眠れぬからと散歩に出てみれば、いったい何があったというのですか」

「なに、どこからか迷い込んだねずみが宮を荒そうとしていたのでね。退治しようとしていたところですよ。すぐ済みますので、どうぞお休みください」

「退治など……そんな……」


 慄いたように徳妃の声が震える。彼女は何も知らないのだろうか。だとすると、事の黒幕は柏か。ある意味ほっとして、しかしその代わりこの宦官が人の好さそうな演技を続けて自分がすっかり騙されていたことに余計腹が立つ。憎悪を込めて睨みつけようとするが、上に乗った柏はひょろい割に微動だにしない。本当にこいつは文官あがりなのか。押さえつけられたままの白狼は息苦しさに呻いた。


「まだ子どものようではないですか。無体なことは止めてください」

「そうはおっしゃいますが、間者を放っておくわけにもいきますまい。身重の貴女を守るためだ」

「しかし!」

「騒ぎたてなさるな。お目に付くところで始末するのがお嫌であれば、宮の外に連れて行きますゆえ……」

「わたくしの身を案じてくださるのは存じております。でもつい一昨日燕が亡くなったばかりです。宮の子どもたちにこれ以上人の死に触れるようなつらい思いをさせたくありません」

「だから外でやりますと申し上げておりますよ。燕の件もなにも、あの子は自ら罪を犯して自害したのです。貴女や宮の者が気に病む必要もない」


 いけしゃあしゃあと燕を自害と片付けた柏に、ざっけんなと白狼は吐き捨てる。すると徳妃が息を飲んだ。


「その子は……承乾宮の……!」


 小さく叫び声をあげると、徳妃は柏の剣を持ったままの右腕に縋りついた。


「お止めください……! お止めください柏様! それだけは何卒!」

「徳妃様、危のうございます……」

「お願いです、お止めくださいっ。この子は助けて……! 白玲……!」

「明玲!」


 柏が鋭い声で制する。その声音は主に対する物言いではない。しかし白狼は自分の耳を疑って動きを止めていた。この場で聞くはずのない名が徳妃の口から漏れたからだ。

 白玲。それはかつて白狼が産まれた村で、白狼を産んだ女とその夫が娘につけた名前だった。女であることを捨て、村を飛び出した時に忌々しい記憶とともに捨てたはずの、白狼の名前だったのだ。

 その名を知っているのは故郷の村にいる者だけだ。しかしあんな辺境の田舎に住む民が帝都の後宮にいるはずなどありえない。村の者はそのほとんどが村で死ぬ。近隣の縁者同士で婚姻を結び、細々と、しかしゆっくりと衰退していく村にそれ以外の選択肢などない。女衒に買われていったり戦に駆り出されたりしてよそで死ぬものもいるが、それはあくまで例外だ。

 白狼の本名を知り、そして村に残っていない女など一体誰が……と白狼の頭に浮かんだ者がいた。

 黒花が言っていた。徳妃と白狼が似ているのではないかと。まさかという思いで白狼は回らない首を必死に回して徳妃を見上げた。必死の形相をして柏に縋りついている徳妃は、夜だからか化粧も落としている。その顔は、髪や眉を美しく整えられてはいるが全体に幼い造りをしていた。

 それらは古い記憶の中で確かに見覚えがあるもので、この数年はぼんやりと思い出すだけの存在――。柏が口にした名は、その女の名だ。

 昔の面影を残す彼女を見た白狼の脳裏に故郷の村の風景が浮かぶ。粘土で塗り固めた古い土壁に木の枝や藁を乗せた屋根の「家」。実りが悪い麦と、僅かばかりの野菜が植わったでこぼこの「畑」。痩せているのに目だけはぎらぎらとしている子どもたちと、それを引き連れて畑仕事をする親父ども。繕い物をしながら炊事をしたり、薄暗い家の中で着物をはだけさせ乳飲み子を抱いて呆けていたりする女。

 古い記憶が一気に蘇った。

 捨ててきたはずのものが音を立てて迫ってくる錯覚に襲われ、胸の奥から黒いものがせり上がってくる。しかしその間も徳妃と宦官は白狼の上で争っていた。


「口を噤め、明玲……!」

「お願いです、柏様。白玲の命はお助け下さい……!」

「このまま逃がしてやるわけにはいかない」

「妹なのです! この子はわたくしの妹なのです、だから……!」

「い、妹?」

「たった一人の妹なのです……! お願いします……!」


 ついに徳妃が柏に縋りついたまま泣き出してしまった。しばらく無言で彼女を振りほどこうとしていたが、次第に宦官の動きが鈍くなっていった。そしてぼろぼろと大粒の涙をこぼして懇願する妃に根負けしたのか、柏が剣を手放す。からん、という乾いた音が室内に響いた。


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