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月華麗君とりかへばや物語~偽りの宦官が記す後宮事件帳~  作者: 葵一樹
妃嬪の徴証

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前門の虎③

 渋る周に頼み込み水を張った桶と柄杓を持って戻ると、女官はまだ荒い息を吐きながら膝をついていた。盛大に吐いた割に生きている。一見して周は毒物によるものではないと判断したらしく、白狼と顔を見合わせると駆け寄って女官を抱き起した。

 流行り病であるかどうかは分からないが、今のところそんな噂を聞いた覚えもない。ままよ、と白狼は柄杓に汲んだ水を差しだす。


「大丈夫か、飲める?」

「あ……ありがとうござい……ます……」

「口ん中気持ち悪いだろうからまずすすいで。それからゆっくり」


 女官はゆっくり頷きながら数回口をすすぎ、それからちびちびと水を飲んだ。嚥下が刺激にならないかとひやひやしたが、吐き気の山は越えているのかごくりと喉がなっても女官の腹や背はうねることがなかった。


「どうする? ぎ……姫様の侍医のおっさん、呼ぶ?」

「馬鹿をいうな。あの方は高位の妃嬪しか診察されない。具合が思わしくないなら医局まで運ぶが、どうする?」


 やや落ち着いた様子を見て周が問いかけると、女官ははっとしたように首を振った。血の気の引いた顔は青ざめ、カクカクと歯を鳴らしている。


「だ、だめです……。医局に行くのは……」

「どういうことだ。下女だろうと、女官であろうと医官の診察は受けられる。薬を飲めば楽に……」

「だめなんです! これは、これは……薬も……!」


 医局や尚宮様には言わないで、と女官は周の袖に縋りついた。いやいやと首を振り、青ざめて取り乱す様子は尋常ではない。銀月など軽々と放り投げられるほど屈強な周が、女官が縋りついた袖を振りほどけずに揺さぶられている。


「しかし、その様子では仕事に戻るにも……」

「だめ! 言わないで……っ!」

「そなた、どこの所属だ? 上官には私の方から説明をしておくからまずは医局に――」

「いや! だめなの、医局にいったら、これは……!」


 埒が明かない。宮の外でこれ以上騒げば、通りに面した他の宮の女官や宦官たちが声を聞きつけて野次馬のごとく集まってしまうだろう。


「なあおっさん、一旦うちの宮で休んでもらえば……? 俺、責任もって診てるから」


 白狼がおずおずと切り出す。もちろん内門の中には入れず、正房から一番遠い側座房そくざぼうの一室でちょっと休ませて落ち着いたらすぐに帰ってもらえばいい。主の安全を第一に考える翠明には叱られるかもしれないが、このまま放っておくのは何となく後味が悪い気がした。

 困った顔をしていた周もそこは同意見だったらしく、二人は懇願する女官を承乾宮へと運び込んだのだった。




 ★ ★ ★ ★ ★




 案の定、女官を宮に入れたことについて事情を説明するも、翠明は思い切り渋い顔をした。しかし周と二人で懇々と説教をされることを覚悟したが、さすがに体調が悪い者を放っておける性分ではないらしい。自ら寝台を整えるなど率先して世話を焼こうとしてくれるのはありがたいの一言に尽きた。

 そして翠明の情報力から、運び込んだ女官は曹そう婕妤しょうよという中位の妃嬪に仕える侍女で、朱紅花しゅ ほんかという名だということが分かった。まだ二十になる前の女で、仕事の途中で気分が悪くなり蹲ってしまっていたのだという。

 ただ、紅花は頑なに曹婕妤の宮へ連絡を入れられることを拒んだ。


「なぜ、婕妤様にお報せしてはいけないのです?」


 翠明に優しく問われても、寝台に横になった紅花は首を横に振るだけだ。さっきの怯え方を見ればとにかくこの体調不良を表沙汰にされたくないという事は分かる。それは分かるが、よその妃嬪の侍女を無断でいつまでも預かれるわけではない。

 さてどうしたものか、と翠明は傍らに立つ白狼を見上げた。厄介ごとを持ち込んだ自覚がある白狼は首を竦めるしかない。周はさっさと仕事に戻ってしまったので、何か言われる場合は一人で受け止めなければならないとこっそり覚悟を決める。

 そこに、扉をこんこんと叩く音が聞こえた。翠明が応じると、顔を覗かせたのは小葉だ。厨房で何か作っている最中だったのか、前掛けをしていて長めの袖は紐で括り上げている。締め切った部屋の中に、小葉が纏った炒め物の香ばしく美味しそうな匂いが漂った。ぐう、と白狼の腹が鳴る。

 小葉は一瞬ちらりと寝台の女官へ目を走らせ、すぐに翠明の前に出て耳打ちをした。


「翠明様、そこの方、何かお腹に入れるものをお持ちしたほうが良いでしょうか」

「ああ、そうですね。重湯と、あとは――」


 翠明が思案を巡らせるように上を向いた時だった。ぐ、と寝台の女官がえずいた。白狼は慌てて桶を差し出そうとしたが間に合わない。女官は勢いよく跳ね起き、背を波打たせるようにその場へ嘔吐した。

 げえげえと吐き出すものは先ほど飲んだ水ばかりだったが、つんとする胃液のにおいが部屋に充満する。よほどつらいのか、紅花はぼろぼろと泣き出してしまった。


「まあまあ……。仕方ない。小葉、手ぬぐいと新しい敷布を」

「はい!」


 勢いよく小葉は飛び出していく。白狼は取り急ぎ小窓を空けて換気をし、茶碗に水を注いで紅花に手渡した。


「も……申し訳……」


 まだ苦しかろうに寝台で平伏する紅花に、翠明は大丈夫と声をかける。紅花に寄り添うように背をさすり、寝台の前でしゃがみ込んだ。そしてまだ水ばかりではあるが処理もされていない吐しゃ物にまみれた紅花の顔に口を近づけた。


「……薬や医局を拒んでいる理由が分かりました」


 あなた、懐妊していますね?

 耳打ちするように囁いた翠明の言葉に、紅花ははっとして動きを止めた――。



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